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「向こう岸から来たのか?」
暗がりの彼からの問いかけが、光の中の子ども達をそっと振り向かせる。多分そうだと、女の子が返事をした時、寝床に腰かけていたラテガは杖を掴んで前屈みになると、オリトを見た。そして少し考えてから、口を開いた。
「“名前は?”」
オリトは知った言語での問いかけに目を見開くと、彼を振り返る。
「"オリト"」
そこへまた――
「ぶえっ! きみ、しゃべるとすなぼこりが……だからうられたのかい?」
二人が、ふわりと舞った砂煙をハタハタと払いのけながら、オリトに怪しげな目を向けた。
「この子の言葉が分かるの?」
女の子の驚きに、ラテガは小さく頷いた。
「オウロ語だ。アシャにも聞いたことがあるし、ここに来る前の地でも聞いたことがある」
ふうんと、二人はオリトをまじまじと見つめた。そして女の子は自分を指差し、次に抱き上げた赤ん坊を指差した。
「マライカ。こっちはエシェ」
「ぼくジャバリ。ちゃばたけではたらいてた。コーヒーまめとか、ちゃばをとったりしてて、こうちゃをつくれるようになるつもりだった」
「だから、そんなに話しても分からないでしょうが」
オリトは、一人ひとりの名前であろう言葉を頭で繰り返すと、そっと頷いた。そして、こちらの言語が分かる彼に向き直る。彼は、草むらで警戒の目を光らせる野犬のようだった。
「……ラテガ」
ぼそっと呟き、目を逸らされると、オリトは彼に渦巻く違いを嗅ぎつけた。言葉が分かるならば話したいことが山ほどある。しかし、彼にこそ盾のようなものを感じてならなかった。
するとラテガは、マライカにかけられた毛布を剥ぎ取り、ズリッと、片足を前に滑り出して見せた。
今度はオリトは、出かかる声をどうにか呑み込んだ。左足に比べて圧倒的に太い右足は、幹のように見える。どこかでぶつけた時の腫れ具合とは、てんで違っていた。
「俺は病気だ。身体がこのままクサってく。すぐ死んじまうぜ」
オリトは視線が揺らいでしまう。彼はどうやら、簡単なオウロ語しか知らないのだろう。彼の言うことが分からなかったが、雰囲気から何か不吉なものを感じ取れ、直観的に首を横に振った。
「お前、さっさと言葉を覚えろ。向こうでも商売で使ってたはずだ、全く知らないことはないだろ。最高司令官の言うことが聞けねぇんじゃ犬死だ」
「……ラテガだって、いろいろはなしてるじゃん」
ジャバリが小声で言うと、マライカは彼のお尻を叩いた。
オリトはラテガの眼に捕らえられる。そして、彼が言うことの意味を自分なりに探っていく。
このひび割れに満ちた、いつ崩れるか知れない冷たい壁の囲いが、今夜からの居場所になることで間違いはない。そして何かをさせられ、下手をすれば、隣の二人のように傷を負うことになるのだろうか。傷と言えば、先ほどの女性は今、どこでどうしているのだろうか。
「アシャは」
ラテガの声色が変わり、オリトは肩を竦めた。前の部屋でも聞きつけたアシャという声には、ムワンバと似た凶暴さが潜んでいた。
オリトは脇の二人を振り見た。二人は急に口を噤み、言葉を探すように目を泳がせ、手足の先はキュッと丸まってしまっている。
「……死んだらお前達のせいだ」
オリトはまた、ラテガから不吉さを感じ取った。だが、そばの二人は黙ったまま俯いている。
「お前達が下手をしたから、アシャが殺されるかもしれない。アシャがいなきゃエシェは生きられない。お前達は二人殺すんだ」
「そんなこと、べつにわかってら! バカにするな!」
ジャバリの鋭い声が響いた。しかしラテガは腰を据えたまま、じっと、静かな怒りを陰に揺らしている。
「無責任なことをしたって教えてやってるんだ。言ってるだろ、戦略は俺が立てる。それまで大人しく“ドレイ”をしろ。連中に従うんじゃなくて、俺に従う方がいい時が絶対に来るし、来させてみせる」
「おまえだって、すぐにしぬんだろ! さっきオリトにそういったじゃないか! つまりもう、じしんがないんじゃないのか!? アシャにはわるいっておもってるよ! でも、一生ここにいるのはいやなんだ! 大人になるまえに、だっしゅつしてやるんだ!」
その時、ラテガの杖が投げ飛ばされ、二人に激しくぶつかった。
「静かにしろっ……」
エシャの泣き声がじわじわと広がると、ジャバリの啜り泣く声がした。マライカはそっと杖を拾うと、溜め息を吐き、オリトをチラと見てから、ラテガに近づいた。
マライカは、杖をいつまでも受け取ろうとしないラテガを黙って見つめていた。彼がそれを受け取るまで、痣でボコボコになった腕を持ち上げたまま、じっと耐えた。罰で受けた頬の傷に、涙が沁みた。それでも、そっぽを向いたまま何も言おうとせずに呑み込むラテガの顔から、目を離さなかった。
「聞いて。あたしもジャバリも、ちゃんと道を作りたかったの。あんたが真っ直ぐ歩いて、すぐボートに着けるように。よけいなことだったでしょうよ。でも、同じくらい力になりたかったの。それも早く。だって、じゃないと……神様があんたを連れていってしまいそうっ……それじゃ意味がないっ……」
マライカの涙声に、ラテガの目が揺れた。その揺れに沸き上がるように、それは口から漏れ出た。
「神なんかいねぇっ……」
ラテガの拳が、太くなってしまった右足の腿を殴った。
“この子は呪われている”――それが出回るにつれ、物乞いに使えるとされ、故郷から早々に引き離された。皮膚を硬化させていく病は、仕事の邪魔だった。家族の足を引っ張るだけだった。浮腫みと炎症の繰り返しが、自分の身体を蝕み、別物に変えていく。ちょうどそこの、オリトくらいになる頃には、皆が遠ざかっていくようになった。また産めばいいなどと言いながら。
マライカが支える杖が、がくがく震えはじめた時、オリトはそこに手を添えた。その動きが、皆の視線を集めた。
ラテガの発言の意味は分からなかったが、オリトはそれに胸騒ぎを覚えた。何かが胸を締めつけると、針で突かれたような痛みがした。少し噛みつきたくなる感情すら生まれ、何故このような気持ちになってしまうのかは、経験がないあまり分からなかった。
ラテガの発言をキッカケに芽生えたそれを、今は大事に仕舞うようにして抑えた。そしてオリトは、マライカから杖をそっと受け取り、彼の前までそれを運ぶと、元通り、肩に添えるようにして立てかけた。それから、唯一鮮明に覚えていた公用語を口にした。
「本当にありがとう」
皆が目を見張ると同時に、その場に温かい風がふううっと吹き込み、狭い囲いを満たしはじめた。
オリトは、落ちてしまった毛布をもう一度掴むと、ジャバリやマライカ、エシャを近くに寄せ、そのままラテガの足元へ――同じ影の中へ導くと、皆の足に毛布をかけた。




