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黒い馬に繋がれた荷台は、大人が二人乗り込んでいる。蹄の音が地面に埋もれていく時、御者の口元から、火の粉が光るのを見た。煙たいあまり、オリトは目を細めると、ふうっと小さく息を吐いた。煙はそれに従うかのように横流されていく。
しんとしたその場に、金属の音がした。ガシャンと鳴るそれに、オリトはすっくと立ちあがって見せる。その姿に、主はやっと歯を見せた。
「潔い餓鬼じゃねぇか」
その言葉に釣られるように、長い銃器を担いだ男二人が、荷台から降りてきた。どこかの民族を彷彿とさせる、この地では見慣れない装飾品で、首や腕を飾っている。彼らを擦り抜けてくる風が、オリトの鼻をくすぐった時、それらが貝殻や動物の骨でできたものと分かった。
「お願い、どうかこの子だけは!」
母が頭を掴まれ、上体を引き上げられると――オリトは目を見張り、目前の御者を睨め上げた。
「母さんを放さないと、行かない」
「ほう……」
御者の鼻笑いが、更に目の前を煙たくさせた。オリトは今度は、乱暴にそれを吹き払ってしまう。
「止めなさいオリトっ……」
母の声が締め上げられるのを聞きつけ、オリトは振り向いた。母の首には刃が当てがわれ、背後には更に、銃口を突きつけられていた。
母は息だけでオリトを宥めた。オリトは、その唇の動きを読み続ける。恐怖と絶望と、切なる願いが犇めき合った吐息と、勝手に溢れる涙に、じっと目を凝らした。
「“風”か……おもしれぇ。餓鬼、この国の盾になれ」
楽し気な口調をする御者に、オリトはキッと目を尖らせる。
「母さんを生きて返してくれるならね」
生意気言いやがると、母を今にも貫こうとする男が、汚れた笑いを上げた。オリトはふと、そこに目を向けてから、ニヤニヤと見下ろしてくる御者をもう一度睨み返す。
「その前に、お望みの盾なのかを確かめた方がいいんじゃない?」
オリトのどこか静かな怒りが混ざる声に、御者が肩眉を引き上げた時――小さな掌から何かが放たれた。闇を高く、くるくると回りながら、それは馬の目の前まで昇り、越え、御者の葉巻の火の子を受けると、その視線を引きつけては夜空を仰がせた。そして次の瞬間、オリトは大きく息を吸い込むと、力いっぱい吹き返した。
ぐわんと、熱い大風が舞い込んだかと思うと、馬が鋭く嘶き、前足を高々と上げた。その足の下を風が更に吹き抜け、馬の腹を押し上げると、ぐんぐんのけ反らせていく。御者は荷台の中に落ち、葉巻は呆気なく攫われた。
母を捉えていた二人の男は、激しい砂煙に視界を奪われていく。母の首元の刃が閃いた途端、あらぬ方向に振り上げられると、そのまま地面を打ちつけながら倒れた。反動で銃が暴発するも、それすら風の音にすり替えられてしまう。
押しのけられていく二人は、暴れ馬によって横転してしまった荷台に寄せられていく。細い小さな砂嵐が二つできたかと思うと、彼らの武器を巻き上げ、宙のどこかへ解き放ってしまった。
オリトは前足を踏み込むと、息を吐ききって見せる。すると、荷台はいよいよ男達を乗せこみ、車輪を立て直した。馬はより嘶き、オリトを威嚇する。
「こっちよ!」
オリトの挑発に、馬は目の色を変えると、怒りに鳴きながら先ゆく小さな影を追った。
「オリト!?」
母は叫んだ。だが、手を触れず自由奔放に、あの大掛かりな連中と馬車を乱暴に率いてしまう娘に恐怖して――
その感情に気づいてしまうと、娘を呼ぶ声が止まった。無意識に口を押えていた。僅かに擦り切れた首の、鈍く近寄る痛みに気づいていく。汗か涙かが沁みたことで、より現実が戻ってきた。
懐かしい大風――あの子が生まれた時にも起きた、建屋を破壊しかねないほどの旋風が今、本当に遠ざかっていく。その光景を、今の自分はどうしたって追いかけようとはしなかった。この腕にもう一度抱きとめにいこうと、しなかった。
風が止んだ。あの子の憤りに確かに垣間見えた、金の光すらも。
ルルはやっと、膝にめり込む砂の感覚に気づいた。カラカラに、しんと静まり切った夜は、怖いほどに何事もなかった素振りを見せてくる。
気持ちが悪いほどに全身が軽くなっていた。感じたことのない軽さだった。ずっと避けきたものだ。その軽さを得ることがどんなに罪深いかは、自分がよく知っている。なのに今、その甘い蜜に食らいつくように地面に腰を下ろしたまま、娘を追いかけようとしない。ここにきて、本心を知ってしまった。
「ああっ……!」
この地といい大陸といい、神は次に、この自分を粉々に砕こうとしているのだ。そして、在ってはならない自分を生み出そうとしている。わがままに自由を求める、悪魔のような自分を。いつからか歪んでいたことを世間にさらす自分を。
頭から末端までを隈なく駆け巡る、狂いの感情。両手に顔を埋め、ぜえぜえと漏れ出る荒い息にまかせ、吐き切ろうとした。だがその最中、遠くから足音が近づいてきて、ルルは振り向かずにはいられなかった。
村の仲間達が、事態の静まりを見て駆けつけたのだ。一人、また一人とルルの肩を抱き、その汚れた顔を拭っていく。そして誰かが辺りを見渡してから、何かを抜き取られたかのような妙な静けさに、呟いた。
「まぁ……本当に、すっかり風が止んでしまったねぇ……」
砂も植物も、表にかけている衣類も商品も、揺れ動かない。サワサワとした季節の訪れを一切感じられなくなった村は、まるで時が止まったようだった。
ルルはのろのろと立ち上がると、仲間達を後にする。彼らは、力ない足取りを見せるルルに顔を曇らせると、はっとした。
「子どもは? 一緒にいただろ?」
「あんたのところにはまだ二人いたろう? ジュマに託したのかい?」
ルルは立ち止まらず、振り向きもしなかった。顔はどんな風に歪もうとしているのか、そもそももう魔物のように歪み切っているのか、分からないそれを、周りに見せるわけにはいかなかった。そして声が、やっと力なく形になった。
「仕方がなかった……私達も暮らしていかなくちゃいけない……」
ふっ――漏れてしまった息が唯一、この村の風になった。




