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「静かにしろ!」
声を低く潜めていながらも、その怒号はオリトの耳の奥まで響き渡った。後ろから抱きかかえられたまま、今度はうつぶせにさせられる。オリトは騒ぎを呑み込み、その場の砂や壁の麓に視線をぐらぐらと這わせた。涙はやがて、色を失くした地面に一粒の模様を落とし、止まった。
しばし身を屈めた後、オリトの身体に絡みついた誰かの腕が解かれていく。振り向いた拍子に、安堵する息が聞こえた。
しんと静まり返ったそこに、そよそよと大人しい風が吹いた。ターバンの端が靡くのを、彼は荒々しく払い除ける。
「お前、いい加減にしろよ!」
ラテガの声に、オリトは縮み上がった。だが、膝の上で震える拳に後押しされるように、口を開いてしまう。
「父さんがっ……父さんが遠くなっていくっ……山にっ……山に消えそうになるっ……」
山という言葉に、ラテガは瞼をピクリとさせた。そして、オリトがよじ登ろうとしていた先を僅かに覗いた。山など遥か先だが、そこに向かうために馬車が出たことは、近辺を歩いていて遠目に見かけた。
ラテガは姿勢を戻すと、オリトを見た。そこには、先ほど強気でいた彼女ではなく、どこの荒野にも放浪しているような、すぐに泣いてしまうか弱い少女がいた。
「追いついたって殺される。まだ分からないのか」
オリトはうつむいたまま、キッと目を尖らせた。淡々とした言葉は、拳の震えを激しくさせる。
その手を見たラテガは口を噤んだ。そして、すっかりくしゃくしゃになったオリトの金色の髪から、見るからに重々しい首の枷を見た。細い彼女は重みに耐えるのが辛そうで、手は自ずと、その枷を少しだけ持ち上げた。それでもオリトは何も言おうとせず、顔をそむけてしまう。ラテガはそれに溜め息を吐くと、眼差しが緩んでいった。
「死んだら、継がれた息がムダになる。それは特に、ここに移って来た人が強く思っているような気がする」
しずしずと紡がれるラテガの言葉に、オリトは顔を上げた。彼の表情はまだ硬いのだが、声色に棘を感じなかった。
「山はこわい。でも、それは元からだ。自然はようしゃないことを、俺は先に、父さんの死で思い知った」
死という言葉にオリトは目を見開き、思わず前のめりになる。耳を疑う話は、またしても心を掻き立ててきた。酷く悲しい出来事を口にしていながら、どうしてか、彼は淡々としている。
「ここはもっと、終わりが見えないくらい広い大陸だった。でも、点々とした島になるまでにくずれていった。自然がやってのけたことだ。自然の中で生きる限り、解っておくべきなんじゃないかと思う」
ラテガはそっとオリトの首の枷を放すと、どこか遠くの空を見た。
「巨大地震はどうして、こんな俺を生かしておいたんだろうって思った。今もこうして苦しいのに、何で殺してくれなかったんだって、長い間考えた」
病をもって生まれたがために、周囲から恐れられてきた。或いは物乞いでいいように使われることもしばしばで、それは今も変わらない。悪魔呼ばわりもされ、周りから投げられる言葉も痛々しく、所によっては家族すら自分を遠ざけた。
そんな過去をつらつらと並べるのは久しぶりで、舌が少し震えた。
「でも父さんだけは、俺が食べ物を持ってくることをほめてくれた。“お前が家族の命を繋いでる”って……」
この時オリトは、ラテガに“子どもらしさ”のようなものを見た気がした。野良犬に似た彼から滲み出たそれは、本来のラテガに思えた。
「でも山にもってかれたよ」
カンッと、杖がガラクタを打った。
そこからの振動に、オリトの目が震えた。ラテガがどんな顔をしているのかは、ターバンの端が覆うように靡くせいで分からない。オリトはそろりと立ち上がると、山の方を覗った。黒く聳える存在から、ジャバリやマライカの話がじわじわと蘇ってくると、最後に見た父の微笑みが薄っすらと重なった。
「使えないから山に捨てられるなんて、あんまりよっ……」
父をそのように思う人は故郷にいなかった。父がいるから、誰もが光の中にいられた。この地にも見える灯もきっと、一部は父の力によるものに違いないだろう。オリトは唇を噛み、ここに佇むことしかできない自分に拳を握りしめた。
「二人から鉱山のことを聞いたんなら、それだけをうのみにするな」
オリトは、先ほどよりも少し顔を上げたラテガに首を傾げた。
その視線をゆっくりと捉えるように、ラテガはオリトを見ると、彼女の汚れたワンピースを引っ張り、座らせた。
「父さんは、世界中の人のためになる仕事をしてた。あそこに集まる人間こそ、力のある人間だ」
「力……」
そうだと呟くと、ラテガはまた遠くを見やる。
「人のために……いや、まずは家族のために、父さんは大仕事を選んだ……何日も帰らなかった……待ちくたびれておかしくなるくらい、帰らなかった……」
遠い目を向けるラテガの声が徐々に落ちていくと、オリトの足元から寒気が這い上がってきた。彼の言葉に、凍てつくような息遣いを感じてしまった。
「そして人伝いに聞いた。生きうめになったって。鉱石をほってる最中、山がくずれて」
あんなに掘るからだと、周囲は口々に言っていた。当時ラテガは、彼らの発言から、蟻の巣だらけの土を想像せざるをえなかった。そして今、それに空笑いしてしまう。
「アリの方がまだかしこい。持ち場がくずれるような仕事なんて、しないからな」
「……どうして」
不意に漏れたオリトの問いかけが、静かに風をうねらせると、ラテガの顔から柔らかにターバンの端が退けられた。それに気づかないでいる彼の眼差しは、今の空とまるで同じだった。
「どうして、そんな目に遭わなければいけないの……」
「俺も聞きたいね」
ラテガは杖を持ち直し、立ち上がった。脇に置いていた袋は、少しばかり膨らんでいる。気づかなかったオリトはそれを見ると、ラテガはそこから一つ、焼けた肉がほどよく残ったヤギの骨を出した。
「最初に食える。食料を集める俺達の特権だ」
オリトは目を丸くさせながらそれを受け取ると、少しずつ齧っていく。
「そうやって生きないといけない。父さんが歩いたかもしれない場所の近くに、今もこうして立ってるのには、理由がある気がするからな」
ラテガの静かに強まっていく言葉に、オリトは肉を剥がした口を止めてしまう。彼の目には鋭い光が宿っていた。ここを抜け出すことを考えている時の目にも似たそれは、何だか別の方角を照らしているようにも感じてしまう。
「……どんな理由?」
胸がザワザワするところ、オリトは少しずつ歩き出したラテガを追い、問いかけた。
「お前は、自分が何でここに生きて流れ着いたかを考えないのか。死んでいてもおかしくなかったのに。ましてや、風を吹かせるみょうな力を持ってる……ああ、それか、その力でここをどうにかする気で、わざと来たとかか?」
流れるように想像を語られ、違うと、オリトは慌てて首を振った。
「母さんが馬車の兵に殺されそうになったのを助けるうちに、川に落ちた。本当は神様の木のところに泳いでいきたかったけど、ダメだった」
「それ、さっきも言ってたな。無いだろ、そんなもん」
オリトは立ち止まった。ラテガの足音と、杖の音が遠くなっていく。するとラテガは、この静けさに振り返った。冷ややかな眼差しを向けられても、オリトは黙っていられなかった。
「どうして無いなんて言えるの? 見たことなければ、無いことになるの?」
ラテガの目が尖ると、オリトは身構えた。ところが、彼は何も言わずに前を向いてしまう。そして、ゆっくりとした足取りで再び歩きはじめた。
「俺は父さんと、父さんが山に呑まれた原因を信じるのが限界だ。分かったらさっさと食え」
その態度は、風向きが変わるような気まぐれさだった。そしてオリトははっとする。ラテガの、肩越しから逸らされていった眼差しに潜む光が指す、方角の違い。そこにまた、ムワンバの影が過った。
「あなたがここにいる理由は、あんな黒い背中じゃなくて、もっと明るいところにあるんじゃない?」
聞こえない振りをしているのか。それとも本当に聞こえないのか。ラテガは顏を見せなかった。
その慎重な足取りは、見ていて力強いものだった。オリトはこちらを向かない彼を刺激するのを止め、その、地面を踏んずける歩き方をじっと見つめた。
継がれた息がムダになる――ラテガが口にしたそれに、オリトはこの地にやって来る直前の出来事を思い出した。この“今”は、父の行動がもたらしたものだったと。
すぐ隣で“死”が歩みを共にしているここで、いかに歪みに呑まれず生きられるか。怖いものも痛いものもない、心地いい“自由”を手に入れるためには、危険を伴う挑戦は避けられないということなのだろうか。
“またここに、風を導いてくれ。貴方にしか、できないんだよ”
フォーティーの声に顔を上げると、オリトは残っていた肉を食べ尽くし、骨を放り投げた。そしてラテガの脇に並ぶと、彼が手にしていた食料袋をぶん取り、先を歩いていく。
落とすなよと言うラテガに、オリトは見向きもしないまま、ズカズカと進んだ。そして二つの分かれ道に辿り着くと、ラテガの杖が左の通路を指した。その向こうは、この周辺よりもうんと都会に見える。
「いいか、お前は口が利けない妹だ。腹が減って今にもたおれそうな歩き方をしろ」
今さっき、ようやく少しばかり気合を入れたところだというのにと、オリトはラテガにしかめ面をした。だがラテガは、、あっさり先に行ってしまう。
「しばらく来なかった街だ。運が良けりゃ、服やクツや金も拾える。でも、やっかいなヤツもまぎれてる。絶対に俺の言うことを聞け」
「厄介な奴?」
聞き返したオリトに、ラテガは口に指を立て、声を抑えるよう合図した。
「子どもを取りに来る連中だ。警察の服だったりと、まるで安全そうな人間の格好をしたヤツが見えたら、はなれるぞ」
「……あたしの故郷にもいたような人?」
「似たようなもんだ。でもそれは“赤空のリカオン”。ムワンバの兵だ。ここにいるのは別の集団」
聞いたことのない言葉に、オリトはますます顔を歪める。するとラテガは、何も教えていなかったことを思い出すと、オリトが隣に追いついてから半ば屈み、声を潜めた。
「集団には名前がある。俺達やお前の父さんをいいようにしている兵は、ムワンバ達だ。あの巨大地震をキッカケにすっかりでっかくなって、変わったらしい。飼い犬が野良犬になっちまうみたいに……その時の空は、真っ赤だったんだと」
“大地の号哭”と皆が言っていた時を、オリトはじっと思い出した。そしてラテガが表現する彼らにも、“自由”の臭いがした。もっともその実態は、受け入れがたいものになってしまっている。
「俺達がスパイだとにらまれれば、いっしゅんで殺される。上手くやれ。死んだら意味がない」
最後の言葉にマライカの声が重なると、オリトは、身体を張って食料を取りに出るラテガに言われた通り、そろそろとした足取りに変えた。




