<16>
マライカはどっしりと肩を落とし、うなだれた。それを横目にオリトはカップを握ると、口を覆うようにゆっくりと啜った。
そうしていると、やっとジャバリがやって来た。随分ずぶ濡れだったが、彼は気にせず皆に歯を見せ、ラテガの隣に座った。
オリトは手にしていたパンを差し出すと、ジャバリは嬉しそうに受け取り、固さなどお構いなしに大口で食らいつく。
マライカは上の服を脱ぎ、下着一枚になると、ジャバリの身体を拭いた。オリトも真似ようとしたが、寝間着のワンピースであったために、下には何も着ていなかった。また泥だらけのそれでは、ジャバリを汚すだけだと感じた。
そんな子ども達を見ていたラテガは、そっと壁に耳を当てた。轟々とした力強い振動と、バシャバシャと激しく水が弾ける音――スコールだ。それに気づいた途端、屋内に雨の臭いが満ち、よりいっそう湿り気が漂っていく。
ぬかるみで足場が重くなる。それを想像するだけで心底ウンザリしてしまう気持ちを、ラテガは静かに呑み込んだ。そして、間もなくここを追い出される時が来る手前、食事の上に右手を伸ばした。
そこに全員の視線が集まったのを確かめると、ラテガはあるサインを出した。波を描くように小さく手を上下させると、その上に斜めに引っ掻く動きを三回示した。そして、波を表現した位置で手を返し、少し丸めると、ふわっふわっと、泡が弾けるように見える動作をした。その手はやがて、ラテガの両目を二本指で差し、サインに向かって一本指を突きつけた。
「こんや?」
それを読み取ったジャバリが小さく訊ねると、ラテガは杖で立ち上がり、それで木箱を壁に寄せて言った。
「すぐにでもな。海の流れや風の強さ、波の高さを見て備えておかねぇと」
紐解かれたサインの意味にオリトが首を傾げると、ラテガは誰よりも先にここを出ていってしまった。その後、憂鬱な顔をして雨の中を出て行かされる大人が見えたかと思うと、テーブルについていた兵が声を荒げた。そして彼らは、壁際でぐったりしていた人々を引きずり起こすと、持ち場に向かうよう追い出していく。
ジャバリはいそいそと食べきると、口の中にパンとスープを含んだまま移動をはじめる。ろくに休めなかっただろうにと、オリトが無言で気にかけていると、マライカに背中を押された。
「後で話してあげるから、質問はなしよ。バレれちゃおしまい」
大人達の波にぐんぐん押され、小さな樋から水が放たれるように、皆は持ち場へ戻っていく。
スコールの中、マライカに手を引かれながら、オリトは姉に手を引かれて帰り道を歩いていた時のことを思い出した。暮らしに必死だったことはここと変わらないが、雨はこんなにも冷たく、痛かっただろうか。
街の特徴を聞いたこと。お金と自然の話を聞いたこと。硬貨をポケットに忍ばせたこと。どれも温かい出来事で、その温度を実際に教えてくるように太陽が雨を押しのけ、光をくれた。弾ける輝きが綺麗だった。何より、こちらをじっと見てくれていた母が眩しかった。
「……楽に、なれたかな」
オリトは呟くと、叩きつける雨に抗うように空を仰いだ。すると雲の中に、頬を包んでくれる母が遠ざかっていく。
この雨が空の涙に思えた。そしてその涙が今流れているのには、意味があるのかもしれない。例えば、胸の内に押し込めていた気持ちを、今この瞬間に出してしまっても誰も気づかないと、そう教えてくれているのかもしれない。
そう思考を巡らせていると、胸がチクリと嘆いた。その時、ある言葉が浮かび上がった。
“またここに、風を導いてくれ。お前さんにしか、できないんだよ”
「神様の木」
オリトの大きな呟きに、マライカが振り向いた。
「何?」
その声に、反対側を歩くジャバリがオリトを覗き込んだ。
オリトは空に目を見開くと、すううっと、鼻から息を吸い込んだ。そして柔らかく、長く、ふううっと息を吐いた。
すると、スコールは弱まり、だんだん細くなると、斜めになって静かに降り注ぎはじめた。そして小さな雨粒になると、とうとう、ふんわりとした霧雨に変わった。
「わあ……」
ジャバリの感嘆にマライカも釣られ、空にぽかんと口を開いてしまう。
オリトは喉の温かさを感じた。遥か遠い雲の上の太陽が、薄っすらと顔を覗かせる。そこからほんの微かに射す光に目を細めると、その刺激に視界が霞んでいく。
「……どうしたの?」
マライカの声に、オリトはふと、不思議そうに見てくる二人に顔を向けた。何を見ているのか、二人はまじまじと眺めていた。だが、構わなかった。オリトは目に力をこめると、そこに熱いものが迸るのを感じながら、そっと口を開いた。
「あたしにも見たいものがある。神様の木がまた振り向いて、声をくれるところを。そのためには“自由”がいる。好き勝手なそれじゃなく、命を守り合うことができる“自由”。その先に、大切な人とまた会える日がくるんだわ」
しかし今の自分には、そんなとてつもなく大きなことなどできやしない。父や母に、兄姉に、ダヨに今してあげられること――この僅かな風と光で苦痛を凌ぎ、生きていてほしいと願うこと。オリトは溜め息まじりに、呑み切れなかった涙をこぼした。




