秤
第四話 秤
一
ガルエムト砦は、城門を閉ざしていた。
エルメ川の曲がりの内側、小高い丘の上に、灰色の石を四角く積んだ城壁が建っている。ダブイドの本軍が川を渡り、丘の西の裾に陣を敷いてから、四日が経っていた。降伏を勧める使者は二度送られ、二度とも、城壁の上から矢が一本返ってきただけだった。
五日目の朝、本軍の陣の前に、梯子が並べられた。
梯子の脇に、第一団の二百八十余名が整列していた。
レルマンの部隊は、本軍の左翼の端、城壁の西の面が正面に見える緩い斜面に置かれていた。後ろに、ノエマとマリーロが控えていた。
角笛が一つ鳴った。
第一団が走り出した。梯子を担いだ者たちが丘の斜面を駆け上がり、城壁の下に辿り着くと、梯子を壁に立てかけた。二十本ほどの梯子が、ほとんど同時に、灰色の石に掛かった。
城壁の上から、石が落ちてきた。
最初の梯子の最初の一人が、三段目で頭を打たれ、そのまま下に落ちた。すぐに次の者が梯子に取りついた。矢が降った。熱した油が降った。梯子の途中で、人が手を離し、背中から落ちていった。落ちた者の上に、次に落ちた者が重なった。
それでも、梯子を登る者は途切れなかった。
マリーロが、斜面の端に進み出て、右の拳を胸に当てた。
「全員、敬礼」
新兵たちが、拳を胸に当てた。
レルマンは、腕を下ろしたまま、城壁を見ていた。
梯子の中ほどで、また一人が落ちた。
――帰ったら、将校の給金で、鍛冶場を建て直して、それから――
レルマンの右隣には、誰もいなかった。新兵たちは皆、左に並んでいた。
声は、霧の中で聞いたときと同じ調子で、同じところで途切れた。
一本の梯子が、上から押し倒された。梯子にしがみついていた五人が、梯子ごと斜面に叩きつけられた。
――英雄譚ってのは、大抵ここから始まるだろう――
レルマンの唇は、動いていなかった。
ノエマが、隣からレルマンの横顔を見た。それから、城壁に目を戻した。
城壁の北の角で、一人が胸壁に手をかけた。体を引き上げ、壁の上に転がり込んだ。その後ろから、二人目、三人目が続いた。壁の上で、剣の光がいくつも瞬いた。
北の角の梯子だけは、押し倒されなかった。
壁の上に、ダブイドの旗が一本、斜めに突き立てられた。
本軍の陣から、角笛が三つ続けて鳴った。
本軍が動いた。
数千の兵が斜面を駆け上がり、北の角へ殺到した。梯子が新たに何本も掛けられ、確保された壁の一角から、兵が次々と城壁の上へ溢れた。
「オブリ隊、続け」
伝令の声が届く前に、レルマンは斜面を下りていた。
北の角の梯子に取りつき、登った。梯子の段には、血と油がこびりついていた。足元の段が一度、ずるりと滑った。レルマンは手で体を支え、そのまま登りきった。
壁の上は、人で埋まっていた。
ヴェラスの守備兵が、槍を構えて通路を塞いでいた。痩せた男たちだった。槍の穂先が、細かく震えていた。
レルマンは踏み込んだ。
最初の槍を剣で払い、払った勢いのまま、相手の首筋を斬った。二人目が横から突いてきた。半身に開いてかわし、腕を斬り落とした。三人目の槍が肩をかすめた。レルマンは槍の柄を左手で掴んで引き寄せ、引き寄せた体の胸を突いた。
剣を抜き、次の相手に向き直った。
足運びは、道場の型そのものだった。踏み込み、打ち下ろし、払い、突き。一つ一つが正確で、無駄がなかった。斬るたびに、レルマンは次の相手を探して目を動かした。斬った相手を、振り返ることはなかった。
通路の奥へ、レルマンは進んでいった。後ろから、マリーロと新兵たちが続いた。
マリーロは、何度か、前を行く隊長の顔を見た。
レルマンの顔には、何も浮かんでいなかった。叫び声も、雄叫びも上げなかった。息も、ほとんど乱れていなかった。
壁の上の通路が尽きたところで、レルマンは剣を下ろした。通路には、ヴェラスの兵が七人、倒れていた。
新兵の一人が、その数を声に出して数えていた。数え終わると、黙った。
昼過ぎ、城門が内側から開かれた。
日が傾く前に、ガルエムト砦の塔の上に、ダブイドの旗が揚がった。
二
王都セヴァンの南の市場では、その朝、偽の秤を使う粉屋が捕まった。
秤の皿の裏に、薄い鉛の板が貼りつけてあった。三年の間、その粉屋から粉を買った者は、皆、一割ずつ少なく受け取っていたことになる。
粉屋を縛り上げたのは、王都警備隊の新兵だった。
「どうしてわかった」
粉屋は、地面に膝をついたまま、自分を縛った若者を見上げた。
「買った粉を、別の店の秤で量り直してもらった」
キリアス=オブリは、粉屋の秤を持ち上げ、裏返して、市場に集まった人々に見せた。鉛の板が、陽の光を鈍く跳ね返した。
人垣から、どよめきが上がった。
「三年だぞ」
「うちの婆さんも、あそこで買ってた」
誰かが、粉屋に向かって石を投げた。石は粉屋の肩に当たった。次の石が飛ぶ前に、キリアスが粉屋の前に立った。
「石はやめてくれ。この人は、これから裁きを受ける」
人垣が、静かになった。それから、さっきより大きな声が上がった。
「警備隊のオブリだ」
「先週、掏摸の一味を挙げた」
「その前は、密輸の荷を」
キリアスは人垣に軽く頭を下げ、粉屋を立たせて、詰所のほうへ歩き出した。人々が道を空けた。道の両側から、いくつもの手がキリアスの肩を叩いた。
人垣の中から、小さな男の子が駆け出してきて、キリアスの外套の裾を掴んだ。
「ねえ。悪いやつ、あと何人いるの」
キリアスは足を止め、男の子の目の高さまで屈んだ。
「数えたことはないな」
それから、男の子の頭に手を置いた。
「いなくなるまで、捕まえるよ」
男の子は大きく頷いて、母親の元へ走っていった。人垣から、笑い声と拍手が起きた。
人垣の端に、トマがいた。
トマは粉屋を連れて歩くキリアスの背中を見ていた。それから、市場の向かいの、香辛料を商う店の軒先に目を移した。
その日の夕刻、詰所の裏の井戸端で、トマは桶の水を汲みながら言った。
「香辛料屋」
キリアスは、壁に背を預けて、その日の調書を読んでいた。
「南の市場の、角の店か」
「あそこの荷に、紙が混じってる。胡椒の袋の底に。月に二度、同じ男が受け取りに来る」
「紙」
「手紙だと思う。封がしてあった」
キリアスは調書から顔を上げた。
「いつから気づいてた」
「先月」
「なんで、今まで言わなかった」
トマは、桶を井戸の縁に置いた。
「確かめてからにしたかった」
キリアスは、しばらくトマの顔を見ていた。それから、笑った。
「トマは、いつも正しい」
トマは何も言わなかった。
キリアスは調書を丸めて、懐にしまった。
「次に男が来るのは、いつだ」
「三日後」
三
砦が落ちて二刻ほど経ったころ、東の物見櫓から鐘が鳴った。
レルマンは、城壁の上で、ノエマから報告を受けていた。
「東の街道に、土煙です。ヴェラスの援軍と思われます」
「本軍の物見の報告では、ガルエムトの守備隊が援軍を求めていたようです。到着は、明日の朝のはずだったと」
レルマンは、東の城壁に移った。
街道の向こうから、隊列が近づいてきていた。槍の穂先が、夕日を受けて一面に光っていた。先頭に、騎兵の一団がいた。
ダブイドの兵たちが、城壁の上に並んだ。弓兵が矢をつがえた。
隊列は、砦から矢の届くより少し手前で、止まった。
先頭の騎兵が一騎、隊列から進み出た。馬上で、塔を見上げていた。塔の上には、ダブイドの旗がはためいていた。
騎兵は、長いこと、その旗を見ていた。
それから、馬首を返した。
隊列の後ろのほうから、ゆっくりと向きが変わっていった。土煙が、来た道を戻っていった。
城壁の上で、誰かが歓声を上げた。それが、壁の上を端から端まで伝わっていった。
マリーロが、レルマンの隣に立っていた。
マリーロは、去っていく土煙を見ていた。それから、振り返り、砦の西の城壁を見下ろした。西の城壁の下の斜面には、折れた梯子が何本も、壁に立てかけられたまま残っていた。その周りに、黒い影がいくつも横たわっていた。
「隊長」
「何だ」
「あいつらが北の角を取らなければ、我々はまだ門の外におりました」
マリーロの声は、低かった。
「門の外で、今のあの援軍と、砦の中の連中に、挟まれていたでしょう。半日。あいつらが、半日を買ったのです」
マリーロは、西の城壁に向かって、踵を揃えた。
「二百八十余名。一人も、帰りませんでした。ですが、あいつらの登った梯子の上に、この砦がある」
マリーロは右の拳を胸に当てた。
「あれが、第一団です」
レルマンは、何も言わなかった。
マリーロの横顔を、しばらく見ていた。
それから、城壁の階段を下りていった。
西の城壁の下に着いたときには、日はもう沈みかけていた。
折れた梯子が、壁に寄りかかっていた。梯子の段には、血と油が黒く乾いていた。北の角の梯子だけが、折れずに残っていた。
レルマンは、その梯子の前に立った。
袖口に手をやり、赤と金の飾り紐をほどいた。
紐は、十歳のときから、袖が替わるたびに付け替えてきたものだった。色は、少し褪せていた。
レルマンは、紐を梯子の一番下の段に結んだ。結び目を一度、強く引いた。
それから、梯子に背を向け、砦の門のほうへ歩いていった。
風が、斜面を下っていった。梯子の下の段で、赤と金の紐が、小さく揺れていた。
四
三日後の夜、香辛料屋の裏口に、男が一人現れた。
胡椒の袋を一つ受け取り、外套の下に隠して、裏通りを北へ歩いていった。
男の十歩後ろを、トマが歩いていた。さらにその後ろを、キリアスと、警備隊の兵が三人。
男は、王都の北の、貴族の屋敷が並ぶ通りの手前で、足を止めた。辺りを見回し、袋を外套の下から取り出した。
その手首を、キリアスが掴んだ。
詰所の奥の部屋で、キリアスは袋の底から取り出した紙の束を、卓の上に広げた。
手紙は四通あった。どれも、同じ封蝋で閉じられていた。
封蝋には、二羽の鷺が向かい合う紋章が押されていた。
「ベルネック」
キリアスの後ろで、トマが言った。
「伯爵家の紋章だ。北の通りの、一番奥の屋敷」
キリアスは、封を切らずに、手紙を一通ずつ手に取り、蝋燭の明かりに透かした。
「宛名がない」
「開ける?」
「開けない。封が割れていたら、向こうに気づかれる」
キリアスは、手紙を卓に戻した。
捕らえた男は、隣の部屋に座らされていた。四十を過ぎた、痩せた男だった。北の通りの屋敷で、下働きをしているという。
キリアスは隣の部屋に入り、男の向かいに座った。
「家は」
「……東の、皮なめしの裏通り」
「家族は」
男は、しばらく黙っていた。
「娘が、二人」
「いくつだ」
「六つと、三つ」
キリアスは、男の顔を見ていた。それから、懐から小さな革袋を取り出し、中の銀貨を何枚か数えて、卓の上に置いた。
「今夜は、ここで寝てもらう。明日の朝、家に帰っていい。これは、娘さんたちに」
男は、卓の上の銀貨を見下ろした。それから、キリアスの顔を見た。
「……私を、吊るさないのですか」
「お前は、運んだだけだ」
キリアスは立ち上がった。
「その代わり、明日からも、いつも通り運んでくれ。いつも通りに受け取って、いつも通りに屋敷に届けるんだ。何も変えずに」
男は、口を開けたまま、キリアスを見上げていた。
部屋を出ると、トマが廊下で待っていた。
「上に、報告しないの」
「まだだ」
キリアスは、卓の上の手紙を一通取り上げ、封蝋を指でなぞった。
「伯爵を捕まえれば、伯爵一人が吊るされて終わる。ヴェラスは、別の誰かを使うだけだ」
キリアスは、手紙を卓に戻した。
「泳がせる」
トマは、キリアスの顔を見ていた。
蝋燭の明かりの中で、キリアスの顔は、晴れやかだった。市場で、粉屋の秤を高く掲げて見せたときと、同じ顔だった。
キリアスは卓につき、白い紙を一枚広げた。ペンをインクに浸し、何かを書き始めた。
トマは、廊下の暗がりに立ったまま、その背中を見ていた。
ペンの走る音が、夜更けまで続いた。
(第四話 了)




