篩の外
第二話 篩の外
一
セヴァンの聖ロザリア施療院は、王城の北の丘に建っている。
中庭に面した病室の窓からは、城下の屋根が見下ろせた。朝になると、市場へ向かう荷車の音が坂の下から上ってきて、昼過ぎには、どこかの広場で吟遊詩人が弾く竪琴の音が、風に混じって聞こえた。
レルマン=オブリは、その窓際の寝台にいた。
傷はとうに塞がっていた。施療院の修道女は、毎朝決まった刻限に包帯を替えに来て、替える包帯がもうないことを確かめてから、黙って水差しの水を足していった。
食事の盆は、ほとんど手をつけられないまま下げられることが多かった。
八日目の昼、病室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、レルマンと同じくらいの年頃の女だった。濃紺の軍装に、銀の肩章。
髪は首の後ろできつく結い上げられていた。修道女が女の背後で一礼し、扉を閉めた。
女は寝台の脇まで来たが、椅子には座らなかった。
「レルマン=オブリ殿ですね」
「ああ」
「ノエマ=リステルと申します。本日付で、あなたの参謀を拝命しました」
レルマンは寝台の上で身を起こした。
「参謀。俺の」
「将校には参謀がつきます。ご存じありませんでしたか」
「知らなかった。将校になるってことも、まだよくわかってない」
ノエマは表情を変えなかった。脇に抱えていた革の書類挟みを開き、一枚目に目を落とした。
「今後の予定をお伝えします。施療院の許可が出次第、王都の士官学寮に移っていただきます。そこで二十日間、軍法、兵站、地図の読み方、部隊の編成、それから礼法について講義を受けていただきます。将校を賜る方は皆、通る過程です」
「礼法」
「貴族の将校と同じ卓につかれることになりますので」
「フォークの持ち方からか」
「必要であれば」
レルマンは笑った。ノエマは笑わなかった。
「講義の後、総司令官、王弟グラウス殿下への謁見が予定されています。日取りは追ってお伝えします」
「王弟殿下に。俺が」
「第一団の生還者は、殿下に直接お目通りが叶う決まりです」
ノエマは書類挟みを閉じた。
「何かご質問は」
レルマンは窓の外に目をやった。風に乗って、竪琴の音がかすかに聞こえていた。
「リステル殿は、どこの出だ」
「リステル家は、西のアルヴェン伯領の分家です」
「貴族か」
「そうです」
「貴族の参謀が、マウェルの洗濯女の息子につくのか」
「軍の決めたことです」
ノエマは一礼し、扉に向かった。取っ手に手をかけたところで、振り返らずに言った。
「食事は、召し上がったほうがよろしいかと。講義は朝が早いので」
扉が閉まった。
レルマンはしばらく扉を見ていた。それから、窓際の小卓に置かれたままになっていた盆を引き寄せ、冷めた麦粥を、匙で一口ずつ口に運んだ。
二
士官学寮の講堂は、天井が高く、声がよく響いた。
その季に将校を賜る者は、レルマンを含めて十一人だった。十人は貴族の子弟で、皆、生まれたときから将校になることが決まっていた。彼らは初日の朝、講堂の入口でレルマンを見ると、互いに顔を見合わせ、それから一人ずつ、丁寧に名乗った。
「第一団の」
「エルム平原の」
彼らは名乗りのあとに、必ずそう付け加えた。
城下では、既に歌が流行っていた。三百十二人がエルムの霧の中へ消え、ただ一人が帰ってきたという歌だった。歌の中のその一人は、馬の屍に守られながら敵兵を十七人斬り伏せ、夕暮れの中を剣を掲げて立ち上がることになっていた。
講義の合間に、伯爵家の三男がその歌を口ずさみ、レルマンに笑いかけた。
「十七人、本当ですか」
レルマンも笑った。
「歌ってのは、大体盛るもんだろう」
伯爵家の三男は、謙遜と受け取ったようだった。
軍法の講義を受け持っていたのは、ドレクスという老いた法務官だった。片目が白く濁り、話すときには講堂の誰でもない一点を見ていた。
講義の十二日目、ドレクスは一つの事例を読み上げた。
「行軍中の部隊において、一人の兵が、通過した村の民家から黒パン二つと干し肉一切れを盗んだ。村長が隊に訴え出て、兵は自ら盗んだことを認めた。諸君がこの隊の指揮官であれば、どう処するか」
貴族の子弟たちが、順に答えた。
「鞭打ち二十。隊の前で行い、規律を示します」
「軍法の第四条によれば、民からの略奪は絞首に値します。二つのパンであっても、例外を作れば、次は二十のパンになる」
「村長の前で処罰を行い、村の信を得ます。行軍路の村を敵に回すのは愚策です」
ドレクスは答えを聞くたびに、小さく頷いた。どの答えにも、誤りはなかった。
「オブリ殿」
レルマンは立ち上がった。
講堂の視線が、レルマンに集まった。伯爵家の三男が、身を乗り出していた。
レルマンは少しの間、黙っていた。
「その隊は、何日食べていなかったのですか」
講堂が静かになった。
「事例には書かれていない」
「では、まずそれを調べます。三日食べていない隊なら、盗んだ兵だけでなく、隊の全員が同じことをする手前にいます。その兵を吊っても、明日には別の兵が盗みます。吊るすより先に、補給の遅れた理由を調べて、村長にはパンの代金を払います」
「兵の処罰は」
レルマンは答えなかった。
ドレクスは、白く濁った目をレルマンのほうへ向けた。
「処罰はしない、と」
「……必要なら、します」
「必要かどうかは、誰が決める」
レルマンは口を開き、閉じた。
「わかりません」
講堂の後ろのほうで、誰かが短く息を漏らした。
ドレクスは長いこと、何も言わなかった。それから、手元の羊皮紙に目を戻した。
「正しい問いだ。だが、試験の答えではない。座りなさい」
レルマンは座った。
伯爵家の三男が、隣から小声で言った。
「エルムの英雄殿にしては、ずいぶん慎重ですね」
レルマンは前を向いたまま、何も言わなかった。
その夜、士官学寮の中庭に、木剣を振る音が響いた。
ノエマが回廊を通りかかったのは、夜半の鐘が鳴った後だった。中庭の中央で、レルマンが型を繰り返していた。上段からの打ち下ろし、踏み込んでの突き、半身に開いての払い。マウェルの道場で教わる、一番古い型だった。
足運びは乱れていなかった。木剣は、正確に空を切っていた。
ノエマは回廊の柱の陰で、しばらくそれを見ていた。
レルマンは型の最後で、正面に向けて木剣を突き出した。そこで動きを止めた。木剣の切っ先が、何もない夜気の一点を指していた。
そのまま、長い間、動かなかった。
やがて、木剣がゆっくりと下がった。
「リステル殿か」
レルマンは振り返らずに言った。
ノエマは柱の陰から出た。
「お休みにならないのですか」
「眠れなくてな」
レルマンは木剣を肩に担ぎ、回廊のほうへ歩いてきた。顔には汗が光っていた。
「なあ。今日の講義、聞いてたか」
「控えの間で」
「英雄なら、どう答えたと思う」
ノエマは少し考えた。
「歌の中の英雄でしたら、盗んだ兵をその場で斬って、村長に頭を下げたでしょう」
「だろうな」
レルマンは笑った。袖口の、赤と金の飾り紐が、汗で色を濃くしていた。
「俺も、半年前ならそう答えた」
ノエマは何も言わなかった。
レルマンは木剣を回廊の壁に立てかけた。
「おやすみ、リステル殿」
足音が回廊の奥へ遠ざかっていった。ノエマはその背中が角を曲がるまで見送り、それから、壁に立てかけられたままの木剣を見下ろした。柄の革が、握られていたところだけ黒く湿っていた。
三
王弟グラウスの館は、セヴァンの東門の内側にあった。
館とは呼ばれていたが、塀は城壁と同じ石で組まれ、門の両脇には槍を持った衛兵が立っていた。ノエマは門の前で足を止めた。
「私は、ここまでです」
「一人で行くのか」
「殿下のお望みです」
衛兵の一人が、レルマンを中へ導いた。
通されたのは、謁見の間ではなかった。窓のない、細長い部屋だった。中央に、部屋の長さの半分ほどもある大きな卓が据えられていた。卓の上には、木と粘土で作られた地形の模型が広がっていた。丘があり、川があり、森があり、その間に、色を塗られた小さな木の駒が、いくつも置かれていた。
卓の向こうに、男が一人立っていた。
四十を半ば過ぎたくらいに見えた。背は高くなく、髪にも髭にも白いものが混じっていた。軍装ではなく、飾りのない黒い上衣を着ていた。王家の紋章は、どこにも見当たらなかった。
男は模型の上に屈み込み、指先で一つの駒を少しだけ動かした。
「オブリ」
「はい、殿下」
レルマンは膝をつこうとした。
「よい。立っていろ。こちらへ来なさい」
レルマンは卓の脇に立った。
グラウスは模型の一角を指した。低い丘が二つ、並んで盛り上がっていた。その間に、平らな土地が東西に延びていた。
「どこかわかるか」
レルマンは模型を見下ろした。
平らな土地の西の端に、白く塗られた小さな駒が一列に並んでいた。数えると、十あまりだった。東の端には、黒く塗られた駒が、平原の幅いっぱいに並んでいた。二つの丘の上にも、黒い駒が置かれていた。
白い駒の列のずっと後ろ、模型の端に近いところに、白い駒が大きな塊になって置かれていた。
レルマンは、長い間、それを見ていた。
「エルム平原です」
「そうだ」
グラウスは白い駒の一列を、指で示した。
「これが第一団だ。お前は、このどこかにいた」
レルマンは答えなかった。
「お前はあの日、平原の上に立っていた。霧の中にいて、自分の右と左しか見えなかったはずだ。今は、こうして上から見ている。何が違う」
レルマンの手が、卓の縁を握っていた。
「……丘の上の、黒い駒が見えます」
「他には」
「本隊が、遠い」
グラウスは頷いた。
「そうだな」
それきり、グラウスは何も言わなかった。駒を動かしもしなかった。
レルマンは顔を上げた。
「殿下」
「何だ」
「あれは、勝つための作戦だったのですか」
「戦には勝った。本隊がヴェラスの主力を破り、エルム平原は我が軍のものになった」
「第一団は」
「第一団は、その勝利の一部だ」
レルマンは模型から目を離さなかった。
「殿下。俺は、英雄になるつもりで残りました」
グラウスは黙って聞いていた。
「生き残ったら将校になれる。三百人の中から生きて帰れば、歌になる。そう思って、入隊式の広場に残りました。実際、歌になっています。城下で毎日流れています。俺が十七人斬ったことになっています」
「何人斬った」
「一人も」
レルマンの声は平らだった。
「剣は抜きました。斬ろうとしました。その前に、相手が死にました。それから馬に撥ねられて、溝に落ちて、日が暮れるまで、ずっと馬の下にいました。頭の上で、皆が死んでいく音を聞いていました」
グラウスは、何も言わなかった。
「帰ってきてから、軍法の講義で、パンを盗んだ兵をどう裁くか訊かれました。他の者は皆、正しく答えました。俺は答えられませんでした。前の俺なら、すぐに答えられたはずです。殿下」
レルマンは、そこで言葉を切った。しばらく、卓の上の白い駒を見ていた。
「俺は、何になって帰ってきたんですか」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
グラウスは卓の向こうから回り込み、レルマンの隣に立った。二人は並んで、模型を見下ろした。
「オブリ。お前は今、平原ではなく、この卓の前に立っている」
「はい」
「それを、忘れるな」
グラウスは白い駒の一つをつまみ上げ、レルマンの掌に置いた。粗く削られた、親指ほどの木片だった。
「戦場では、目の前の敵しか見えない。目の前の敵を斬るか、斬られるか。それしかない。だが、ここに立てば、なぜその敵がそこにいるのか、なぜお前がそこにいるのかが見える。見えたからといって、何かが救われるわけではない。だが、見える者と、見えない者とでは、できることが違う」
「……何ができるのですか」
「それは、お前が見て決めることだ」
グラウスは卓を離れ、壁際の小机に置かれた羊皮紙を取り上げた。
「レルマン=オブリ。お前に任を与える。三か月、セヴァンの練兵場で兵を預かり、鍛えろ。その後、その兵を率いて、ヴェラスとの国境、ノルトの砦の警備につけ」
「国境警備、ですか」
「不服か」
「いえ」
「戦場の端に立って、戦場を見ていろ。俯瞰するとはそういうことだ」
グラウスは羊皮紙をレルマンに渡した。蝋の封には、王家の紋の下に一本の横線が引かれていた。
「下がってよい」
レルマンは一礼し、扉に向かった。扉の前で立ち止まり、掌の中の白い駒を見下ろした。
「殿下。これは」
「持っていけ。あの卓には、まだいくらでもある」
門の外で、ノエマが待っていた。
レルマンは羊皮紙を渡した。ノエマは封を確かめ、中を読み、また巻き戻した。
「国境警備ですね」
「ああ」
「殿下は、他に何か」
「戦場を上から見ろ、と言われた」
ノエマは羊皮紙を書類挟みにしまった。
「それだけですか」
「それだけだ」
ノエマは少しの間、レルマンの顔を見ていた。それから、門のほうへ一度だけ目をやった。
「練兵の開始は十日後です。それまでの間、帰郷の許可が出ています。マウェルまでは馬で三日。行かれますか」
「行く」
「では、十日後に練兵場で」
ノエマは一礼して、背を向けた。
レルマンは上衣の隠しに手を入れた。指先に、粗く削られた木片が触れた。
四
マウェルの門をくぐったのは、三日目の夕刻だった。
門番が、レルマンの顔を見て、持っていた槍を取り落としそうになった。
「オブリの……おい、オブリの兄貴が帰ってきたぞ!」
声は門から通りへ、通りから広場へ、広場から市場へと、レルマンより先に街を駆けていった。
家に着くころには、オブリの家の前の路地は人で埋まっていた。魚屋の主人がいた。道場のハーゲン師範がいた。名前の思い出せない近所の女たちが、レルマンの手を取り、肩を叩き、頬に口づけした。誰かが酒樽を転がしてきて、路地の真ん中で栓を抜いた。
「エルムの英雄だ」
「歌、聞いたぞ。十七人だってな」
「マウェルから将校が出るなんて」
レルマンは一人ずつに笑いかけ、手を握り返した。杯が渡され、それを飲み干すと、また次の杯が渡された。
人垣の奥に、母がいた。
母は、川辺で敷布を叩いていたときと同じ前掛けをしていた。人をかき分けて前に出ようとはせず、ただ戸口の脇に立って、息子の顔を見ていた。
レルマンは人垣を抜けて、母の前に立った。
母は何も言わずに、両手でレルマンの顔を包んだ。指は、水仕事で荒れていた。その指が、頬の上で、しばらく動かなかった。
「痩せたね」
「施療院の飯がまずかったんだ」
母は、少しだけ笑った。
宴は路地から広場へ移り、夜が更けても終わらなかった。
篝火が焚かれ、誰かが竪琴を持ち出した。弾き手が、城下で流行っているあの歌を弾き始めると、広場じゅうがそれに合わせて歌った。三百十二人が霧の中に消えるところで、皆が杯を掲げて黙り込み、ただ一人が立ち上がるところで、大きな歓声が上がった。
「なあ、レルマン」
道場の後輩だった男が、赤い顔でレルマンの隣に座り込んだ。
「本当は、どうだったんだ。エルムは。歌じゃなくてさ、本当のところ」
周りにいた何人かが、話をやめてこちらを見た。
レルマンは杯を持ったまま、篝火を見ていた。
「霧が、深かった」
「それで」
「朝で、霧が深くて」
レルマンは口を開いたまま、しばらく止まっていた。
それから、杯を掲げた。
「それで、生きて帰ってきた。それだけだ。飲もう」
後輩は一瞬きょとんとして、それから大声で笑い、自分の杯をレルマンの杯にぶつけた。
「謙遜するなよ、英雄殿!」
周りの者たちも笑い、それぞれの話に戻っていった。
キリアスが広場に現れたのは、宴が最も賑わっていたころだった。
後ろに、夜警団の若者たちを十人ほど連れていた。彼らが広場の入口に姿を見せると、歌が途切れ、人々の間から歓声が上がった。兄を迎えたときと、ほとんど同じ大きさの歓声だった。
キリアスは人々の間を、まっすぐにレルマンのほうへ歩いてきた。途中で、何人もの手がキリアスの肩を叩いた。キリアスはそのひとりひとりの名を呼んで、短く言葉を返した。
「兄さん」
キリアスはレルマンの前で立ち止まり、それから両腕を広げて、兄を抱きしめた。強い力だった。
「おかえり」
「ああ」
キリアスは兄の体を離し、その顔を見た。
「痩せたね」
「母さんにも言われた」
キリアスは笑った。九年前、井戸端で空の革袋を差し出したときと、同じ笑い方だった。
「見回りの途中で抜けてきたんだ。また後で、ゆっくり話そう」
キリアスはもう一度兄の肩を叩き、若者たちを連れて広場を出ていった。人々が道を空け、その背中に声をかけた。
若者たちの最後尾を、ひとりだけ、少し遅れて歩いている者がいた。髪が肩まで伸びていた。レルマンは、それがトマだと気づくのに、少し時間がかかった。トマは広場を出る前に一度だけ振り返り、レルマンと目が合うと、すぐに顔を伏せた。
母が話し始めたのは、夜明け近く、宴の声がようやく途絶えてからだった。
家の竈には、まだ小さく火が残っていた。母はその前に座り、レルマンに背を向けたまま、灰を掻いていた。
「ひと月前にね」
レルマンは卓について、母の背中を見ていた。
「市場に、よそから来た行商人がいたの。布と針を売ってた。気のいい男でね、うちも針を一本買ったのよ」
灰を掻く手は、止まらなかった。
「キリアスたちが、その人の荷車を調べたの。夜警団にね、魚屋さんの財布がなくなったって届けがあって。そうしたら、行商人の荷の底から、その財布が出てきた」
「それで」
「広場の柱に縛られて、鞭で打たれて、街の外へ追い出された。キリアスが自分で、鞭を振ったって」
母の手が、そこで止まった。
「魚屋さんは、キリアスにお礼を言ってた。街のみんなもね。やっぱりキリアスがいないと、って。よそ者が入ってくると、すぐこれだって」
「……母さんは」
母は、しばらく黙っていた。
「その財布ね。魚屋さんがなくしたって言った日の前の晩に、トマが持ってたのを、見た人がいるの」
竈の火が、小さく爆ぜた。
「でもその人も、暗かったから見間違いかもしれないって。キリアスがそう言うなら、そうなんだろうって」
母は火掻き棒を置き、ようやく振り返った。
「誰も、キリアスを悪く言わないの。今でも、みんなキリアスの味方。あの子が通りを歩くと、みんな挨拶して、子供たちがついて歩くの。行商人が来なくなったから、市場の針は高くなったけど、誰もそのことは言わない」
母は息子の顔を見た。
「あの子、鞭を振ったあとね、広場で、すごくいい顔してたって。みんな、そう言うの。立派だったって」
レルマンは卓の上で、両手を組んでいた。
「私ね、あの晩、あの子が井戸で手を洗ってるのを見たの。夜中に。何度も、何度も。もう洗うところなんてないのに」
母は、それ以上は言わなかった。
窓の外が、白み始めていた。
レルマンは立ち上がり、竈の前に屈んで、母の隣に座った。それから、母の荒れた手を、自分の両手の中に包んだ。
二人は、そのまま朝まで、竈の残り火を見ていた。
翌日も、その翌日も、キリアスは忙しかった。
朝は夜警団の若者たちと道場で剣を振り、昼は市場を回って商人たちの話を聞き、夕方からは見回りに出た。食卓で兄と顔を合わせるのは、ほんの短い間だけだった。
「来年は、俺もセヴァンだ」
三日目の朝、キリアスは黒パンをちぎりながら言った。
「兄さんみたいに、首席を取るよ」
「取れるさ」
「第一団みたいなのがあったら、俺も志願する」
レルマンの手が、パンをちぎりかけたところで止まった。
キリアスは気づかずに続けた。
「兄さんが三百人の中から帰ってきたんだ。俺だって」
「キリアス」
「何」
レルマンは弟の顔を見た。それから、ちぎりかけたパンを、最後までちぎった。
「……母さんの針、市場で買うと高いらしいな。セヴァンで買って、送ってやるよ」
キリアスは一瞬、黙った。それから、笑った。
「うん。頼むよ」
その日の昼、レルマンはマウェルを発った。門の外まで、街の者たちが見送りに出た。人垣の一番前で、キリアスが大きく手を振っていた。夜警団の若者たちも、その後ろで手を振っていた。
トマの姿は、なかった。
五
セヴァンの練兵場に着くと、ノエマが待っていた。
その隣に、もう一人、男が立っていた。
背は低かったが、肩幅が広く、首が太かった。顔は日と風に焼けて、革のような色をしていた。鼻は二度ほど折れた跡があり、右の耳たぶが半分欠けていた。年は三十を半ば過ぎたあたりに見えた。
男は、レルマンが馬から降りるより早く、踵を揃えて胸に拳を当てた。
「お帰りなさいませ、ご帰郷はいかがでしたか」
ノエマが、男を手で示した。
「副長のマリーロです。今日から、あなたの部隊の実務を取り仕切ります」
「マリーロ。姓は」
「ございません」
男は胸を張ったまま答えた。
「南の港町の、漁師の倅であります。十五で一兵卒として入隊し、二十年かけて副長まで上がってまいりました。年は三十五。以後、お見知りおきを」
レルマンは手綱を下男に渡し、マリーロの前に立った。
「レルマン=オブリだ。マウェルの、洗濯女の倅だ」
マリーロの目が、わずかに大きくなった。それから、顔じゅうに皺を寄せて笑った。
「存じております。存じておりますとも」
その晩、練兵場の宿舎で、レルマンは部隊の名簿に目を通していた。
扉が叩かれ、マリーロが入ってきた。手に、葡萄酒の瓶と杯を二つ持っていた。
「副長が隊長の部屋に酒を持って押しかけるのは、礼法に適っておりますかな」
「士官学寮では習わなかった」
「では、構いませんな」
マリーロは卓の向かいに座り、二つの杯に酒を注いだ。それから、自分の杯を持ち上げたまま、しばらくレルマンの顔を見ていた。
「隊長。一つだけ、申し上げてもよろしいですか」
「何だ」
マリーロは杯を卓に置いた。
「私は二十年、戦場におりました。北の山岳戦にも、西の河川戦にも出ました。先鋒に立ったことも、一度や二度ではありません。この耳はそのとき置いてきました」
マリーロは欠けた耳たぶに指で触れた。
「ですが、第一団には、志願できませんでした」
レルマンは名簿から目を上げた。
「三度、機会がありました。三度とも、私は右の門から出ました。勝てない戦だと、わかっていたからです。生きて帰れる見込みのない作戦に命を張るのは、勇気ではなく愚かさだと、自分に言い聞かせました」
マリーロは、自分の分厚い手を見下ろした。
「今でも、それが間違っていたとは思いません。ただ」
マリーロは顔を上げ、まっすぐにレルマンを見た。
「あなたは残った。十八で、初陣で、三百人の中に残った。そして、ただ一人帰ってきた。私が二十年かけてもできなかったことを、あなたはやってのけた。私は、あなたの副長になれたことを、心から誇りに思っております」
マリーロの目は、少し潤んでいた。
レルマンは、長い間、何も言わなかった。
卓の上の杯を取り上げ、中の葡萄酒を見下ろした。それから、上衣の隠しに手を入れ、何かを取り出して、卓の上に置いた。粗く削られた、親指ほどの白い木片だった。
マリーロは、それを不思議そうに見た。
「これは」
「お守りみたいなもんだ」
レルマンは杯をマリーロの杯に軽く当てた。
「よろしく頼む、マリーロ」
マリーロは杯を掲げ、一息に飲み干した。
「この身に代えましても」
宿舎の廊下の角で、ノエマが壁に背を預けて立っていた。手には、明日の練兵の段取りを記した書類があった。それを届けに来たはずだったが、扉を叩くことはしなかった。
部屋の中から、マリーロの笑い声が聞こえてきた。
ノエマは書類を書類挟みにしまい、来た道を引き返していった。
六
練兵は、三か月続いた。
預けられた兵は百二十名。大半が、その年に入隊したばかりの新兵だった。
レルマンは毎朝、誰よりも早く練兵場に出た。剣の型を教え、槍の扱いを教え、隊列の組み方を教えた。新兵が剣を取り落とすと、自分で拾って渡し、どこが悪かったかを大声で言った。昼には新兵たちと同じ鍋から麦粥をすくい、夜には彼らの故郷の話を聞いた。
ひと月が経つころには、新兵たちはレルマンの足音を聞き分けるようになっていた。
ただ、模擬戦の最後に、レルマンが新兵の喉元に木剣を突きつける場面になると、彼は必ず、切っ先が届く少し手前で動きを止めた。新兵たちはそれを、隊長の手加減だと思っていた。
マリーロは、練兵の間じゅう、レルマンの半歩後ろに立っていた。新兵が隊長の命令に一拍でも遅れると、雷のような声で怒鳴った。
ノエマは練兵場の端の天幕で、兵站の帳簿をつけていた。ときどき天幕の外に出て、練兵場を見渡した。その目は、たいてい、模擬戦の最後の場面に向いていた。
三か月の練兵を終えた部隊は、ヴェラスとの国境、ノルトの砦に入った。
ノルトは、低い丘の上に建つ石造りの砦だった。物見櫓に上ると、国境を流れるノルト川と、その向こうに広がるヴェラスの牧草地が見渡せた。川の向こう岸にも、同じような砦があった。ヴェラスの旗が、そこに掲げられていた。
国境警備の任は、静かだった。
川を挟んで、両国の兵は互いの砦を眺めて日を過ごした。ときどき、向こう岸の牧童が羊を追って川辺まで降りてきて、こちらの兵に手を振った。こちらの兵も、手を振り返した。上官に見つかると叱られたが、叱る上官も、時折、同じように手を振っていた。
レルマンは毎日、物見櫓に上った。
櫓の上から、川を見て、向こう岸の砦を見て、牧草地を見た。牧草地の先の、霞んだ地平を見た。それから振り返って、こちら側の丘と、丘の向こうに延びる街道を見た。
マリーロが、一度、櫓の上で訊いた。
「何をご覧になっているのです、隊長」
「全部だ」
「全部、ですか」
「上から見ろって、言われたんでな」
マリーロは首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
ふた月の間に、川を渡ってこちら側に入ってきたヴェラスの兵は三人いた。三人とも脱走兵だった。腹を空かせていて、武器を持っていなかった。レルマンは三人に麦粥を食わせ、砦の牢に入れ、セヴァンへの報告書に、三人が何日食べていなかったかを書き添えた。
小競り合いは、一度もなかった。
部隊からは、一人の死者も出なかった。
ノルトに入って三か月目の朝、セヴァンからの早馬が砦の門に着いた。
ノエマが封書を受け取り、櫓の上のレルマンのところまで運んできた。
「セヴァンからです。殿下の封蝋ではありません。軍務局からです」
レルマンは封を切り、中を読んだ。
「警備の任は順調、とある。引き続き励めと」
「それだけですか」
「もう一枚ある」
レルマンは二枚目を開いた。読み進めるうちに、文字を追う目の動きが、少しずつ遅くなった。
「今年の入隊試験の視察に、将校を一名、セヴァンへ寄越せ、とある。期間は十日。人選は各砦に任せる」
ノエマは、レルマンの手元の紙を見た。
「今年の入隊試験」
「ああ」
「弟君が、受けられるのでしたね」
レルマンは答えなかった。紙を持ったまま、櫓の上から、セヴァンへ続く街道のほうを見ていた。
街道は丘を越え、森を抜け、霞の向こうへ消えていた。
ノエマは、しばらくその横顔を見ていた。
「砦の留守はマリーロ副長に任せられます。人選は、隊長がお決めになることです」
レルマンは紙を丁寧に折り畳み、上衣の隠しにしまった。指先が、隠しの底の何かに触れた。
櫓の下で、マリーロが新兵を怒鳴る声が聞こえた。川の向こうでは、ヴェラスの牧童が羊を追っていた。
「リステル殿」
「はい」
「明日の朝、馬を一頭、用意してくれ」
ノエマは一礼した。
「承知しました」
(第二話 了)




