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オリトは、何かを言う前に皆が散っていってしまい、瞬時に静寂に包まれ、胸が凍えそうになった。先ほどまで聞かされていた彼らのとんでもない話に立ち止まってしまい、すぐに手を動かせなかった。
自分ができることは、どうしてこうもちっぽけなのか。そう塞ぎ込みそうになるところ、友達の顔を頭で振り返っていく。今はまず、皆で、大きな一歩を決めねばならない。皆がそれぞれ、自分のやるべきことに向かっていった。ならば自分も、ここでのやるべきことをせねばならないと、重かった腰をようやく上げ、辺りに警戒の目を這わせた。朝になったばかりの今、まだ人の動きは見られない。
ガラクタでできた低い塀に身を眩ませ、ボートの縁に両手をかけた。そして、大きな音を立てないように、少しずつ陸を滑らせていく。その間、何度もボートに息を吹きかけた。ところが、弱々しい風しか吹いては貰えず、なかなかうまくいかない。
オリトは滲む汗を振り飛ばすと、全身の力を両腕にこめた。そして――
“押して! 押すの! 押せ、押せっ!”
大きな声を出すわけにはいかず、熱心に胸の中で強く繰り返した。すると、温かい風がどこかから吹きつけ、その勢いはだんだんと増してくる。辺りの砂を巻き上げ、砂煙が立つと、その場を隠すいい煙幕になってくれた。
ボートはいよいよ動き出し、全体重を乗せたまま、オリトは続けて念じていく。歯を食いしばり、息継ぎをし、更に大きな一歩を刻んでいく。そしてやっと、海の手前まで送り届けることができた。
マライカとジャバリが建てたガラクタの壁は解体し、元のように、片付いていない岸辺を上手く作り上げていく。そして最後に、目に留まった流木の影を使い、ボートを眩まそうと思いついた。
“早く早くっ! こっちに来てっ!”
気持ちに導かれるように風が流木を押し、それはドコドコと浮き沈みを見せる。流木は、オリトが呼び起こす風に運ばれていくと、枝の影と幹でボートを隠してしまった。
ひと仕事を終え、オリトはその場を後にする。その際も、後の三人がそれぞれに役割を取り繕うように、不要なガラクタを処分しに来た者になりきって歩いた。
肌の泥汚れは乾き、白くなって痒い。素足であらゆるところを歩くおかげで、傷が赤く滲んで目立つところもある。それでも、前に進むことだけを考えた。痛みや痒みなんて、先に出かけた三人やアシャのことを思えば、うんと後回しにできてしまう。
そして力を振り絞り、背筋を立て直して拠点に戻る時だった。近くで瓶が割れる音がし、思わず振り向いてしまった。見るとそこに、どこかで見覚えのある年老いた男性が、いやらしく笑いながら瓦礫の上に座っていた。
「母親に伝えておいてやる。棚の下に追いやっていた“使い魔”が奴隷として生きていると」
故郷の言語で話す男の口調や内容から、オリトは、マーケットで屋根の修理材料を売り歩いていた彼だと悟った。
「その目つき……一体何が、お前をそうさせてる?」
男は少し離れた岸辺に首を向け、わざとらしい視線を送ると、また、ねっとりとオリトを見下ろした。
オリトは男から目を逸らさなかった。思い出すほど不快だった。彼は一体いつからここに居たのだろうか。他の仲間達のことも、彼は見届けていたのだろうか。そんな疑問が表情を歪めてしまわないよう、意識的に睨み続けた。今この男に向けてよいのは、母と自分を不安に陥れた際に芽生えた感情だけだ。
「ただお酒を空にして過ごす貴方に、ムワンバは何て言うかしら」
「奴とは情報と酒で取引してる。今朝のコイツは一段と美味いもんだ」
細い酒瓶を掲げる男の細めた目は、まるで茂みからじっと獲物を見つめて舌を出す蛇だ。
オリトは腹の底で燻さる怒りが、いよいよ炎として姿を見せはじめようとした時、ぐっと息を呑んだ。
「自分さえ自由であれば、いいと思うの?」
「綺麗なものに目がない餓鬼らしい質問だ。この地で暮らしておきながら、ぬけぬけと」
男は含み笑いすると、商売道具を手に立ち上がった。
「自分からその手前にあるモノを潤すのに手いっぱい、ってのが人間だ」
男は咳払いすると、商売道具のカゴからまた別の酒瓶を取り出し、カプカプと音を鳴らす。そして、焼かれていく喉に強く息を吐くと、オリトに向き直った。
「それこそが己を守る手段だ。己ありきの世界で、俺は情報を取引に生きることを選んだ」
男は、人一倍の記憶力を秘めた頭を指で突きながら言うと、オリトに大きく前屈みになって目を剥いた。
「俺の忠告を聞き入れた上でこの地に移った奴はわんさかいる。己の富か、家族との幸せか、或いは……“新たな自由”を求めて挑む。そいつらが選んだことだ。なぜなら、この地には職と金がある」
「暴力ばかりのところで本当に得られるものなんて無いわ」
オリトは間髪入れずに言い返すと、逃げるように持ち場へ走った。
多くのガラクタで覆い尽くされた海沿いの道を何度も躓きながら、拠点を目指した。その間、遠ざかってしまった家族やフォーティー達の顔が浮かんだ。バラバラになってしまった皆と再会したい半面、異質な目で見られる自分が戻ることで、新たな危険が待ち受けているのではないかと、視線が揺れてしまう。それはやがて足を緩め、新しい傷の痛みを伝えてくる。足に負った傷から胸の内に負った傷が、悲鳴を上げるように疼きだした。それを歯で食い止め、両手に握りしめながら、込み上げる熱いものが形作ろうとするものと向き合った。誰かが痛めつけられることや、涙すること。鞭や武器、鎖を傍らに生きること。大切な人達と会えないこと――
「……そんなものいらない」
ぽつりとこぼれた言葉が、浮かび上がったあらゆる苦しさを熱い息に吹き飛ばした。オリトは顔を上げ、砂に汚れた顔を拭うと、止まりかけていた足に力を入れ直した。
“貴方だから、皆を振り向かせて、導けるの”
そしてアシャの言葉を思い返すと、今度は目に力が入った。目の前の道にじんわりと射しこむ陽の光が、柔らかい風を起こしたかと思うと、そっと耳を這った。その風の感触は久しぶりのもので、オリトは胸が高鳴る。ゆるゆる、ふわふわと、糸と糸が紡がれていくような風は――“あっち、あっち……”と言ってくる。
オリトは眉を寄せ、その意味に目を左右させた。そしてふと、掃き掃除をする場所よりも向こう側にある、食事処の建物がある先を見やると、薄い金色の光が線を描いて消えた。
「分かった」
迷いと、ラテガの言いつけを渋るように捨てると、オリトは光の導きの方へ走った。




