<10>
昼の雨を忘れ、すっきりと晴れた夜空の下では、明滅する電灯や焚火が、ぼんやりと拠点を闇に浮かび上がらせていた。割れた窓ばかりの塒の隙間や穴からは、兵達のボソボソとした話し声が聞こえてくる。拠点の周辺に点々と配置された訓練兵は、上層部兵が遠ざかる今、月明かりに慰められるように少しだけ肩の荷を下ろしていた。
夜風はいつも冷たく、マライカとジャバリは互いに身を寄せ合い、コンクリート壁に身を預けていた。しかし一度外された枷を再び着けられ、ジャバリは首から伸びる鎖に触れると、溜め息を吐きながら力なくそれを手放した。
「おなかいっぱいなのはいいけど、これじゃ、けっきょくどこへもいけっこないじゃないか」
「静かに。肉を食べられたんだから、がまんしなさい」
食事の質も比較にならなかった。骨のついたヤギ肉を頬張ったのは、生きていて初めてのことだった。だがそれを口にしてしまったからには、これまで見逃されてきたことはもう許されない。いくらいい食事にありつけたからといって、味わう余裕などなかった。頭はずっと、オリトやラテガのことでいっぱいだった。
二人は声を殺し、何かを指示されるまでじっと石のように座り込んでいた。何人かの副官や、時折ムワンバの影がチラつく廊下は、目が沁みてしょうがない煙に満ちていた。嗅いだことのない妙な臭いは、鼻がしばらく利かなくなりそうで不安になる。その異臭に紛れて聞こえてくるのは、指揮を執る兵達の高笑いだ。
「あいつら、ぼくらのことわすれてそうだよ?」
「だから何? こんなものぶら下げたまま、うろつけないでしょうが」
マライカは首を傾け、そこから垂れる鎖をこれ見よがしにさらすと、ジャバリから顔を背けた。
「アシャはこないのかな……」
「エシェといるわ、きっと。その方がいいもの」
そう言い聞かせるものの、ラテガに言われたように早くアシャと話したかった。早く話さねばならなかった。オリトがここへやって来てから、脱出計画の共有がすっかり途切れている。
「あのボート、ちゃんとあるかな……」
ジャバリの声が更に小さくなると、マライカは念入りに辺りに視線を這わせた。そして首を窄めると、ジャバリの顔に目いっぱい近づき、彼と同じようにうんと声を潜めた。
「ラテガが何も言わなかったから平気よ。彼は毎日ぜったいにそこを見るんだから」
「ぼくらがこうなったからには、あそこからはもう出られないだろう? くそっ、なんでいまなんだ……」
ジャバリは眉を険しくさせ、どこか一点を睨みつける。
マライカはすぐには何も言えなかった。ジャバリが言うように、自分達が訓練されるのはもっと先のことだと思っていた。そのことをしばし考えている内に、ある考えが浮かんでしまった。
「あたし達を使って、オリトに言うことを聞かせようとしてるのかも……」
ジャバリが大きく振り返るのが、鎖の音で分かった。マライカは静かにと、また強く指を立てる。
「だっておかしいの。オリトの力を、あいつらは近くで守ろうとしない。こうしてつないでおけば見張っていられるのに、やらない。そうしてしまうと何か都合が悪いことがあるんだわ」
ジャバリの目が、煙たい廊下にくっきりと浮かび上がる。聞けば聞くほど、その通りのような気がしてならなかった。何せ、オリトがやって来たその晩に起きたことは、頭にこびりついて拭いようがない。彼女が声によってもたらす風は、副官やリーダーのみならず、ムワンバまでもが警戒しているのかもしれない。
「ここへオリトをつれてきて、すっかりなにもかもふきとばしてもらえばいいんじゃないのか!?」
あんな巨大な兵をひっくり返せる力があるのだ。オリトが力を使えば、その間に脱出できるかもしれない。そんな動きが頭の中で際立つにつれ、ジャバリは早口になる。マライカは溜め息を吐きながら、彼に白い目を向けた。
「ほんっと、あんたはバカ。大バカよ」
「なんだよっ」
二人は糸が切れたように話すのを止めた。不意に戻った静けさに、また妙な高笑いが響く。何かに酔っているのか、それとも何かに取りつかれているのか。耳障りでならない兵達の騒ぎ、その場をむくむくと占領する嫌な臭いから逃げるように、二人は膝に顔を埋める。
ジャバリはそのまま、顔を脇の下から覗かせ、マライカを見た。その視線に気づいたのか、マライカも同じように覗いた。
「なぁ、あさまでここで、こうしてるのか?」
「でしょうね。くさりを取ってもいいって、あいつらが思うまでは」
ジャバリはうんざりした顔を両腕に隠すと、もごもごした声をこぼしてしまう。
「だったら、まえのほうがよかった。よこになれたし、もうふもあった……じゅうは、なんにもくれない」
「使えば命を守れるっ……」
マライカの躊躇いのない言葉に、ジャバリは大きく顔を上げた。そして、びくともせず顔を埋めたままの彼女を穴が開くほど見つめた。
マライカは両肘を固く握りしめ、全身で力んでしまう。震えはだんだん、鎖の音に変わっていった。それに気がついたのか、ジャバリが背中にそっと手を乗せてきた。それが一つの大きな石のようで、胸の器に収まっていた苦しみがドボンと溢れるように、声が流れ出てしまった。
「父さんと母さんをうばったやつらを、こらしめられるわっ……驚かしてやれば、道だって広げられるわっ……上手く使えるようになれば、もっとお腹いっぱいになって、お金が手に入るかもっ……そして、二度と子ども達が同じ目にあわないように、たてになるわっ……自由を勝ち取るために、あれを使わない手はないのっ――!」
つい、大声を放ってしまった時だった。ドンッと視界が傾き、咄嗟についていた両手からビリリと痛みが走った。両目を泳がせ、何が起きたのかを探ってしまう。と
「きみがバカだっ! この大バカっ!」
ジャバリの声が響くと、彼が怒りに立ち上がった拍子に煙がぐわんと退かされた。まるで耳を劈かれたようで、マライカは片耳を塞いでしまう。殆ど闇に包まれ、ぼんやりとしか互いの様子が分からなくとも、ジャバリの怒りはその姿にくっきりとした輪郭を寄こした。奥の兵士達の部屋から漏れ出る燻んだ光に、ぼわあっと浮かんだ彼の血相を変えた顔は、これまでに無いほど恐ろしかった。
あのマライカが黙り込んでいる。その目は濡れているが、また鋭くなっていった。それを見ていられず、ジャバリは思わずマライカを張り倒してしまった。
「なくな!」
そして彼女が起き上がろうとすると、更に両肩を掴み、ぶんぶん揺さぶった。やめろと抵抗するマライカに、ジャバリは声ごと覆いかぶさる。
「なくなよ! ぼくにさんざんいっておいて! しっかりしろよ!」
「痛いっ! あっち行って、バカっ!」
ジャバリはマライカの身体を何度も殴っていた。しまいには、二人は廊下を転げまわる石のようになってしまう。
その騒ぎを聞きつけた奥の兵達が、二人に怒号を放った。だが、ジャバリが涙ぐみながら大きく拳を振りかざした時――誰かがそれを掴み止めた。そしてそのまま、軽々とジャバリをマライカから引き剥がすと、ぐわんと背後に追いやった。
「黙りなさい」
二人はピタリと喧嘩を止め、声の出所を見上げた。
アシャは、二人の首から垂れさがる鎖を手早く取ると、立と言わんばかりに強く引いた。
首を急に引かれ、マライカとジャバリは転びかける。それでも容赦なく、アシャは動物を扱う手つきで、もっと鎖を引いた。
「早く!」
何度も手足をついてから、マライカとジャバリはどうにか立ち上がると、アシャに引き摺られながら暗い廊下を速足で進んだ。
「よく仕込んでおけ、アシャ。騒ぐようなら口を跳ねろ」
煙と闇でほぼ見えない筒のような廊下を、声が弾のように抜けると、幼い二人の背中をじんじん震わせた。その背中にアシャは、そっと両手を添えて温もりを与えると、そのまま二人の肩を取って引き寄せた。
「ののしり合っては駄目。大切なことが見えなくなる」
低く這うような声でひっそりと伝えてくるアシャに、二人はどうにも顔を歪めてしまう。互いに肩を抱かれるまま、アシャの腰にしがみつくのがやっとだった。マライカは胸を切りつけられたような思いで、ひいひいと細い泣き声を漏らしてしまう。それに釣られるように、ジャバリも嗚咽をこぼしてしまう。
やがて廊下を抜け、角を曲がると、激しくガラスを抜かれた窓が並ぶ通路に出た。外で何人かの訓練兵達が火を焚いており、その灯が微かな慰めをくれた。よく見ると、遠くでは久しぶりの晴れた夜空が、廃墟の合間に顔を出している。
「明るい……」
夜だというのに信じられず、マライカは洟を啜りながら声にした。
アシャは、優しい風と明るさによって足が遅くなってしまった二人を、更に押していく。
「あまり外を見ないで。ここは目が多い。もう少し我慢して」
そう言うと、アシャは二人の鎖を握り直し、半ば強く引きながら先を進んだ。




