第4話 テルミー、ユアエブリシング!
この時期の井戸水の冷たさと言ったらない。
汗を拭くために桶に汲んだ水に布を浸して絞り、かじかむ指を叱咤しながら何度も体を拭く。
「カイン様。おはよう、ございます」
カインは驚いて飛び上がった。やっと白み始めた空の下、所在なげにテルミーが立っている。
「テルミーさん?どうしてここに」
「お、お湯を持ってきました」
呆然とするカインの隣に立ち、テルミーは持っていたやかんから桶にお湯を注いだ。
「き、騎士団の消灯時間は、厳格だと聞きました。なら鍛錬をするなら早朝だろうと。……私が思っていたよりもずっと、早起きでいらっしゃいますね」
「……俺に会いに?」
「せ、背中を拭きます」
手を出され、ぼんやりしたまま布を渡す。その指先がかすかに震えていた。
テルミーは布を浸して絞り、背後に回ってカインの背中を拭いてくれる。刺すような冷たさに耐えながら荒っぽく擦っていた肌が、テルミーの手で甘やかされて、じりじり攣るようなあたたかさ。なんだこれは。夢?
「カイン様、仰ってました。服を通してではなく、自分自身を見てほしいと」
「は、はい」
「その通りだと思いました。服だけを見て、その人を理解した気になってはいけない。直接向き合わないと、いけない」
「そ、れは、こういう意味では……っ」
カインは今、体を拭いていたのだ。つまり上裸。好きな女の子に背中拭いてもらって、え?なんだ?夢?
「ご、ご迷惑でしょうか」
「いいえ全く」
言下に否定した。もう夢でもなんでもいい。心臓が痛い。生きてる。
「迷惑どころか。ちょっと心の準備が追いつかなかっただけで」
「……私も、同じ気持ちです」
テルミーが前に回ってきて、布を手渡される。下を向いていて、表情はわからない。
「名前は、……言えませんが。それでも良いと言ってくださるのなら、明日も来ます」
声が震えていた。
「は、…………」
「ご迷惑なら、そうおっしゃってください」
「め、迷惑だなんて、そんな……そんなこと、言えるわけないじゃないですか」
「では、また明日」
「……また、あした…………」
ぺこりと丁寧にお辞儀をしたあと、テルミーは空のやかんを片手に去っていく。
つい昨日のこと。迷惑なら言えと、迫ったのは自分だ。
「……ごめんなさい、テルミーさん。……これは、困ります、ね……」
ふらふらと足の力が抜けてしゃがみ込む。両手で顔を覆い、熱いため息をついた。
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上等なシルクやレースに、爪が引っかかったら大変だ。心得のあるお縫い子たちは、手指のケアを欠かさない。
「最近、綺麗になったよね」
ヘンリエッタがテルミーの爪をヤスリにかけながら、そんなことを言った。朝食後、仕事が始まるわずかな時間にかわりばんこでするのが2人の習慣である。
「え、な、なに急にっ」
「知ってる?恋をすると女の子って可愛くなるんだよ」
「じゃ、じゃあヘンリエッタはいつも可愛いからずっと恋をしてるのね」
もう、テルミーったら。手首のスナップを効かせながら肩をはたかれて小気味よい音が鳴った。
「あの騎士様?」
「……そ、そんなんじゃないよ」
「じゃあ、私頑張っちゃおうかな?」
え。
ヘンリエッタはにこにこしながらテルミーを覗き込む。
夏空のような瞳の中に、あたたかな愛情が見てとれた。
……私への愛情?それとも、あの人を思い出しているの?
「テルミー、お願いがあるの。騎士様の好きなものを聞いてきて欲しいの」
「えっ?……な、なんで!?」
「え〜?秘密」
反射的に引こうとした手をぎゅっと握られる。くすくすと笑いながら詰め寄られる。
「だってテルミー、騎士様とはなんでもないんでしょ?」
「……う、うん。だから聞かないよ、会えないもの」
「あ、嘘。最近部屋を抜け出してるでしょ。まだ真っ暗な朝のうちから。会いに行ってるんでしょ〜?」
「き、気づいてたの!?」
「同室だからね」
「起こしちゃってたんだ、ごめん」
「いいよん。お詫びにカイン様のお好きなもの、聞いてきてね」
ふうっと爪に息を吹きかけて、今度は少量のオイルを指先に塗りこんでくれる。冬場は保湿が必要だ。特に王族の衣装を仕立てるこの時期には、いつもより質の良いオイルを2人でお金を出し合って購入するのだ。
「動物や植物がいいかな。刺繍のデザインに出来そうなものが助かるね」
「刺繍……」
「カイン様の好きなものをハンカチに刺繍して差し上げたら、私のことも見てくださるかしら」
「は、ハンカチ……?」
女性から男性に、刺繍のハンカチを贈る。その意味がわからないほど、テルミーは子供ではない。
艶やかな黒の癖毛に、ぱっちりした二重の瞳。なめし革のような肌。刺繍のヘンリエッタの異名を取る達人は、瞳に鋭い光を宿してにっこり笑った。
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カインは完全に開き直った。
恋には不慣れである。だが努力は得意だ。努力、それすなわち目標の設定、反復練習。適度な相談。これに尽きる。
カインに足りないのは明らかに"相談"の項目だった。
ニコライ曰く。
「気をつけろ。"おともだち止まり"ってやつにならないように、決めるとこはビシッと決めてけ」
ヘンリエッタ曰く。
「そもそもあの子のどこがお好きなんですか?テルミーのことなにもご存知ないですよね?……あ、わかります。テルミーのそういうところ、いいですよねえ。うんうん。え?アドバイス?しません」
ラムゼイ曰く。
「めっちゃいい人じゃないですか?テルミーさん。今テルミー派とヘンリエッタ派で分かれて戦ってます。模擬戦です。レグナード様もどうですか?……なんでお怒りなんですか?」
様々な人に相談したせいでカインの恋心が広まってしまった。しかもろくな答えは返ってこない。
そもそもの目標設定が高すぎるのかもしれない。テルミーの愛を得るという壮大な目標を見直し、初心にかえって名前を知るところから始めることにした。
「というわけでフィン、頼みがある」
あれから少し経ち、木々の葉が落ちて雨の日が増えた。冬至の晩餐会に向けて、騎士団は要人警護の割り振りと動きの確認に忙しい。
フィンは高位文官だ。王宮で働く人々の名簿を調べる権限がある。
「ある女性について、調べて欲しいんだ」
フィンは首を傾げた。香色の髪が揺れる。フィンの執務室で、向かい合って椅子に掛けている。
「女性、ですか?」
「ああ。名前が知りたい」
「聞けばいいのでは?」
「教えてくれない」
いつもは上品に結ばれている口元に、にやりと笑みが浮かぶ。この友にしては珍しい表情だった。
「名前を明かさない女性ですか。それはあなたが興味を持つのも頷ける」
「揶揄わないでくれ。俺は本気なんだ」
丸眼鏡の奥で、髪と同じ色の瞳が瞬きをする。
「で、どういう方なんです。その幸運な女性は」
「お縫い子なんだ。かなりの凄腕」
「凄腕ってなんですか」
「着心地が違うんだ」
「へえ。そんな違います?」
「意識すると全然違う」
そう、意識してしまったのだ。気づいてしまった。
「特徴を聞きましょうか」
「ちょこんとしてて、実家のうさぎに似てる。あんなに可愛い人は初めて見た」
「急にポンコツになるのやめてください。具体的にお願いします」
「色白で、栗色の髪だった」
「たくさんいそうですけど」
「青い目だった。小柄でふっくらしてて、丸顔で。あ、そうだ、少しどもりがあった。早縫いのテルミーと仲間からは呼ばれているらしい」
「……ん〜、なるほど?」
フィンは立ち上がり、うろうろし始めた。彼が考え事をする時の癖だ。彼曰く、頭の中は動いているのに体だけじっとしているのは不自然とのこと。
「どうして彼女が名前を明かさないのか聞いたことはあります?」
「はぐらかされてしまった。急に距離を詰められたと思ったのかもしれない。怖がらせたのかも」
「で、名前を知ってどうするんですか?」
カインは勢いよく立ち上がった。
「ご両親を攻略する」
「外堀から埋めようとしないでください」
「もちろん彼女の意思は確認する。恋人の有無を尋ねる。その次は好きな男がいないか尋ね、まずは交換日記から始める」
「交換日記」
「今日にでも買いに行く」
「そうですか」
「一緒に選んでくれ」
「え〜……嫌ですけど……」
本当に嫌そうだった。
「頼む、フィン。君が頼みの綱だ」
背筋を伸ばし、直角に曲げる。それは見事な気をつけ、礼であった。




