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ライフコース  作者: 只野 唯
ショートケア編

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診察の日。

待合室はいつも通り、静かだった。

テレビはついているけれど、音は小さくて、何を言っているのか分からない。

番号が呼ばれるまでの時間、ぼんやりと画面を見ているふりをしながら、私は自分の手元を見ていた。

スマートフォン。

画面を開かなくても分かる。

さっき、振動した。

スズムラさんだと思う。

開くのが怖くて、そのままにしている。

開けば、また長文が並んでいる。

そして最後に、あの一文。

「どうしたらいいと思いますか?」

分かっているのに、確認するのが怖い。

「……高橋さん」

名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。

診察室のドアが開いていて、看護師さんがこちらを見ていた。

「あ、はい」

慌てて立ち上がる。

少し足元がふらついた気がしたけれど、そのまま診察室に入る。

「こんにちは」

主治医はいつも通りの調子で言った。

「こんにちは」

私も、小さく返す。

椅子に座ると、少しだけ安心する。

ここは、話していい場所だと思えるから。

「最近はどうですか」

いつもの質問。

眠れているか、食べられているか。

ショートケアはどうか。

ひとつひとつ、答えていく。

大きく崩れてはいない。

でも、何かがずっと引っかかっている。

言うか、言わないか。

少し迷って、結局、言えなかった。

診察は、いつも通りに終わる。

「無理しすぎないでくださいね」

そう言われて、頷く。

それで終わり。

……のはずだった。

診察室を出て、会計を待つために廊下の椅子に座る。

そのとき。

「高橋さん」

呼び止められて振り返ると、佐藤さんが立っていた。

「少し、お時間いいですか」

穏やかな声。

断る理由は、思いつかなかった。

「……はい」

小さく答える。

案内されたのは、診察室とは別の、小さな面談室だった。

机と椅子があるだけの、シンプルな部屋。

ドアが閉まると、外の音が遠くなる。

向かいに座る。

「最近、ショートケアはどうですか」

佐藤さんは、いつも通りの調子で聞いた。

「……通えてはいます」

それは、本当だった。

行けている。

座れている。

話も、少しはできている。

でも。

「でも……?」

促されて、言葉がこぼれる。

「ちょっと、困っていることがあって」

口に出した瞬間、胸の奥がざわつく。

言ってしまっていいのか。

こんなこと、相談していいのか。

でも、もう言葉は止まらなかった。

スズムラさんのこと。

最初に話しかけられたときのこと。

お茶に誘われた日のこと。

長い話を聞いたこと。

そして、そのあと。

毎日届くメッセージ。

長文。

繰り返される過去の話。

最後に必ずついてくる言葉。

「どうしたらいいと思いますか?」

私は、できるだけ順番に説明しようとした。

でも、途中で何度か言葉に詰まる。

うまくまとまらない。

自分でも、何に困っているのか分からなくなる。

「……それで」

一度、言葉が途切れる。

佐藤さんは、急かさなかった。

ただ、こちらを見ている。

「……返さなきゃ、って思うんです」

やっと、出てきた言葉。

「でも、何を返していいのか分からなくて」

「返しても、また同じことを聞かれて」

「……だんだん、しんどくなってきて」

声が少し、小さくなる。

「でも、無視するのも……」

そこまで言って、止まる。

無視するのも、何だろう。

ひどいこと?

冷たいこと?

言葉にできないまま、沈黙が落ちる。

しばらくして、佐藤さんが口を開いた。

「大変でしたね」

ゆっくりとした声。

その一言で、少しだけ肩の力が抜ける。

「優しいですね」

続けて言われて、少し戸惑う。

優しい。

そうだろうか。

私はただ、どうしたらいいか分からなくて、

とりあえず返していただけで。

「でも」

佐藤さんは、少しだけ言葉を区切る。

「優しさと、無理をすることは違います」

その言葉に、はっとする。

「……違う、ですか」

思わず、聞き返す。

「はい」

穏やかに頷く。

「相手の話を聞こうとすることは、優しさです」

「でも、自分がしんどくなるまで続けることは、無理です」

ゆっくり、ひとつひとつ区切るように話す。

頭に入ってくる。

「全部受け止めることが、優しさではないですよ」

その言葉に、胸の奥がざわっとする。

——全部受け止めなくていい。

マツムラさんに言われた言葉が、重なる。

分かっていたはずなのに。

「でも……」

言葉が出る。

「返さないと、悪い気がして」

「冷たいって思われるかもしれないし」

それは、本音だった。

ずっと、そこが怖かった。

佐藤さんは少しだけ考えてから、言った。

「境界線を引くことは、冷たさではありません」

静かな声。

でも、はっきりしていた。

「むしろ、自分を守るために必要なことです」

自分を守る。

その言葉が、少しだけ引っかかる。

今まで、あまり考えたことがなかった。

「例えば」

佐藤さんは続ける。

「“今は返信できません”と伝えることは、相手を拒絶することではありません」

「自分の状態を伝えているだけです」

私は、その言葉を頭の中で繰り返す。

拒絶ではない。

状態を伝える。

少しだけ、見え方が変わる。

「それでも、相手がどう受け取るかは、コントロールできません」

そこは、少しだけ厳しい現実だった。

「でも、自分の限界を無視し続けると、もっと苦しくなります」

私は、黙って頷いた。

もう、少し苦しくなっている。

だから、ここにいる。

「……どうしたらいいんでしょう」

気づくと、同じ言葉を口にしていた。

スズムラさんが言っていたのと、同じ言葉。

少しだけ可笑しくて、でも笑えなかった。

佐藤さんは、少しだけ柔らかく笑った。

「まずは、小さくでいいと思います」

「全部やめるのではなくて、少し距離を取る」

「例えば、返信の頻度を減らすとか」

「難しければ、“今は余裕がない”と一言伝えるだけでもいいです」

小さいことでいい。

それなら、できるかもしれない。

「……怖いです」

正直に言う。

「そうですよね」

すぐに返ってくる。

否定されない。

「でも、その怖さは、変わろうとしているサインでもあります」

変わろうとしている。

その言葉は、少しだけ救いだった。

私は、深く息を吐いた。

完全に納得したわけじゃない。

まだ怖い。

でも。

少しだけ、違う選択肢が見えた気がした。

「……やってみます」

小さく、そう言った。

佐藤さんは、静かに頷いた。

「無理のない範囲で、大丈夫です」

その言葉に、もう一度頷く。

部屋を出ると、さっきより少しだけ、足取りが軽くなっていた。

スマートフォンは、まだポケットの中にある。

開くのは、少し怖いまま。

でも。

さっきまでとは、少しだけ違う気持ちで、そこにあった。

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