外に出るだけで
その日の就労準備プログラムは、雑談練習だった。
二人組になって、テーマに沿って話す。
テーマは、「最近困ったこと」。
簡単そうに見えて、意外と難しい。
何をどこまで話していいのか分からない。
私は少し緊張しながら、空いている席に座った。
向かいに座ったのは、小柄な女性だった。
肩につくくらいの髪をひとつに結んでいて、細い指でペットボトルを握っている。
「よろしくお願いします」
小さな声。
「よろしくお願いします」
私も返す。
少し沈黙が落ちる。
こういう時間が、一番苦手だ。
何か話さなきゃと思うほど、言葉が出てこなくなる。
すると、女性のほうが先に口を開いた。
「……最近、電車が怖くて」
ぽつりと落ちるような声だった。
私は顔を上げる。
女性は少し困ったように笑った。
「急に息が苦しくなることがあって」
「乗れる日もあるんですけど、乗れない日は本当に無理で」
ペットボトルを握る指に、少し力が入る。
「駅まで行けても、改札で戻っちゃったり」
その言葉に、胸が少しざわつく。
分かる、と思った。
会社に行けなくなった頃のことを思い出す。
玄関までは行ける。
服も着替えられる。
でも、その先に進けない。
体が固まる。
“行かなきゃ”と思うほど、動けなくなる。
私は、ゆっくり頷いた。
「……ありますよね」
言うと、女性が少しだけ顔を上げる。
「高橋さんもですか?」
「私は、電車じゃなかったですけど……」
言葉を探す。
「会社に行こうとすると、動けなくなることがありました」
女性は、小さく「ああ……」と息を吐いた。
その反応だけで、少し安心する。
分かってもらえない前提で話す癖が、もうついている。
だから、“分かる”が返ってくるだけで驚く。
「私、前は普通に通勤してたんです」
女性は静かに続ける。
「なのに、急にできなくなって」
「自分でも意味分からなくて」
その言葉が、胸に残る。
急にできなくなる。
本当に、その通りだった。
昨日まで普通にできていたことが、ある日突然できなくなる。
それを、自分が一番信じられない。
「怠けてるだけなのかな、とか思ってました」
女性が苦く笑う。
私は反射的に首を振りそうになって、止める。
簡単に否定できなかった。
私も、ずっとそう思っていたから。
頑張りが足りないんじゃないか。
甘えているだけなんじゃないか。
普通の人はできるのに、どうして自分はできないんだろう。
何度も考えた。
今も、完全には消えていない。
「でも、先生に“パニック症状ですね”って言われて」
「病気なんだって思ったら、少しだけ楽になりました」
女性はそう言って、小さく笑った。
私は、その笑顔を見ながら思う。
——自分だけじゃない。
会社に行けなくなったのも。
外に出るのが怖くなるのも。
電車に乗れなくなるのも。
世界から取り残されたみたいな気持ちになるのも。
ここには、同じように苦しんだ人がいる。
もちろん、全く同じではない。
苦しさの形は、それぞれ違う。
でも。
“普通にできなくなった”経験を持っている人がいる。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。
雑談練習の終了時間を知らせる声が聞こえる。
「あ、終わりですね」
女性が言う。
「ですね」
私は頷く。
少しだけ、不思議な気持ちだった。
ちゃんと会話ができた、とまでは言えない。
でも。
無理に元気なふりをしなくていい会話だった。
それが、少し嬉しかった。




