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アシャは武器を背中に回すと、娘のエシェを抱えなおした。エシェは、遠くなっていく仲間を求めるように、母の肩から身を乗り出そうとする。
「ぇガ、ぇガ」
アシャは娘の口をそっと覆うと、静かにと息を吹きかける。すると、先行くムワンバが肩越しに振り向き、その目に捕らえられた途端、エシェは口を噤んだ。
ムワンバは、淡々と護衛につくアシャの後方を見渡した。
彼の動きを肌だけで読み取ったアシャは、右側の敷地にチラチラと覗える人影に流し目を向け、声を潜める。
「マークされてる」
ムワンバがその方角に目を逸らすと、アシャは胸の奥底で、ラテガの気配が薄れていくのに安堵した。
ムワンバは、離れた先で微かな無線のやり取りを聞きつけた。そして、一監視役が廃墟の裏に身を眩ませたところを捉えた途端、ピストルを抜き、迷いなく発砲した。
硝煙が風に横殴られていく先に、遺体が転がったような音はしなかった。
ムワンバが手にする見慣れない武器を、アシャは一瞬で観察した。この男に視線を飛ばす者は、決まって試し撃ちの的になる。
扱う兵器や戦士、奴隷の数が増幅したムワンバの率いる武装団――“赤空のリカオン”。その歪みは、大震災でボーダーと文明の破壊が起きてから著しい。
アシャは、下腹部の違和感と返り血が突き上げてくる嘔気を、どうにか吞み込んだ。
この地に点在する一部の武装集団のすばしこさは、まるで物を得た鼠だった。その彼らを率いるべく、朝から身体を使わされた。だが後に、ムワンバとトップとの交渉決裂が銃弾を招くことになり、数名の兵を倒さざるをえなくなってしまった。その敵を討ちに、別の兵が尾行してきたのだろうが、こちらの腕に適うはずもなく退避したようだ。
アシャは、周囲を見回すムワンバを横目に覗う。常に憎しみを燻し、その心にこそ深くできてしまった溝という溝を、復讐で埋めながら生きている。無差別な行いがもたらすものを、いつしか忘れ果ててしまった男だ。
アシャは娘を再び抱えなおすと、その澄んだ瞳を見つめた。拠点で生きる子ども達の眼と同じく美しい光は、生まれた瞬間に誰もが平等に持つものだ。
誰にも、人が持って生まれた光を汚す権利もなければ、その人生の歩みを妨害する資格もない。なのに、そうできてしまう力はいとも簡単に手に入ってしまう。絶え間ない悪意はもはや空気のようで、砂煙にまとわり、払ってもなかなか拭えない。
かつての綺麗な姿に戻ることは決して楽ではない。楽ではないが、戻る術を知った上で、こんな有様になった世界を再び生きているのには、きっと理由がある。
あなたの気が済む時など、もはや訪れはしない。仕返しを続け、地獄への穴を広げ、深めることが、いつから人間の生きる道の一つとされたのか。生命を一方的に刈ることが、偉大であるはずはない。今のまま繰り返しては、私達誰一人として偉くはなく、ただ愚かの集まりが広がるだけではないのか。
そんなことを言えば、すぐにでも股を砕かれ、蜂の巣にされるだろう。けれども、望まずして身に着けた圧倒的な武力を再び手にしている今、目と鼻の先にいるトップを殺すことはいつでもできる。銃口がそう導くようように、おもむろに上に向き始めた。
その音を聞きつけたムワンバは、アシャの静かな怒りにゆうゆうと振り向いて見せる。そして二人は、数秒、微動だにせずじっと見つめ合った。風も、妙な臭いも、鼠の足音も総て遮断された時――アシャは額に、ムワンバは胸部に銃口を受けた。
「どうしたァ。さっさと殺せェ」
ムワンバは目の色一つ変えないまま、アシャの額にぬるい銃口を更に押し当てる。
アシャは息を震わせる。肩での呼吸は、ムワンバがわざと胸を圧しけてくるのに押され、足が下がりかける。
「殺れェ」
汗と震えで構えがズレていくアシャを、ムワンバは低く嘲笑い、ピストルを握り直す。耳の奥にまで息が吹き込むように、金属の音がいやらしくくすぐった。
「つまり、気が済んだの……?」
やたらに殺しを促すムワンバにアシャは問うと、エシェの涙ぐむ声を横にライフルを構え直し、重心を前にしてみせた。
「あなたの願いは、叶ったの……?」
ムワンバはどこか気が抜けると、鼻で笑い、あっさり銃を下ろした。
何事もなかったかのように歩き出したムワンバを見て、アシャは顎を伝う汗を拭うと、歯を噛みしめた。
「武器を放して」
静かに告げるも、無言を貫くムワンバに、次第に目が尖っていく。そして、エシェと自らの武器を地面に置き、彼を追うと、その腰のホルスターからピストルを抜き取った。ムワンバは僅かに目の色を変え、アシャを振り向いた。
「武器を放すの」
アシャは言いながら、奪ったピストルも地面に落として見せた。
ムワンバは煩わしいアシャを睨みつけ、じわじわと近づいていく。そしてしばし互いを見合うと、彼女の顎を掴み上げた。だが、アシャは更に声を強めた。
「武器を知らなかった時の方が冷静だったのよっ……!」
あっという間に片が付く方法を知ってしまってから、元の場所に戻らなくなり、いつしか戻れなくなっていった。
「鉄の重さに惑わされて、命の重さを忘れるのっ……!」
ムワンバの手はいよいよ、アシャの首を掴んだ。締めつけが増していく。それでも、アシャは声を絞り出した。
「殺したい人間を殺しても、先に殺された人は帰ってこないっ……殺しは欲を速め、深めるっ……終わりはないっ……武器を放せっ!――」
アシャは身体に凄まじい衝撃を感じた。目を開けると、そこには泣きじゃくるエシェが座っており、母に這い寄ろうとしている。しかし、焦燥に息を荒げるムワンバは、アシャの胸倉を掴むと頬を何度も叩いた。
そしてアシャの声が息にしかならなくなった時、ムワンバは葉巻に火を点けた。風の音が戻り、拠点からの異臭を嗅ぎつけると、煙たい空間の向こうに過去を見た。
紛争に巻き込まれた父。高給な職に就けると欺かれた兄。水と食料を求めて何キロ先へ出かけたきり帰らなくなった母。警察に頼ろうにも、それに対する報酬を一切払えない自分。それを笑われた時、自然と過ったのは殺意だった。灯はなく、冷えは常に押し寄せ、喉も腹も干上がりかけた時――この名に反し、鉈にしか縋れなくなった。
「弱さと祈りは喰われる……その前に、噛み殺す……」
ムワンバはピストルを拾うと、アシャとエシェを睥睨し、先を進んだ。
幾度となく聞いてきた言葉に、アシャは小さく歯を鳴らした。顔の腫れを感じると、次第に痛みが頬の奥から滲み出てくるのを感じた。
馬鹿げていても、格好が悪くても、貫きたかった。殺される覚悟で、歪んだ欲の果てに存在する“自由”をどうにかしたかった。ムワンバのようになりかねなかった自分を明るみに導いてくれた人達の声と教えで、生き方を改めたかった。社会を変えたかった。
アシャは流れ出てしまった悔いを拭うと、放り出したライフルを力なく寄せ、担いだ。そしていつまでも泣いたままの娘を抱きしめると、頬に何度もキスをした。
「大丈夫……帰るわよ、皆のところへ……」
アシャは立ち上がり、血が混ざる唾液を吐き出した。そして、脳裏を素早く過る一人ひとりの子ども達の顔を、拠点の遥か向こうに見た時、眼に力が入った。




