対面
ショートケアの帰り。
いつもより少し遅い時間だった。
人がまばらになった部屋を出て、廊下を歩く。
外に出ると、夕方の空気がひんやりしていた。
駅に向かおうとしたとき。
「高橋さん」
名前を呼ばれて、足が止まる。
振り返る。
スズムラさんだった。
胸の奥が、ひゅっと縮む。
「今、少し大丈夫ですか」
いつもと同じ、柔らかい声。
でも、逃げ場がない感じがする。
「……はい」
反射みたいに、頷いてしまう。
スズムラさんは少し近づいてくる。
距離が近い。
「この前、メッセージ送ったんですけど」
ああ、と思う。
来る。
「最近、あんまりちゃんと返してくれないですよね」
責めるような言い方ではない。
でも、責められているように感じる。
うまく息ができない。
何か言わなきゃ、と思う。
でも、言葉が出てこない。
沈黙が落ちる。
スズムラさんが、少しだけ首を傾げる。
「やっぱり、迷惑でした?」
違う、と反射的に思う。
迷惑、ではない。
でも。
——しんどい。
その言葉が、喉の奥に引っかかる。
言っていいのか分からない。
でも、ここで何も言わなかったら。
また同じことが続く。
分かっている。
分かっているのに、怖い。
心臓がうるさい。
手のひらがじんわり汗ばむ。
「……あの」
声が、思ったより小さい。
それでも、続ける。
「うまく言えないんですけど」
一度、息を吸う。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
「……ちょっと、しんどくて」
言ってしまった。
その瞬間、空気が少し変わる。
引き返せない感じがする。
スズムラさんの表情が、わずかに止まる。
「メッセージ……その」
言葉がうまく繋がらない。
頭の中でぐちゃぐちゃになる。
それでも、絞り出す。
「全部、受け止めるのが……難しくて」
沈黙。
怖い。
でも、止まらない。
「責められてる、みたいに感じてしまって」
言った瞬間、後悔が押し寄せる。
そんなつもりじゃないかもしれないのに。
傷つけたかもしれない。
でも。
もう一歩だけ、踏み出す。
「あなたが悪いって言いたいわけじゃなくて」
慌てて付け足す。
ぐちゃぐちゃだ。
全然うまく言えてない。
それでも。
「……受け止めきれなくて」
最後に、小さく言う。
静かになる。
周りの音が、遠くなる。
人の話し声も、電車の音も、全部ぼやける。
スズムラさんは、何も言わない。
その数秒が、やけに長い。
やっぱり、言わなければよかったかもしれない。
そう思いかけたとき。
「……そうですか」
短い声。
表情は、読み取れない。
「ひどいですね」
その一言で、胸がぎゅっと締まる。
やっぱり。
そう思われる。
「ちゃんと答えてくれると思ってたのに」
続く言葉。
静かだけど、鋭い。
「やっぱり、分かってくれないんですね」
頭の中が、真っ白になる。
謝らなきゃ。
そう思う。
今なら、まだ戻れる。
「ごめんなさい」って言えば。
前みたいに、ちゃんと返せば。
元に戻る。
その方が、楽だ。
そう思うのに。
言葉が、出てこない。
喉の奥で止まる。
足が、動かない。
でも。
そのまま、立っている。
何も言えないまま。
逃げることも、謝ることもできないまま。
ただ、そこにいる。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
罪悪感と、不安と、怖さ。
全部混ざって、息が苦しい。
でも。
戻らなかった。
それだけは、分かる。
スズムラさんは、少しだけため息をついた。
「……もういいです」
そう言って、視線を外す。
「じゃあ」
それだけ言って、背を向ける。
離れていく。
止めなきゃ、と思う。
でも、動けない。
そのまま、見送る。
姿が見えなくなってからも、しばらくその場に立っていた。
足が、少し震えている。
やってしまった、と思う。
取り返しのつかないことをした気がする。
でも。
それでも。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけだけど。
戻らなかった自分が、そこにいた。




