助け舟
次の火曜日。
ショートケアに入ると、すぐにスズムラさんの姿が目に入った。
——いた。
一瞬、体がこわばる。
でも。
スズムラさんは、他の利用者さんと話していた。
笑って、何かを説明するように身振り手振りをしている。
その様子を見て、私はほんの少しだけ息を吐いた。
——よかった。
今日は、私じゃない。
そんなふうに思ってしまった自分に、少しだけ引っかかりを感じながらも、その安心に身を任せた。
プログラムは、いつも通りに進んだ。
特別なことは何もなくて、穏やかに時間が過ぎていく。
そして帰り。
靴を履いて、外に出ようとしたとき。
「高橋さん」
呼び止められて、心臓が跳ねた。
振り返ると、スズムラさんが立っていた。
「このあと、お茶していきませんか?」
にこやかな笑顔。
その瞬間、頭の中にあの日の光景がよみがえる。
薄暗い喫茶店。
止まらない言葉。
終わらない「どうしたらいいと思いますか?」
——怖い。
そう思った、そのとき。
「高橋さん、先に帰っちゃうなんて酷いですよ」
別の声が割り込んできた。
驚いてそちらを見ると、マツムラさんが立っていた。
「え……」
状況が飲み込めないまま、声が漏れる。
マツムラさんは軽くウインクをして、自然な調子で続けた。
「約束したじゃないですか、今日」
——約束?
一瞬、思考が止まる。
でも。
その空気に乗るしかない、と思った。
「あ、すみません、つい……」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
スズムラさんの方を見ると、少しだけ表情が止まっていた。
「え、そうだったんですか?」
少し間があってから、そう言う。
「はい」
マツムラさんが、穏やかに頷く。
「また今度でいいですか?」
その言葉は、やわらかいのに、はっきりとした線を引いていた。
スズムラさんは一瞬だけ何か言いたげにして、それから笑った。
「そっか、じゃあまた今度」
「はい」
短いやり取り。
それだけで、空気がすっとほどける。
スズムラさんは「じゃあまた」と手を振って、別の方向へ歩いていった。
その背中が見えなくなってから、私はやっと息を吐いた。
さっきまでの緊張が、一気に抜けていく。
「……大丈夫ですか」
マツムラさんが、小さな声で聞いてくる。
私は、少しだけ間を置いてから頷いた。
さっきまで「怖い」しかなかったのに。
今は、少しだけ違う感情が混じっている。
——助けてもらった。
そう思った。




