白い駒
第三話 白い駒
一
セヴァンの西門をくぐると、レルマンはまっすぐに「錫の牡鹿亭」へ向かった。
入隊試験を受ける者たちが、地方から上ってきて泊まる宿だった。一年前、レルマン自身もそこに泊まった。宿の前の通りには、木剣を背負った若者たちが溢れていた。
宿の食堂の隅の卓に、キリアスがいた。
向かいに、トマが座っていた。二人の前には、手つかずの麦粥の椀が二つ並んでいた。キリアスは身を乗り出して何かを熱心に話し、トマは椀の縁を指でなぞりながら、それを聞いていた。
トマのほうが先に、戸口のレルマンに気づいた。椅子を引いて立ち上がりかけ、それからキリアスの肩を叩いた。
キリアスが振り返った。
椅子が床を擦る音がして、次の瞬間、キリアスは兄の首に腕を回していた。食堂じゅうの若者たちが振り返った。
「兄さん! なんで。国境じゃなかったの」
「試験の視察だ。十日だけな」
「視察。兄さんが、俺たちを」
キリアスは兄の体を離し、上から下まで眺めた。濃紺の軍装、銀の肩章。キリアスの目が、その肩章のところで止まった。
「本当に将校なんだ」
「本当らしい」
食堂の若者たちの間に、ささやきが広がっていた。オブリ。エルムの。あの歌の。何人かが立ち上がり、遠巻きにこちらを見ていた。
キリアスは振り返り、彼らに向かって大きく笑った。
「俺の兄貴だ!」
食堂がどっと沸いた。
トマは、レルマンの前で深く頭を下げた。
「お久しぶりです」
「お前も受けるのか」
「はい」
トマは顔を上げなかった。
「キリアスさんが行くところへは、私も行きます」
キリアスがトマの背中を叩いた。
「トマは、俺より抜け道に詳しいんだ。軍でも絶対に役に立つ」
トマは、少しだけ笑った。
三人は宿の裏手の、井戸のある中庭に出た。
キリアスは井戸の縁に腰掛け、試験のことを話した。剣の型のこと、槍のこと、算術のこと。去年の兄の成績を、キリアスは一つ残らず覚えていた。模擬試合の七人抜きも、八人目が構えた瞬間に止められたことも。
「針、届いたよ」
キリアスは思い出したように言った。
「母さん、喜んでた。王都の針は先が細いって。あれで、俺の外套の裾を繕ってくれた」
キリアスは自分の外套の裾を持ち上げて見せた。細かな縫い目が、一列に並んでいた。
レルマンは、その縫い目をしばらく見ていた。
「キリアス」
「何」
「お前なら、首席も取れる。剣も、頭も。去年の俺より上だ」
キリアスは照れたように笑った。
「兄さんにそう言われると、なんか怖いな」
「本当のことだ。それとな」
レルマンは、井戸の縁に手をついた。
「入隊式で、第一団の話が出る」
「知ってる。今年もあるって、宿で聞いた」
「志願するな」
キリアスの笑みが、そのまま止まった。
「残るな。右の門から出ろ。将校の椅子は、生きていれば十年で座れる」
トマが、井戸の反対側から兄弟を見ていた。
キリアスは、ゆっくりと井戸の縁から降りた。
「兄さんは残ったじゃないか」
「ああ」
「三百人の中から、帰ってきたじゃないか」
「帰ってきた」
「じゃあ、なんで」
レルマンは答えなかった。
キリアスは兄の顔をまっすぐに見た。
「兄さん。俺、もう九つじゃないよ」
声は静かだった。
「財布を盗まれて、泣きながら兄さんのところに行ったのは、もう九年も前だ。兄さんに言われて剣を始めて、兄さんに追いつこうと思って、ここまで来た。夜警団だって作った。マウェルは、今は誰も財布を盗まれない街になった」
キリアスの拳が、固く握られていた。
「兄さんにできたことが、俺にできないって言うの。舐めないでほしい」
中庭に、沈黙が落ちた。
レルマンは弟の顔を見ていた。それから、手を伸ばし、弟の握られた拳を、自分の手で包んだ。
「舐めてない」
「じゃあ」
「舐めてないから、言ってる」
キリアスは何か言いかけ、口を閉じた。
レルマンは手を離し、弟の肩を一度だけ叩いた。
「明日は早い。もう寝ろ。トマもだ」
レルマンは中庭を出ていった。キリアスは、兄の背中が宿の戸口に消えるまで、その場に立っていた。
トマが、井戸の向こうから歩いてきた。
「キリアスさん」
「わかってる。兄さんは、俺を心配してるだけだ」
キリアスは、自分の拳を見下ろしていた。
「でも、兄さんは帰ってきた。帰ってこられるんだ。だったら、行かない理由がない」
トマは、何も言わなかった。
二
入隊試験は、去年と同じ練兵場で、去年と同じように三日間行われた。
視察の将校の席は、練兵場を見下ろす木造の桟敷に設えられていた。レルマンの他に、各地の砦から来た将校が五人並んでいた。皆、貴族だった。
初日の剣技の試験が始まるとすぐ、桟敷の将校たちの目は、一人の受験者に集まった。
背の高い男だった。痩せていて、手足が長く、伸び放題の黒髪を革紐で無造作に束ねていた。木剣の握り方も、構えも、型の教本とはどこか違っていた。
その男の試合は、どれも一合で終わった。
相手が打ち込んでくる。男の木剣が、それより一瞬だけ早く、相手の手首を、肩を、喉元を打つ。審判が手を上げる。男は一礼もせずに試合場を出て、次の試合を待つ間、地面に座り込んで、空を眺めていた。
「誰だ、あれは」
隣の将校が、手元の名簿をめくった。
「ライツェル。北のエーデの森の出。猟師の倅だそうだ」
「猟師が、あの剣を」
「獣を相手に覚えたんだろうな。人間の剣じゃない」
レルマンは、桟敷の手すりに肘をついて、ライツェルを見ていた。
ライツェルは、試合場の脇の地面に座ったまま、自分の次の相手が試合をしているのを見てもいなかった。空を横切る鳥の群れを、目で追っていた。
キリアスの試合は、ライツェルとは違う意味で、桟敷の目を集めた。
キリアスの剣は、型の教本そのものだった。踏み込み、打ち下ろし、受け、払い。マウェルの道場で、兄から教わった型だった。一つ一つの動きが正確で、無駄がなかった。相手がどれほど強く打ち込んできても、キリアスの足は崩れなかった。
試合が終わるたびに、キリアスは相手に手を差し伸べて立たせ、その肩を叩いて、何か短く言葉をかけた。負けた相手は、決まって少し笑い、頷いて試合場を出ていった。
二日目の昼には、キリアスが休んでいる木陰に、他の受験者たちが集まるようになっていた。キリアスはひとりひとりの名を聞き、出身を聞き、得意な武器を聞いた。その輪の端に、トマが座っていた。
「あれが、オブリ殿の弟君か」
隣の将校が言った。
「兄上とは、剣の質がまるで違いますな。兄上の剣は、もっと――」
将校は言葉を探した。
「――華やかだった、と聞いております」
レルマンは、木陰の輪を見ていた。
「あいつの剣は、真面目なんだ」
三日目の夕刻、掲示板に成績が貼り出された。
首席の欄に、名前は一つだけだった。
ライツェル。
その下、次席の欄に、キリアス=オブリの名があった。名前の横には、小さな文字で、各科目の順位が添えられていた。剣技、二位。槍、二位。騎乗、一位。読み書き、一位。算術、一位。兵法、一位。
剣技と槍の一位の欄には、どちらもライツェルの名があった。他の科目の順位は、ライツェルの名の横には、どれも数十番台の数字が並んでいた。
掲示板の前の人だかりの中で、キリアスは自分の名前を見上げていた。
周りの受験者たちが、キリアスの肩を叩いた。武以外は全部一位だ、と誰かが言った。あんな化け物さえいなければ首席だった、と別の誰かが言った。
キリアスは笑って、そのひとりひとりに礼を言った。
ライツェルは、掲示板の前には来なかった。練兵場の隅の木の下で、寝転がっていた。
三
入隊式の大広場には、去年と同じ壇が設えられていた。
新兵およそ千三百名。侯爵が祝辞を述べ、続いて軍装の男が壇に上がった。
灰色の髪を短く刈り、左の頬に古い傷があった。肩章の線が、去年より一本増えていた。
「第三軍団、ハルトヴィン中佐である」
桟敷の端で、レルマンは壇の上を見ていた。
「来月、我が軍は東部において、ヴェラスの砦を攻める。その先鋒として、第一団を編成する」
ハルトヴィンは、去年と同じ言葉で、第一団の任を説明した。敵陣への先行突入。本隊の到着までの持久。生還率は一割に満たない。生きて帰った者には、出自を問わず将校の地位を約束する。
「志願する者は、この場に残れ。そうでない者は、右の門から退出せよ」
ハルトヴィンは、そこで言葉を切った。
「ただし」
広場がざわめいた。去年にはなかった言葉だった。
「以下の者は、志願を認めない。既に配属先が定められている」
ハルトヴィンは手元の羊皮紙に目を落とした。
「キリアス=オブリ」
新兵の列の中ほどで、キリアスの肩が、わずかに動いた。
「貴殿のマウェルにおける治安維持の功は、軍務局の知るところである。貴殿は、その才を国内の治安維持において活かすべく、既に王都警備隊への配属が決まっている。第一団への志願は認めない」
広場の新兵たちの目が、一斉にキリアスに集まった。
「以上だ。志願する者は残れ」
最初の数人が列を離れると、あとは去年と同じだった。足音が広場を満たし、右の門へと流れていった。
キリアスは、動かなかった。
列が崩れていく中で、キリアスだけが、元の場所に立っていた。トマが、その隣で、どうしていいかわからないように立ち尽くしていた。
人の流れの中を、ライツェルが歩いていった。急ぐでもなく、立ち止まるでもなく、右の門のほうへ。キリアスの横を通り過ぎるとき、ライツェルは一度だけ、キリアスの顔を見た。それから、何も言わずに門を出ていった。
広場に残った者たちが、整列し直していた。二百八十余名だった。
その列の外に、キリアスが立っていた。
衛兵が一人、キリアスのほうへ歩いてきた。
「オブリ殿。右の門へ」
キリアスは衛兵を見なかった。壇の上を見ていた。
「中佐殿」
声は、広場の端まで届いた。
ハルトヴィンが、壇の上からキリアスを見下ろした。
「何だ」
「私は、志願します」
「認めないと言った」
「私の兄は、去年、ここに残りました。三百十二人の中から、ただ一人帰ってきました。私は兄と同じ道場で、兄と同じ剣を学びました。今年の試験でも、兄に劣る成績は一つもありません。なぜ、私だけが」
「貴殿の兄が、貴殿と同じ才を持っていなかったからだ」
キリアスは口を閉じた。
ハルトヴィンの声は、大きくはなかった。
「マウェルの夜警団の報告書は、私も読んだ。十四の子供が四人の仲間と始めた夜回りが、三年で三十人を超え、街から盗みを消した。商人たちは誰に頼まれもせず金を出し、捕らえた物盗りまでもが仲間になった。軍の将校の中に、同じことができる者が何人いると思う」
ハルトヴィンは、羊皮紙を巻いた。
「剣の立つ者は、第一団で使い潰しても、毎年また入ってくる。人を集める者は、そうはいかない。貴殿は、使い潰すには惜しいのだ。わかったら、右の門へ行け」
キリアスは、まだ立っていた。
広場の残った者たちが、キリアスを見ていた。何人かの顔には、羨むような色が浮かんでいた。
トマが、キリアスの袖を、そっと引いた。
キリアスは、トマを見た。トマは何も言わず、ただ袖を握っていた。
キリアスは、ゆっくりと踵を返した。
右の門へ向かうキリアスの背中を、桟敷の端から、レルマンが見ていた。
それから、レルマンの目は、広場に残った二百八十余名の列のほうへ移った。列の端から端まで、ゆっくりと。
壇の上で、ハルトヴィンが同じように列を見渡していた。
四
入隊式の翌日、王都警備隊に配属された新兵二十名は、教官に連れられて、城の外郭の西にある古い石造りの建物の前に立った。門の上に、王都警備隊の紋章が刻まれていた。
「今日から、ここがお前たちの家だ。中に、お前たちの面倒を見る先任がいる。後はそいつに聞け」
教官は門の前で、新兵たちを置いて去っていった。
門が、内側から開いた。
立っていたのは、背の高い男だった。
日に焼けた顔に、表情らしいものはほとんどなかった。肩には、一兵卒の肩章の上に、先任の印である赤い線が一本、縫いつけられていた。
男は新兵たちを順に見ていき、キリアスのところで、目を止めた。
「キリアス=オブリか」
「はい」
「カラド=ヴェインだ。今日から、お前たちの先任を務める」
キリアスの目が、わずかに見開かれた。
「カラド。兄さんと、同点の」
「覚えていたか」
「兄さんの手紙に、何度も出てきました。南のブレンの、誰も知らない村の」
カラドの口の端が、わずかに動いた。
「あいつは、手紙でも喋りすぎる」
その夜、新兵たちが宿舎の寝台に収まった後、キリアスは中庭の井戸端にいた。
桶に水を汲み、手を洗っていた。
背後で足音がした。振り返ると、カラドが、中庭の回廊の柱にもたれていた。
「眠れないか」
「少し」
キリアスは手を拭い、桶を井戸の縁に置いた。
カラドは回廊から出てきて、井戸の反対側に立った。
「入隊式の話は聞いた。中佐殿に食ってかかったそうだな」
キリアスは、少し顔を赤くした。
「失礼なことをしました」
「新兵が中佐に口答えして、鞭も打たれずに済んだのは、俺が知る限りお前が初めてだ」
カラドは井戸の縁に腰を下ろした。
「第一団に、行きたかったのか」
「はい」
「なぜだ」
キリアスは、少し考えた。
「兄さんが行ったからです」
「それだけか」
「……それだけじゃ、ないかもしれません」
キリアスは、桶の水面を見下ろした。水面に、中庭の篝火が映って揺れていた。
「マウェルは、今は静かな街です。俺が夜警団を作ってから、盗みも喧嘩もなくなりました。それは、いいことです。いいことのはずです」
カラドは黙って聞いていた。
「でも、静かになってから、俺は何をしていいのか、わからなくなったんです。夜に見回りに出ても、何もない。何もない夜が、長くて」
キリアスは、自分の手を見下ろした。
「戦場なら、悪いやつがいくらでもいる。俺のやることが、いくらでもある。そう思ったんです」
篝火が、小さく爆ぜた。
カラドは、長い間、何も言わなかった。
「キリアス」
「はい」
「王都警備隊の仕事は、王都の治安を守ることだ。王都には、マウェルの百倍の人間がいる。盗みも、喧嘩も、マウェルの百倍ある」
キリアスは顔を上げた。
「お前のやることは、ここにも、いくらでもある」
キリアスの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「ありがとうございます、先任」
キリアスは一礼して、宿舎へ戻っていった。足取りが、さっきまでより軽かった。
カラドは井戸の縁に座ったまま、その背中を見送っていた。
それから、キリアスが置いていった桶を見下ろした。水は、まだ揺れていた。
回廊の柱の陰に、もう一つの人影があった。トマだった。トマはカラドと目が合うと、小さく頭を下げ、宿舎のほうへ消えていった。
五
錫の牡鹿亭の食堂は、夜が更けると、試験を受けに来た若者たちではなく、王都の兵たちで埋まった。
隅の卓で、レルマンとカラドが向かい合っていた。
「割り勘だったな」
カラドが言った。
「お前が奢れと言ったんだ」
「同点だから割り勘だと言ったのは、お前だ」
レルマンは笑い、給仕を呼んで葡萄酒を頼んだ。
杯が運ばれてきた。二人は杯を当て、それから、しばらく黙って飲んだ。
「痩せたな」
カラドが言った。
「皆に言われる」
「歌は聞いた」
「皆に言われる」
カラドは、杯の縁越しにレルマンの顔を見ていた。
「十七人、か」
レルマンは杯を置いた。
「お前も、それを聞くのか」
「聞かない」
カラドは自分の杯に酒を注ぎ足した。
「聞いても、お前は答えないだろう。答えない顔をしている」
レルマンは、少し笑った。
「お前は、変わらないな」
「お前は、変わった」
食堂の喧騒が、二人の間を流れていった。どこかの卓で、誰かがあの歌を歌い始めていた。
レルマンは、それが聞こえていないように、杯の中を見ていた。
「キリアスは、どうだ」
カラドは少し考えた。
「人が集まる」
「だろうな」
「新兵が二十人いる。まだ二日だが、そのうちの半分が、もう何かあるとまずあいつの顔を見る。先任の俺ではなく、だ」
「悪いことじゃない」
「悪いことじゃない。あいつは、いいやつだ。真面目で、素直で、仲間を大事にする。今朝、寝坊した新兵が古株に怒鳴られていたら、自分が起こし忘れたと言って、代わりに頭を下げていた。そいつとは、昨日会ったばかりだ」
カラドは杯を傾けた。
「俺は、ああいうやつを、他に知らない」
レルマンは黙って聞いていた。
「あいつは、入隊式で第一団に行きたがった」
「知ってる。見ていた」
「理由を聞いた」
レルマンが顔を上げた。
カラドは、レルマンの目をまっすぐに見ていた。
「マウェルが静かになって、何をしていいかわからなくなった、と言っていた。戦場なら悪いやつがいくらでもいる、自分のやることがいくらでもある、と」
レルマンの手が、杯の脚を握っていた。
「俺は、王都にもいくらでもある、と答えた。あいつは、喜んで寝床に戻った」
カラドは杯を置いた。
「それで、よかったのか、わからん」
二人の間に、沈黙が落ちた。
歌が、食堂の向こうで、ただ一人が立ち上がるところに差しかかっていた。兵たちが杯を掲げ、歓声を上げた。
「カラド」
「何だ」
「一年前、ここで、お前は言ったな。真面目な剣は、扱いが難しいって」
「言ったか」
「言った」
カラドは、少しの間、黙っていた。
「お前は、あのとき聞き返さなかった」
「ああ」
「今なら、聞き返すか」
レルマンは、答えなかった。杯を持ち上げ、残っていた葡萄酒を一息に飲み干した。
それから、杯を卓に置き、カラドの杯に、自分の杯を軽く当てた。
「あいつを、頼む」
カラドは、レルマンの顔を見ていた。
「俺は先任だ。兄じゃない」
「知ってる」
「お前の代わりにはなれない」
「知ってる」
カラドは、長い間、レルマンを見ていた。それから、自分の杯を持ち上げ、レルマンの杯に、もう一度当てた。
「割り勘だぞ」
「わかってる」
六
王弟グラウスの館の、窓のない細長い部屋は、一年前と何も変わっていなかった。
中央の大きな卓。木と粘土の地形模型。色を塗られた小さな駒。
ただ、模型の形は、一年前とは違っていた。
なだらかな丘陵の間を、川が一本、蛇行していた。川が大きく曲がるところ、その内側の小高い丘の上に、粘土で作られた城壁が四角く築かれていた。城壁の内側には、黒い駒が並んでいた。丘の東側には、川に沿って細い街道が延び、その先は、東へ開けた平地が模型の端まで続いていた。
グラウスは、一年前と同じ黒い上衣で、卓の向こうに立っていた。
「オブリ。ノルトでの務め、ご苦労だった」
「はい、殿下」
「半年の間、小競り合いは一度もなし。死者もなし。脱走兵を三人保護して、三人が何日食べていなかったかを、報告書に書き添えた」
グラウスは、手元の羊皮紙を一枚めくった。
「軍務局は、あの報告書を笑っていた。国境警備の将校が、敵の脱走兵の腹具合を報告してきたとな」
レルマンは黙っていた。
「私は笑わなかった。三人の脱走兵は、三人とも同じ日数を答えていた。ヴェラスの国境の砦では、兵の糧食が半分に減らされている。あの報告書でそれがわかった」
グラウスは羊皮紙を卓に置いた。
「上から見るというのは、そういうことだ」
グラウスは、模型の上に屈み込んだ。
「次の任を与える」
指先で、川の曲がりの内側の、四角い城壁に触れた。
「ガルエムト砦。この川の曲がりを押さえている砦だ。ここから東は、ヴェラスの東部一帯に平地が開けている。だが今の我が軍には、この川を越えて兵を養う拠点がない。麦も矢も、国境からひと月かけて運ばねばならん」
グラウスの指が、街道に沿って東へ動いた。平地を横切り、模型の端まで。
「ここを取って我が軍の糧秣を積めば、東部のどこへでも兵を出せる。ここが足がかりになる。そこから、次の一手が打てる」
「次の一手」
「次の一手だ」
グラウスは、それ以上は言わなかった。
レルマンは、模型を見下ろしていた。
「殿下。その次は」
グラウスは、模型から目を上げた。
「その次の一手がある」
「その次は」
「その次の次がある」
グラウスの声は、平らだった。
レルマンは、何も言わなかった。
「ガルエムト攻めは、来月だ。本軍の一部として、お前の部隊も加わる。攻城軍の大将は、ハルトヴィンだ」
「ハルトヴィン中佐が」
「お前の部隊は、ハルトヴィンの指揮下に入る。詳しいことは、ハルトヴィンから聞け」
「はい」
グラウスは、模型の上から身を起こした。
レルマンは、模型を見下ろしたままだった。
川の西岸、浅瀬の手前に、白い駒が大きな塊になって置かれていた。本軍だった。
そして、本軍の塊と、城壁の間に、浅瀬を渡りきったところに、白い駒が一列に並んでいた。
数えると、十あまりだった。
レルマンは、それを見ていた。
長い間、見ていた。
「殿下」
「何だ」
「これは」
グラウスは、レルマンの視線の先を見た。
「第一団だ」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
「先日の入隊式で、広場に残った者たちだ。お前も、桟敷から見ていたな」
グラウスは、何も付け加えなかった。駒を動かしもしなかった。
レルマンは、上衣の隠しに手を入れていた。指先が、隠しの底の、粗く削られた木片に触れていた。
浅瀬の向こうに並んだ白い駒は、レルマンの隠しの中の一つと、同じ形をしていた。
(第三話 了)




