第5話 テルミー、ユアラブ!
冬の朝は暗い。
夜明け前が最も暗いらしい。蝋燭の火でさえ寒さに遠慮するように身を屈めている。
テルミーは起きるとまず青灰色のお仕着せに着替える。白襟にはヘンリエッタが刺繍してくれた、同色の蔦。
井戸水を汲んでお湯を沸かし、やかんにティーコジーを被せて王室騎士団第二聯隊の鍛錬場に向かう。
あの朝、もしあの場にカインがいなければ、そのまま終わらせるつもりだった。太陽が昇る前のはりつめた寒さの中、歯を食いしばりながら身を浄めている彼を見たら、テルミーは彼を避けようとしたのが恥ずかしくなったのである。
「おはようございます。寒いでしょうに、ありがとうございます」
カインの左の肩甲骨の下には、小さなホクロがみっつ、縦に並んでいる。鍛錬した後の体は熱くて、湯気が出ていた。
「毎朝欠かさず鍛錬をしていらっしゃるカイン様に比べたら、なんでもないことです」
話せる時間は長くない。襟元をいじりながら切り出した。
「今日は私の、……家族の話を。どうぞ支度をしながらお聞きください」
「はい」
カイン様の目が期待に輝くのを見て、いたたまれない気持ちになる。
「は、母は役人の家に生まれました。昔から天真爛漫な性格で、家風に合わなかったそうです」
昨晩、何度も反芻した。言葉は台本を読み上げるように澱みなく口から出てきた。
「15歳の時、祖父の部下だった若者と母は恋に落ち、そのまま妊娠してしまいました。……駆け落ちです。私が3歳か4歳ごろ、家族に見つかって実家に連れ戻されました。伯父の家族と私たちで暮らしてきました」
カインはシャツを羽織り、ひとつひとつボタンを留めながら黙ってテルミーの隣に立ち、明け始める空のかすかな明るさに目を向けていた。
「伯父は私のことは苦手だったみたい。父に似てるそうです」
「女の子は父親に似ると幸せになると言いますよ」
「テレサ様、……伯父の奥様もそう言って励ましてくれました。母は昔から美人で、伯父からすると自慢の妹に手を出した挙句苦労させた父のことが許せないんです。……あ、でも全然、虐待とかないですよ!ほら、このソーイングセット。お金は伯父様が出してくれました。絹糸って高いんですよ。この布もほら、染めが綺麗でしょう」
カイン様が手元を覗き込んでくる。水の匂い。寒いからそばにいるだけで体温が伝わってくる。
「お縫い子になるときに、一緒に布から選んでくれました。私の瞳と同じ色だと言って」
「素敵な思い出ですね」
「伯父は私の瞳は褒めてくれます。唯一母譲りのパーツですから!」
いつの間にか表情がわかるほどに夜は明けていた。テルミーはカインの顔が見られない。指先をいじりながら言葉を続ける。
「わ、私の家族は……こういう家族です。父のない娘です。仲良くしてくださるのは嬉しいですが、その、も、もしカイン様が先々のことまで見てくださっているのなら、もう少し考えて欲しいと思います。持参金だっていくらもご用意できないし、私といたところでカイン様の出世のためになるようなことは、なにも」
「私が身ひとつで良いと言ったら、あなた断る口実を無くしますよ」
びっくりして見上げると、至近距離にカインの瞳があった。
「テルミーさん。王室騎士団の副団長をご存知ですか?」
「ポール・シモンズ様ですか?知ってます。有名な方ですもの」
「彼の方は独身です。……上役と血縁がなくとも、実力でのしあがれると証明した方です。私はとてもシモンズ様を尊敬しています」
「立派なお方だと聞いています」
「あの方が独身なのは、心ひそかに慕う女性に操を立てているからだという噂もありますがね」
身支度を終えたカインが、テルミーに向き直る。黒地の上着にみっつ並んだほくろが隠されていて、その中にはテルミーに心を砕いてくれる優しさがある。
「ご家族の話が聞けて嬉しかったです。……また明日」
「ま、また、明日……」
白い息の向こう、浅葱色の瞳が切なそうに細まるのが見えた。
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まだカインに好きなものを聞けていない。忙殺されてそれどころではない。泥のように眠る間際、酷使して熱を持った瞼の裏でぼんやり思い出すだけだ。
その日は朝から雪だった。
「あ、テルミーさんだ」
「お、おはようございます。ラムゼイさん」
「え〜名前覚えててくれたんですか?記憶力いいですね」
カインと仲良くなってから、騎士の方に挨拶されることが増えた。
「ヘンリエッタの調子はどうですか?」
「元気ですよ」
「あ、いや、そうじゃなくて……ヘンリエッタに刺繍を頼んでるんですよ。レグナード様にプレゼントするハンカチの……あ!変な意味じゃないです!前にあの人のハンカチ汚しちゃったから!」
ヘンリエッタは割り当ての仕事以外に、しばしば内職をしていることがある。家に仕送りしているのだ。
「ヘンリエッタから聞いてないですか?レグナード様のお好きなもの、テルミーさんに聞いといてもらえるように頼んだのになあ」
「な、なぜ私に」
「俺たちが聞いても答えてくれないんです。いや、答えてはくれるけど、『お前たちが真剣に鍛錬してくれること』とか言うんですよ。ひどくないですか?」
「……私てっきり、ラムゼイさんてヘンリエッタのこと、お好きなんだと」
「えー?なんでですか?あ、わかりました。初対面で失礼しましたもんね。あれね、刺繍の相談したくて。すみません」
「……カイン様は、お誕生日が近いのですか?」
「そうなんですよ。あれ、レグナード様言ってないの?もうすぐ21歳なんですよ」
「…………今どちらに?」
「今は騎士たちに稽古つけてるところです。昼になれば体が空くと思いますよ」
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「ヘンリエッタ!!!」
「おかえり」
「ただいまっ!!」
作業部屋に戻り、本日の仕事を片付けにかかる。ヘンリエッタは隣で、絹にビーズを刺繍していた。
「騎士様の好きなもの、聞いてくれた?」
「垂れ耳のうさぎだって!たんぽぽの綿毛も好きだってさ!」
何がおかしいのか、ヘンリエッタはくすくす笑っている。
くう。可愛い。
「ねー、なんで怒ってるの?」
「……ヘンリエッタ、意地悪したでしょ」
「あ、ラムゼイさんに聞いた?」
「聞いたよ。なんであんな、試すようなこと言ったの」
ヘンリエッタは手をぷらぷら振って休ませながら答えた。
「親友だと思ってたのになんにも相談されなくて、黙って毎朝出かけていくからね。ちょっとからかってやろうと思った」
「……ごめんね」
「私の方こそごめん」
ヘンリエッタもカイン様も、魅力的だから恋をされるのは当たり前って思い込んで、詳しく聞かなかった。はしたない。テルミーは恥入って、手元に集中しているふりで俯いた。
「テルミー」
「なあに?」
「……まだ名前教えてあげてないの?」
「うん。……このまま仲良くするんじゃだめかな」
「なにをそんなに怖がってるの?命を取られるでもあるまいし……好きならそれでいいでしょうよ。……テルミー、こっち向いて」
ヘンリエッタの瞳にからかいの色はない。愛情と心配の色。たまにヘンリエッタってお母さんみたいだなと思う。小さい弟妹が多いからかな。
「大丈夫だよ。テルミーはもう、テルミーなんだよ。早縫いのテルミー」
「うん……」
「大丈夫。もしカイン様がテルミーの名前聞いて、やっぱなしなんて言ったら、口を縫い付けてやる」
「もう!怖いよ!」
「テルミーは仮縫い係ね」
「しないよっ!」
命まで取られることはない、か。
むしろ、失恋した瞬間に消えてなくなることができるなら。
なんの恐れもなく、あの方に想いを告げることができただろうに。
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「わからない?」
フィンの部屋である。
部屋のほとんどを占める本棚。よく磨かれたオークのキャビネット。蔦模様の飾り彫りがカインの目を引いた。
「はい。すみません」
手紙で呼び出されて来てみれば、にべもない返答であった。
フィンは銀縁の丸眼鏡をクロスで磨き、掛け直す。丸くて色白の頬が、今日はやけに白く見えた。
「調べてみましたが、わかりませんでした。力が及ばず申し訳ない」
「そうか…………あの子にはすでに相手がいるのかな?いてもおかしくはない。魅力的な人だから」
「……あなたにはたくさん縁談がきてるでしょ、なにも一介のお縫い子にこだわらなくても、」
「フィン」
カインはフィンの言葉を止める。椅子から立ち上がり、フィンの背後にあるキャビネットに歩み寄る。
「……ありがとう。これからは自分で調べるよ」
「……諦めないんですか」
「諦められない。愚かな男だと思うだろう」
「そんなことは……」
「迷惑だと、俺のことが嫌いなんだと言ってくれたなら、潔く身を引こう。好きな男がいるなら、幸せを願おう。だがそうではないなら、まだ頑張る権利があると思いたい」
カインは磨かれたオーク材を指先で撫でる。フィンは振り向いて椅子の背もたれに腕を預けた。
「権利も何も、悪いのはそのお縫い子でしょ。ちょろちょろ逃げ回って向き合おうとしないんだから」
「たとえフィンといえども、彼女を悪くいうのは許さんぞ」
飾り彫りに額を寄せる。木の匂い。目を閉じると、蔦の意匠の残像がまぶたの裏にちらついた。
「フィン、忙しいのにすまなかった」
にこっと笑って、カインは部屋を出て行った。後に残ったフィンは深く息を吐く。
「……出てこいよ」
キャビネットの扉がおそるおそる開かれる。中に縮こまって入っていたテルミーの額には前髪が張り付いていた。
「あの人絶対気づいてたよ」
「……う、うん。聞こえてた」
「ちゃんと言うんだよね?自分で名前言うってことでカインさんにああ伝えたんだぞ、僕は」
「うん…………」
テルミーは涙目で曖昧な返事をする。
「このまま思わせぶりな態度とってたらカインさんに迷惑がかかるぞ」
「…………お、思わせぶりなんてそんな、」
「あ〜嫌いだわ〜そういう優柔不断な態度」
「い、言い方きついよっ」
「お前が悪いんだろ!」
呆れてきつい声が出た。さすがに悪かったと思い顔色を窺うが、涙がこぼれないように必死に唇を噛んでいた。
「わ、わたし、悪くない」
「………たしかにな。悪くないよな。でもカインさんだって悪くない。何にも説明しないで逃げてたらさ、……可哀想だよ」
「でも、でも……」
「でも何?」
「でも、私じゃなくたってカイン様は、カイン様は、きっと他に素敵な女性がいらっしゃる、し」
「はあ。関係ないだろ」
「ええ……」
「カインさんは確かに素敵だよ。誠実だよな。きっとモテるよ。お前が名乗ろうが名乗るまいが、ふさわしい女性がすぐに現れる」
「…………」
「じゃあこのままでいいか?それは違うでしょ」
「う、うん」
「相手が魅力的なら傷つけてもいいのか?カインさんが魅力的じゃなかったら向き合ってあげるわけ?」
「ち、違う!わかった、私が駄目だった。……フィンは、それでいいの」
「いいよ」
「か、カイン様とわたし、こ、恋人になっちゃうかもしれないんだよっ!?」
「いいよ。……僕に許可取るようなことじゃないんだよ、本来なら」
フィンはそっとテルミーを抱きしめた。大人しく肩に頭を預けてくる彼女の気持ちを思うと、胸が締め付けられた。
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冬至のパーティーに向けて城の人々は忙しく働いた。
お縫い子たちは国王夫妻と幼い王子の衣装を縫うのに大忙しだった。それぞれの担当はあってないようなもので、布の裁断と仮縫い、調整に追われている。
この時期は睡眠がろくにとれないので、早朝に会いにいくのは控えていた。今年は特に忙しいので、先に伝えておいて正解だった。
しばらく会っていない。
テルミーは不思議だった。今までどうしていたのかすっかり忘れてしまった。カインに会わずに日々を過ごす、そんなことがどうして可能だったのだろう?
昨夜は雪が積もり、朝は晴れて眩しい陽の中に煌めいている。
ここ数日、テルミーは王妃の居室に呼ばれていた。と言っても高貴な方々とやり取りをするのは上司達で、仕上げに向けて細かな調整をするのだ。この時期は体調を崩すお縫い子たちが多いから、比較的元気な中で腕の良い者が出向く。
先に部屋を出されて、職場に戻る途中。道の先で見知った顔を見つけた。目が霞んで景色がぼやけているが、間違いない。
カイン様だ!
声をかけようとして、足が止まった。
思わず自分の姿を見下ろす。灰色のドレスはあちこち糸屑と布のかすがついている。アイロンをかける暇もないので座りじわができている。
髪をなでつけてみるが、ぼさぼさでどうにもならない。指先だけがいつも通り整えられていた。
逃げてしまおうかと一瞬思う。悲しむかな。悲しませたくないな。
テルミーはもう一度ぼさぼさの髪を撫でつけ、手を前で組み深く頭を下げる。気づかずに通り過ぎてくれないかしら。
「ああ!テルミーさん!」
ですよね。
顔を上げると、朝の陽に負けないくらい眩しく笑っているカインがいた。
「お久しぶりです」
「あ、お、おひさし、ぶりです……」
しょぼしょぼと目を上げる。
カインは腕を差し出してくれる。体重を少しだけカインの方に預けて歩くと、体が楽になった。自分のつま先が、ドレスの先から出入りするのを眺めながら歩く。
「テルミーさん、お会いしたかった」
「わ、私も……あっ、いやあの、へんな意味ではなくて」
「私のはそういう意味です」
テルミーの実家の近くに川がある。雨が降った翌朝には、勢いを増した流れが木の枝をものすごい速さで運んでいくことがある。
寝不足で物事の区別が曖昧な頭はそんなことを思い出した。今、テルミーは川に流される小枝。濁流に揉まれながら、手を振るように楽しそうに遠ざかっていった小枝。
「それよりもテルミーさん、大丈夫ですか?体調が悪いのでは」
「ご心配、ありがとうございます。私が一番元気くらいなもので」
「大変なお仕事だ」
テルミーは安心させるために微笑しようとして失敗した。口角が上がらない。
酒を飲んだ時のような、泥を頭から被ったような朦朧感。どこもかしこも重いのに足元は雲の上を歩いているよう。
「お疲れですね」
「いま、カインさまの巾着袋をぬってて……しごと終わりにやってるから寝不足で」
「…………テルミーさん?なんの話です?」
「カインさまの瞳によく似た浅葱色のぬ、ぬな、ぬぅ、ぬの、を巾着にして……たんぽぽぽの綿毛を刺繍してます」
「テルミーさん、もしかして俺の誕生日プレゼントを!?」
「ふふ、秘密です。……カインさまも、ひみつにしてくださいね」
「……私は、誰に秘密にすれば良いのでしょう?」
「そりゃあカインさまにきまってます」
もう。カイン様ったら。カイン様の誕生日プレゼントなんだから、カイン様に知られたらいけない。だってカイン様にあげるんだから。カイン様には秘密。
「…………テルミーさん」
「ほぁい」
あくびを噛み殺したら変な返事になった。
「あまり眠れていないのでしょう。お気持ちだけで充分ですから、今日は早く寝てくださいね」
視界がなんだか暗いなあと思っていたら、なんのことはない、まぶたが半分落ちかかっていた。手の甲でこすると、そっと止められる。
「いけません。ああ、隈もできてる」
「やだ。はずかしい。あまり見ないでください」
「頑張り屋の証です。何を恥に思うことがありましょう。堂々としてらっしゃい」
───あら、また忙しさにかまけて、身だしなみを疎かにして。ママ恥ずかしいわ
───お母さんほどの器量よしになれとは言わんが、刺繍の腕だけでもらってくれる男はいないと思いなさい
───お縫い子なんて激務でしょう、おばさん心配だわ。体を壊す前に辞めるのよ
何を恥に思うことがありましょう。堂々としてらっしゃい。
テルミーは顔を上げた。
「カインさま。まだ私のなまえ、知りたいですか?」
「はい、もちろん。あなたから信頼されたいですから」
「なまえは私の恥です。それでも?」
狼狽えるカインをぼんやり見上げる。緑が散った青の中にビーズが縫い付けられている。と思ったら、陽光を照り返した雪が瞳に写り込んでいたのだった。
瞼を閉じると、冬の空気に撫ぜられて涙が滲んだ。
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