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アシャは目を見開いた。なぜ急に昔のことが思い出され、子ども達の不思議な光景を見たのか。すっかり汗ばんだ顔を慌てて拭い、頭を持ち上げる。と、またしても目を疑った。足はいつの間にか廊下を進んでいたようで、とある牢の入り口の前に立っていた。
動揺に目を泳がせていると、ふと、“あの歌”が耳をくすぐってきた。自分の村の言語ではないが、この地に移るまでに通ったことのある地域で聞いたことがある。そして、少しなら意味も分かる。現実に意識が戻ってきた今だからこそ。
「……オリト?」
合間で途切れて聞こえてくる歌声は、間違いなく彼女によるものだろう。可愛らしい、でも呟くような声だ。なのに牢の扉をすり抜けてくる。
その理由を探るように、そこに忍び寄った。すると穏やかな風を感じ、汗を乾かそうとしてくる。その心地よい触れ方に鼓動が落ち着いていく。そして、しばしその場で耳を傾けていると、歌声が止まった。まだ続きがあるように思えて、それを聞きたいあまりにノブを引くと、あの夜と同じように、細い月明かりの中にオリトの顔が浮かび上がった。
オリトは、驚きと戸惑いが混ざり合うアシャの顔をじっと見上げた。彼女が纏う空気は、昼に感じた鋭いものとはかなり違っていた。
「……アシャ?」
そうと知りながらも、つい訊ねてしまった。銃を背にし、誰かから攫ったであろう砂埃だらけの軍服は、今も変わらないからだ。細身の身体にベルトで締めつけた雑な着こなしには、無理を感じる。
「模様と色があるワンピースは、どこへいったの……?」
激しく燻み、傷だらけで血の汚れが滲んでいたが、鮮やかな模様のある素敵な洋服だった。オリトは、アシャの以前の服に、いつか自分が巻いていたターバンの模様を重ねていた。母やダヨが繕っていたように、アシャもそうしていたのかと想像してしまうほどのものだった。
「綺麗なところだけを切って、エシェの着替えにした」
ギイイッと扉が閉まる音がすると、アシャはそっと、床に座り込むオリトのそばに腰を下ろした。その時、オリトの身体にかかった真っ黒な布に目が留まり、その端をおもむろに摘んだ。
少しして、オリトはアシャと目が合うと、その布を頭からすっぽりと覆い、顔だけを出した。そしてそのまま、すっくと立ち上がると、薄明りの外へ出て遠ざかって見せる。
「ほら、分からないでしょ? どこにいるか。だからボートのところに行こうと思ってた」
アシャは、マライカとジャバリがこの拠点の近くまで引き摺ってきたボートを思い出すと、オリトに薄っすらと笑った。
オリトは、いつまでも静かにしているアシャを見つめる。向けられた笑顔は、花が萎れるようにしっとりとなくなると、どこだか分からない一点をぼんやりと眺めはじめた。何か言おうとしているように感じると、その場に座り、彼女が話し出すのをじっと待った。
アシャは、オリトが大人しく座る音を聞きつけると、あることに気がつき、辺りをぐ見回した。
「ラテガはどうしたの?」
「訓練場で仕事をしてから口を利いてくれなくて……隣の部屋かも……」
仕事を共に終えてからも顔を合わせようとせず、夜になっても、これからの動きをどうするかを話し合いたかったのに、行ってしまった。杖の音はどこか力強く感じた。オリトはそこまでをアシャに伝えると、口を布で覆い隠して視線を落とした。
「あたし、魔物なんだわ」
アシャは、オリトのくぐもった声を聞き逃さなかった。
「どうしてそう思うの?」
アシャはじっと、暗闇で小さくなる彼女の言葉を待った。
「誰にも聞こえない声が聞こえるし、話すと風が吹くから……村の人も怖がってるみたいだった……多分、母さんも……あたしは許された時にしか外に出ちゃいけなかったし、髪もさらしちゃいけなかったし、大きな声で話しちゃいけなかった……」
闇に溶けてしまいそうになるオリトを見るや否や、アシャはそっと、その肩を取った。
「あなたをそんな風に呼ぶのはムワンバ達で、彼らのすることは大いに間違っているわ」
それでもオリトは、首を適当なところに逸らしてしまう。
「ラテガもそうかもね……」
アシャはオリトの落ち込む理由が何となく分かると、近頃目の色を変えるようになったラテガを頭で振り返った。思うように動けない分、耳も目も長けている。そして長い時間、じっと物事を考えていることが多い。子ども達の道標としての役割にはうってつけの能力だが、しばらく目を放していると、思考が偏りがちになる。それが目立つようになったのはオリトが来る少し前で、ボートがようやく見つかり、その修理や覆い隠す方法を編み出そうとしはじめた頃だ。
「彼の心はどうしても揺れてしまう……彼のそばにこそ、もっといてあげるべきなのに……」
アシャは言い終わると、ふらふらと首を横に振った。
オリトは、ラテガとの出来事をなぞるように振り返っていく。
「ラテガは感情を捨てろとか、あたしが住んでいたところと同じにするなとか、杖を振って威嚇した……でも物乞いをする時は声も高くて、人に笑いかけたりもする……」
そう口にした途端、アシャの目が僅かに細まった。ピリリとしたものが走ったような、痛みを堪える表情に見えた。
「怖い顔もするし、怒鳴りもする。でも食事の時はスープを分けてくれたし、外ではお父さんのことを話してくれた。それに、昼に貴方と別れてからは、幸せになってみせるんだって言ってた……」
様々な変化を見せる彼に混乱し、見放されている今は心細くてならない。そんな気持ちを話すオリトの頭に、アシャは静かに手を乗せた。その裏側で、ラテガなりに意識していることに何となく気がついた。
「彼は、たくさんの訓練を見ながら生きてきた……そのせいで、兵のすることを覚えたのかもしれない……必要な場合には、個を滅するということを……」
オリトはアシャの寂し気な目を見上げ、首を傾げた。
「ラテガが……本当の自分を、無くそうとしてるってこと?」
オリトの問いかけを、アシャはじっと噛みしめる。目標の達成が近づこうとしているからこその焦りと、同時に訪れるリスクの怖さを、ラテガは間違いなく意識しているのだろう。そして、その感情をコントロールし続けることは、どんな仕事よりも手がかかる。今や埋もれてしまいつつある“彼らしさ”に、枷がついてしまっているように思えてならなかった。
「自分を無くすことも、銃を持つことも、“自由”を得るためには何歳であれ必要なの?」
「まさか。そんなこと、もう明日の夜からはずっとしなくていい」
オリトの言葉を軽々と跳ね除けるように、アシャはさっくりと言い放つ。オリトは戸惑い、何も言えなかった。明日からという言葉が耳の中に残って離れず、あまりにも急で、視線の動揺が隠せない。
「明日の今頃に、作戦を決行する。皆でボートに乗って。だから教えて、オリト」
アシャの表情は打って変わり、笑っていた。彼女の心も同じように揺らいでいるのだろうかと、オリトはしばし、その目を穴が開くほど見つめてしまった。光のなかった瞳に、不思議と灯が見えはじめる。今二人でいるところは、外からの薄明りに一切触れていないというのに、一体何が起きているのかと、オリトは考えに耽ってしまう。
「貴方の故郷には何があるの? さっきの歌は、どんな時に歌うの?」
その問いかけはどこか弾んでいるようにも聞こえ、オリトははっとした。彼女の瞳が、ジジッと小さく震えている。その中に、先ほどから見て取れる光がある。それはきっと、何かに期待を膨らませていて――
「……楽しみなの?」
アシャは、じんわりと笑みを引き上げ、こくこくと何度も頷いた。
「ええ、当然よ。貴方が持っている経験が仲間を導いてくれると想像すれば、わくわくするじゃない」
「……じゃあ、どうして泣いてるの?」
オリトに言われ、アシャは口を止めた。言われてみると、辺りが湿っていた。それでもまた微笑み、その質問は敢えて聞かなかったことにし、その前の問いかけの答えを促そうと、オリトの腕を柔らかく叩いた。




