第一団
第一話 第一団
一
マウェルの市場は、週に二度、石畳が見えなくなるほど人で埋まる。
九つのキリアス=オブリは、腰紐に結んだ小さな革袋を、歩くたびに片手で押さえていた。
中身は銅貨が六枚。母が川辺で三日、他人の敷布を叩いて稼いだ金だった。父が胸を病んで死んでから、オブリの家の竈に火が入るのは、その銅貨があるときだけだった。
黒パンをひとつ、塩をひと包み、残りで蝋燭を二本。母に言われた品を口の中で繰り返しながら、魚屋の角を曲がった。
果物籠を抱えた男と肩がぶつかった。男は振り返りもせず、人波の向こうへ消えた。
パン屋の前で、キリアスは腰に手をやった。紐だけが垂れていた。切り口は、刃物で撫でたように平らだった。
キリアスは来た道を走って戻った。魚屋の主人は鱗を剥ぐ手を止めず「マウェルじゃよくあることだ」と言った。
広場の角に立つ衛兵は、子供の背丈まで腰を屈めて話を聞き、それから欠伸をひとつして、持ち場に戻った。
日が傾くまで、キリアスは市場の端から端までを三度歩いた。
家の裏の井戸端で、レルマン=オブリが木剣を振っていた。
十歳になったばかりだが、街の道場に通い始めて二年が経つ。振り下ろすたびに、袖の飾り紐が跳ねた。
王都の若者の間で流行っているという、赤と金を撚った紐だった。
キリアスは兄の前に立ち、空の革袋を差し出した。
レルマンは木剣を下ろし、切られた紐の端を指でつまんで眺めた。
「どこで」
「魚屋の角。籠を持った男。顔は見てない」
「母さんには」
「まだ」
レルマンは革袋を弟の手に返した。
「取り返したいのか」
キリアスは首を振った。
「違う。ああいうやつが、いなくなればいいと思う」
レルマンは少しの間、弟の顔を見ていた。それから声を上げて笑い、木剣の先で弟の胸を軽く突いた。
「なら強くなれ。悪いやつは、強いやつのいる場所じゃ悪さをしない。衛兵が欠伸してるのは、あいつらが弱いからだ」
「兄さんみたいに?」
「俺より強くなってもいい」
レルマンは家の中に入り、寝台の下から陶器の小壺を取り出した。中で硬貨が鳴った。壺の口には、紙片が一枚貼ってある。下手な字で「羽根帽子」と書かれていた。市場の仕立屋の店先に、ひと月前から飾られている品だった。
レルマンは紙片を剥がして丸め、竈の灰の中に放った。
「行くぞ。日が沈む前なら、パン屋はまだ開いてる」
二人は黒パンと塩と蝋燭を二本買った。壺の中身は、それで半分になった。
その夜、川辺から戻った母は、卓の上の蝋燭を見て、二人の息子の顔を順に見た。レルマンは道場で習った型の話を始め、母が口を開く前に、それを最後まで喋りきった。
翌朝、レルマンは弟の手を引いて道場の門をくぐった。師範のハーゲンは、細い腕をしたキリアスを上から下まで眺め、それからレルマンを見た。
「月謝は」
「半分は俺が払います」
ハーゲンは鼻を鳴らし、壁に掛かった一番短い木剣を外して、キリアスに放った。
二
九年が経った。
マウェルの道場で、レルマン=オブリから一本を取れる者はいなくなっていた。師範のハーゲンでさえ、三本のうち一本を取るのがやっとだった。
打ち合いが終わると、レルマンは決まって相手の肩を叩き、どこが良かったかを大声で言った。門下生たちは彼の周りに集まった。彼が新しい型の外套を着てくれば、翌月には半分が同じ外套を着ていた。
十八になったその年、レルマンは王国軍の入隊試験を受けることになっていた。
キリアスは十七になっていた。背丈は兄とほとんど変わらない。道場では兄に次ぐ腕を持っていた。
三年前、十四だったキリアスは、道場の後輩を四人連れて、夜の裏通りを歩き始めた。
衛兵の巡回が途絶える刻限から、夜明けまで。最初の月、彼らは酔漢の喧嘩を二度止め、物盗りをひとり捕まえて広場の柱に縛りつけた。
翌月、四人は九人になった。
キリアスは、加わった者の名前を一度で覚えた。その母親の名前も、飼っている犬の名前も覚えた。
夜回りの後には必ず全員を自分の家の井戸端に集め、誰が何をしたかを、ひとりずつ皆の前で言葉にした。言われた者は、次の夜、誰よりも早く集合場所に来た。
捕まえた物盗りの中に、トマという十五の少女がいた。髪を短く刈り込み、男物の上衣を着ていたので、柱に縛られるまで誰も女だと気づかなかった。
キリアスは彼女を柱から下ろし、自分の外套を着せ、翌晩から夜回りの列に加えた。トマは裏通りの抜け道を、キリアスよりもよく知っていた。
商人たちは、キリアスの夜警団に銅貨を出すようになった。誰かに頼まれたわけではなかった。
魚屋の主人が最初に出し、それを見た隣の店が出し、その隣が出した。
三年で、夜警団は三十人を越えた。マウェルの市場で財布を切られる者はいなくなり、裏通りの酒場で刃物が抜かれることもなくなった。
魚屋の主人は、キリアスが通りかかると、売れ残りの干し鱈を包んで持たせた。
ある晩、見回りから戻ったキリアスは、井戸端で兄と並んで水を飲んだ。
「今夜は」
「何も。先月から、ずっと何もない」
キリアスは桶の水面を見下ろしていた。
「みんな、集まりが悪くなった。トマなんか、もう三晩来てない」
「平和なんだから、いいことじゃないか」
「何もない夜は、長いよ」
レルマンは笑って、弟の背中を叩いた。
「お前のおかげだ」
キリアスは頷き、もう一杯、水を汲んだ。
三
入隊試験は王都セヴァンの練兵場で、三日にわたって行われた。
剣技、槍、騎乗、読み書きと算術。最終日の模擬試合で、レルマンは七人を続けて打ち倒した。
八人目の試合は、相手が木剣を構えた瞬間に審判が止めた。成績は既に決まっていた。
掲示板の前には人だかりができていた。首席の欄に、二つの名が並んでいた。
レルマン=オブリ。 カラド=ヴェイン。
「同点だそうだ」
背後から声がした。振り向くと、レルマンより頭半分背の高い男が、腕を組んで掲示板を見上げていた。日に焼けた顔に、表情らしいものはほとんどなかった。
「あんたがカラドか。模擬試合で見なかったな」
「最終日の組が違った。俺は六人で止められた」
「俺は七人だ」
「知っている。見ていた」
カラドは掲示板から目を離さずに言った。
「三人目の相手に、わざと一度打たせたな。あれは要らなかった」
レルマンは目を丸くし、それから吹き出した。
「客が退屈してたからさ。あんた、どこの出だ」
「南の、ブレンという村だ。誰も知らない」
「俺はマウェル。誰も知らない」
カラドは初めてレルマンのほうを見た。口の端が、わずかに動いた。
その晩、二人は練兵場の脇の酒場で、同じ卓についた。喋っていたのはほとんどレルマンだった。
王都で流行っている詩人の話、マウェルの道場の話、弟の話。カラドは杯を傾けながら、ときどき短く問いを挟んだ。
「弟は、来年か」
「ああ。俺より強くなるかもしれない。剣だけじゃない。あいつが声をかけると、人が集まるんだ。街の半分はあいつの味方だよ」
「そう言う兄は、大抵そうは思っていない」
「思ってるさ。あいつは真面目だからな」
カラドは杯を置いた。
「真面目な剣は、扱いが難しい」
レルマンは聞き返さなかった。給仕を呼んで、もう一杯を頼んだ。
四
入隊式は、王城の外郭にある大広場で行われた。
新兵およそ千二百名が整列し、その前に一段高く設えられた壇があった。
国王の名代として侯爵が祝辞を述べ、続いて軍装の男がひとり、壇に上がった。
灰色の髪を短く刈り、左の頬に古い傷があった。声は大きくなかったが、広場の端まで届いた。
「第三軍団、ハルトヴィン少佐である」
ハルトヴィンは新兵の列を、端から端まで、ゆっくりと見渡した。
「知っての通り、ヴェラスの王座は今、僭称者に奪われている。陛下の正統なる御位を取り戻すための戦は、三年目に入った。来月、我が軍はエルム平原にて敵主力と会戦する。その先鋒として、第一団を編成する」
広場は静まり返っていた。
「第一団は本隊に先立ち、敵陣に突入する。その任は、敵の陣形を崩し、本隊の到着まで持ちこたえることにある」
ハルトヴィンは一度言葉を切った。
「隠すつもりはない。第一団の生還率は、過去の例から見て、一割に満たない」
列のあちこちで、靴が石畳を擦る音がした。
「その代わり、生きて帰った者には、出自を問わず、将校の地位を約束する。これは陛下の御名においての約束である」
侯爵が壇の脇で頷いた。
「志願する者は、この場に残れ。そうでない者は、右の門から退出し、各々の配属を待て。どちらを選んでも、それを咎める者はいない」
最初の数人が列を離れると、あとは堰を切ったようだった。足音が広場を満たし、右の門へと流れていった。
レルマンの隣で、カラドが一歩、後ろへ下がった。
「行かないのか」
「将校の椅子は、生きていれば十年で座れる」
「十年は長いな」
「死ねば、もっと長い」
カラドはレルマンの顔を見た。
「お前は残るんだな」
レルマンは前を向いたまま、袖の赤と金の飾り紐を指で撫でていた。
「英雄譚ってのは、大抵ここから始まるだろう」
カラドは何か言いかけて、やめた。代わりに、レルマンの肩に一度だけ手を置いた。
「帰ってきたら、また奢れ」
「同点なんだから、割り勘だ」
カラドは右の門へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
広場に残ったのは、三百十二名だった。
ハルトヴィンは壇の上から、残った者たちの顔をひとつずつ見ていった。レルマンのところで、その目が少しだけ長く止まった。
五
エルム平原の朝は、霧が深かった。
第一団の三百十二名は、夜明け前に陣を出た。命じられた進路は、平原の中央を東へまっすぐ。
左右には低い丘が続いていた。丘の上に何がいるのかは、霧に隠れて見えなかった。
レルマンの右隣を歩いていたのは、ベルトという名の、鍛冶屋の息子だった。
行軍の間じゅう、故郷に残してきた娘の話をしていた。帰ったら、将校の給金で鍛冶場を建て直して、それから——
霧の向こうで、低い音がした。弦の音だと誰かが言った。
ベルトの声が途切れた。
レルマンが右を見ると、ベルトは膝をついていた。喉から、矢羽根が生えていた。
口がまだ、何かの続きを言おうとして動いていた。それから前に倒れ、動かなくなった。
二射目が来た。左の丘からだった。三射目は右の丘から来た。
霧の中から、列の前のほうから、後ろのほうから、短い声がいくつも上がって、すぐに途切れた。
「走れ! 前へ!」
誰が叫んだのかはわからなかった。列が崩れ、前へ流れ出した。レルマンも走った。
霧が切れた先に、槍の壁があった。
壁は平原の端から端まで続いていた。第一団の幅の、三倍はあった。
先頭を走っていた者たちが、そのまま槍に吸い込まれた。後ろから押された者が、前の者の背中ごと貫かれた。
引き返そうとした者は、背後の丘から下りてきた騎兵に追いつかれた。レルマンの左を走っていた男は、盾を構えたまま横から首を刎ねられた。首は、盾よりも少し先まで転がった。
レルマンは剣を抜いていた。
正面に、ヴェラスの兵がひとりいた。若い男だった。槍を構え直そうとしていた。
レルマンは踏み込んだ。道場で何千回と繰り返した足運びだった。
剣が届く前に、男の頭が横に弾けた。どこからか飛んできた石弾だった。
敵のものか味方のものかもわからなかった。男は槍を持ったまま、レルマンの足元に崩れた。
レルマンは剣を構えたまま、立っていた。
次の瞬間、横合いから突っ込んできた馬が、レルマンを撥ね飛ばした。
体が宙を舞い、泥の溝に背中から落ちた。馬はそのまま足を折り、溝の縁に倒れ込んだ。
重い腹が、レルマンの上半身を半ば覆った。
馬はしばらく脚で空を掻いていたが、やがて静かになった。
レルマンは馬の腹の下で、泥に浸かったまま、動かなかった。
頭の上を、足音が何度も通り過ぎた。叫び声が、馬のいななきが、鉄のぶつかる音が、近づき、遠ざかり、また近づいた。誰かが溝に落ちてきて、レルマンの脚の上で呻き、やがて呻かなくなった。
日が高くなり、霧が晴れた。
昼を過ぎると、叫び声は聞こえなくなった。聞こえるのは、ヴェラスの言葉で交わされる短い会話と、何かを槍で突く鈍い音だけだった。
その音は平原のあちこちで、ひとつずつ、間を置いて続いた。一度、レルマンの頭のすぐ上で足音が止まった。槍の石突きが、馬の腹を二度叩いた。足音は、また遠ざかった。
西の空が赤くなったころ、遠くで角笛が鳴った。
本隊の角笛だった。地響きが平原の向こうから押し寄せ、レルマンの頭上を越えて、東へと流れていった。
日が沈んでから、本隊の衛生兵が溝を覗き込んだ。
「おい、生きてるぞ、こいつ」
二人がかりで馬の死骸を転がし、レルマンを引きずり出した。彼の体には、浅い擦り傷がいくつかあるだけだった。剣は、右手に握られたままだった。刃には、どこにも血がついていなかった。
衛生兵がその指を一本ずつ開いて、ようやく剣が手から離れた。
レルマンは溝の縁に座り込み、平原を見渡した。
見渡す限り、人と馬が倒れていた。ベルトがどこに倒れているのかは、もうわからなかった。
衛生兵たちは松明を掲げ、夜半まで平原を歩いた。溝を覗き、死骸を返し、名を呼んだ。
戻ってきた彼らは、首を横に振った。
三百十二名のうち、一名だった。
六
野営地の中央で、焚き火が盛大に焚かれていた。
その周りに、兵たちが輪を作っていた。輪の中心には、後ろ手に縛られたヴェラスの斥候がひとり、膝をつかされていた。顔は既に腫れ上がり、片方の目が開いていなかった。
「こいつらが第一団を射ったんだ」
「三百だぞ、三百」
誰かが斥候の脇腹を蹴った。歓声が上がった。別の誰かが松明を近づけ、斥候の髪が焦げる匂いがした。歓声はさらに大きくなった。輪に加わる者は、後から後から増えていった。
誰ひとり、平原に足を踏み入れたのは日が沈んでからだった。どの顔も、焚き火に照らされて赤く光っていた。
「おい、あんた、第一団の生き残りだろう」
輪の外れにいた兵が、通りかかったレルマンの腕を掴んだ。
「たった一人の、だ。仲間の仇だよ。一発やってけ。あんたにはその権利がある」
兵は笑っていた。悪意のない、晴れやかな顔だった。周りの何人かが振り返り、レルマンのために道を空けた。
レルマンは輪の中心を見た。斥候は俯いていて、表情は見えなかった。
レルマンは兵の手をそっと外した。
「いや」
それだけ言って、焚き火に背を向け、天幕の並ぶ暗がりのほうへ歩いていった。
兵は肩をすくめ、輪の中に戻った。空いた道は、すぐに閉じた。歓声は、夜更けまで続いた。
少し離れた天幕の入口で、ハルトヴィンがその一部始終を見ていた。
七
「第一団の生還者は、オブリただ一人です」
天幕の中で、参謀のミルザが書類をめくった。蝋燭の灯りが、紙の上で揺れていた。
「一人いれば上出来だ。誰も帰らない年のほうが多い」
ハルトヴィンは椅子に深く腰掛け、杯の葡萄酒を揺らしていた。
ミルザは書類から目を上げなかった。
「少佐。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「本隊の出陣は、予定より半日遅れました。両翼の丘に敵の弓兵が伏せていることは、前日の斥候の報告で分かっていたはずです。第一団には、それが伝えられていませんでした」
「そうだな」
「あれは、手違いですか」
ハルトヴィンは杯を卓に置いた。
「予定通りだ」
ミルザは、ゆっくりと顔を上げた。
「第一団は、生き残るための作戦ではない。初めから一人残らず死ぬように組んである。
逃げ道も、援軍の当ても、すべて塞いだうえで送り出す。お前は今年から私の参謀だ。知っておいてもらう」
「一割に満たない、とおっしゃったのは」
「嘘は言っていない。一割に満たないのは事実だ」
天幕の外で、また歓声が上がった。ハルトヴィンはそちらに目をやった。
「外の連中を見たか」
「斥候を囲んでいる者たちですか」
「あの中の誰ひとり、今日の平原で剣を抜いてはいない。本隊は、第一団が片づくまで丘の向こうで待っていた。それでも、あの輪の中にいる限り、誰も自分が正しい側に立っていることを疑わない」
「良い兵、なのでしょうね」
「良い兵だ。軍は、ああいう者でできている」
ハルトヴィンは指で卓を一度叩いた。
「オブリは、あの輪に入らなかった」
「臆したのでしょうか」
「臆した者は、輪に入るのだよ。輪の中は安全だからな」
ハルトヴィンは葡萄酒を一口含んだ。
「第一団を送り出すと、ごく稀に、ああいう帰り方をする者がいる。十度送り出して、一人いるかどうかだ」
ミルザは、しばらく書類の上の名前を見ていた。
「そういう者を探すために、三百人を」
ハルトヴィンは答えなかった。
ミルザは、天幕の奥に立てかけられた軍旗に目をやった。王家の紋の下に、一本の横線が引かれていた。王弟の紋だった。
ミルザは書類を閉じた。
「何かの病にでも罹ったのでしょうか」
ハルトヴィンは、口の端だけで笑った。
「どちらがだ」
ミルザは答えなかった。
ハルトヴィンは立ち上がり、天幕の垂れ幕を少しだけ持ち上げた。焚き火の歓声が、まだ遠くから聞こえていた。
「将校の椅子はくれてやる。約束だからな」
垂れ幕が下りた。
(第一話 了)




