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オリトは馬車を背に丘を駆け上がっていく。男達は荷台でバランスを崩したまま、弄ばれる現況に声を荒げた。一人が銃を取り出すも、前を奔放に疾走するオリトに照準を乱されていく。左右に大きくうねり、草地を擦り抜けると、丘を一気に下っていく。闇夜の中を、まるで行く先を照らされているかのように迷いなく走る。野犬のようにすばしっこく、急に大股を開いては飛び跳ね、距離を取っていく。
冷えを知らないそこには、熱風が渦巻いていた。男達は、風によって車輪がより速まっていると分かると、このままでは先の湖に突っ込んでしまうと見た。また、それがオリトの狙いだと悟ると、尚のこと撃ち止めようと身を乗り出す。
銃弾が、オリトの髪や足元のそばを奔った。バランスを取ろうと両脇ではためく手元にも触れようとする。しかしそれらは掠めもしない。
荷台は岩を踏み、大きく跳ね上がると、いよいよ片輪が飛散し、母を捉えていた男達が振り落とされていく。
残る御者は荷台の縁に縋り、馬に蹴り飛ばされそうになるところ、身を乗り出していく。
その気配を察し、オリトは背後を振り見た。こちらを向く銃口は、変わらず定まりもしない。
オリトは足に限界を感じながらも、丘を下り続ける。そして、あの“神ノ樹”に繋がる湖が近づいてくると、ふっと心が綻んだ。その余裕がもう一度だけ、後ろを大きく振り返らせる。
足が弱まったせいで、馬の顔が頭上に来た。その脇に、カーブで振られた荷台が近づき、男の勝気に溢れるいやらしい笑みと銃口が迫りくる。
それを目の当たりにすると、オリトは大きく息を吸った。目の奥から鼻、喉にかけて、熱と痛みが迸るのを感じると、頭の中で、数々の言いつけが旋風を起こしながら響き渡った。
――風のことは言わないこと。頭に布を巻くこと。大きな声を、出さないこと。
奥歯がギリリと鳴った。その言葉が、吹きつける風に紛れていくように、スイスイ遠ざかっていくかと思うと、細かな汗と涙が、金の塵光に打って変わった。
馬と共に次の岩を飛び越えた時――荷台から乗り出す御者が銃を構え直した。オリトは、再び対面した銃口に身を伏せた刹那、喉に熱気が集まり、金色の光が瞬く間に放射状に肌を這うと
「ぎゃあああああ――!」
鋭利な叫びは束の間、トルネードになった。馬と御者は全身の至る所に鞭打つような風を受け、荷台は宙に浮かび、大破する。
風圧は凄まじく、オリトは反動で吹き飛ばされ、残る坂道を転げ落ちた。どんどん、どんどん、岩や枯れ木にぶつかり、落石のように呆気なく落ちていく。そして身体は、ざぶりと、冷たさに覆われてしまった。
目を見開くと、そこに弱々しい金色の光を受ける、たくさんの気泡が見えた。それらは次々に流れ、弾けると、スルスルと失われていく。
オリトは恐怖し、失くなってしまう光を欲しさに両腕を伸ばした。すると意外にも、あっさりと外の空気に触れた。
顔を突き出すと、すぐそばに浮かんでいたガラクタにしがみついた。土や草にまみれた、白くて軽い塊は、身体を浮かべたままにしてくれた。
流れの速い波打つ川を見回すと、辺りの地形から予想通りの場所にいると分かった。オリトは小さな手足をふんだんに動かし、あの木の元へ目指そうと、流れを縦断しようとする。
水をひと掻き、ひと蹴りするたびに、横から重い流れが邪魔をしてくる。いくら泳ぎを繰り返しても、流れはオリトを揶揄うように横殴り、揺さぶり、挙句は抱える浮きを奪おうとしてきた。
それを手放しかけると、波に顔を打たれ、水に咳き込んだその時――ポッと、フォーティーが言っていたことが頭に浮かんでしまった。
“あの岸へ渡るのは今や困難でね”
その周りの海流は歪み、誰も寄せつけないようにしている。大人が船で辿り着けない流れに、生身一つで挑んでいることに気づくと、ゾッとした。そして、その様子を嘲笑うかのように、雑に立つ波が次々と身体を押し、翻そうとしてくる。
乱暴な流水に抗いながら、懸命にあの木がある方向へ手を伸ばし続けた。ところが、冷たさと暗闇がスコールのように押し寄せると、呆気なく頭から包み込んできた。
(暗いのは嫌! 助けて!)
息を吸えないまま波に覆われると、砂が混じる水が口に流れ込んだ。仄かな塩辛さに冷たさが合わさり、喉が凍りそうになる。川と海が混ざり合う元へされるがまま、長く長く、ぐんぐん流されてしまった。
手足が冷えすぎ、動きが鈍くなりかかっているところ、何かが背中にぶつかった。その拍子に体勢が翻り、手から浮きが離れてしまった。
「待って!」
遠ざかる浮きを追いかけようとすると、ぶつかった何かが脇に来ていることに気づき、そちらに透かさずしがみついた。大きな流木が、うまい具合に身体を支えてくれた。
その時、ようやっと辺りの風景が目に飛び込んだ。荒川を下り切り、真っ黒な海に出てしまっていた。広大すぎるそれが恐ろしく、オリトは背中に走るゾクゾクしたものに釣られるように、声を上げて泣いた。川の流れの勢いに軽々押されるうちに、前からは向い側の陸――“先行ゆく世界”が迫りくる。
怯えと孤独が腹の底から上がってくるのをどうにか呑み込み、涙ながらに背後を振り返った。引き返すことはできないと悟ると、波に揺られてトプトプと鳴る流木を抱きかかえ、深呼吸を繰り返した。そして、このまま陸に渡り、戻り方を考えようと閃くと、水中を何度も蹴って進んだ。
時に流れに任せ、時に蹴るを繰り返すうちに、辺りには漂流物が増えていく。中でも枯れ木が多く、乱雑に流れてきた別の流木が、バキッと衝突した。オリトが縋る流木は、半分になってしまった。
オリトの不安に涙ぐむ声が、流れと流木の悪戯によって、うねうねと尾を引いていく。そして、顔を水面の外に出すのがやっとの状態に追い込まれた時――手足に力が戻ってきた。
風の動きが変わったかと思うと、オリトは耳を澄ませた。そよそよと肌を撫でてくる風は、自分を宥め、励ますように優しく触れてくると、耳元でチラチラと光を灯した。
「……陸?」
風の知らせはそれきりだったが、気を取り直したオリトは、短くなった流木を抱え直すと、真っ暗闇の辺りをジッと見渡した。すると目の前に、耳元に訪れた同じ金の光が線を描いた。まるで、フォーティーを訪れる際に見た光そのものだった。
オリトは足をバタつかせ、無理矢理に流れを縦に切り続ける。光の導きが遠のくにつれ、焦りが込み上げる。だが、トンッと足先が浅瀬に触れた。
少し上ると、水の中にまで伸びていた木の根に足を取られ、転んだ。また流されかけるところ、どうにか蔓草に縋り、立ち直す。そして、やっとの思いでぬかるんだ地面をふらふらと進むと、力が吸い取られるように横たわった。
胃が突き上げられ、ゴボゴボと海水を吐くと、息を大きく吸い込んだ。胸いっぱいに安堵が膨れ上がるのを感じると、一気に吐き出した息に、ジンと目元が熱くなる。
エネルギーを使い果たした今、埋もれていったあらゆる存在――母や兄姉、ダヨ、そして父のことが湧き水のごとく溢れ出た。
草木の騒めきが、粒のような涙声を覆っていく。オリトは頭を持ち上げ、ゆるゆると辺りを見回してから、そっと背後を確かめた。馬車の男達はもうどこにもいない。だが、この身体で移動できた距離など知れているだろう。その途端、焦りに腰がスルリと立ち上ると、逃げるように川から離れていく。すっかり泥にまみれた自分は、辺りに点在する岩か切り株に馴染めるようになっていた。




