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ダリウス視点・前編 こんな女性は、他にいるわけがない

 退屈だった。


 王太子として生まれて二十二年。

 笑ったことがない、とまでは言わないが、少なくとも人前で笑う理由に出会ったことはない。


 夜会は退屈だ。

 誰もが笑顔で、誰もが腹の中で別のことを考えている。


 その夜も、私は壁際でグラスを傾けながら、弟のユリウスを眺めていた。

 正確には、弟の腕にぶら下がっているピンクブロンドを。


 ロザリンド・フェアリーベル伯爵令嬢。

 ここ半年で、三組の婚約が彼女の周りで壊れている。

 報告は上がっていた。 どれも「令嬢が嫉妬していじめた」という話で、どれも証拠は令嬢本人の涙だけ。

 一度、弟には忠告した。


「婚約者を疑う前に、まず自分の目で確かめろ」

「兄上はロザリンドを誤解しているんです」


 ……どうやら、話が通じないらしい。


 くだらない。

 とはいえ、疑惑だけで王太子の私が口を出せば、今度は王家が一人の伯爵令嬢を不当に糾弾したことになる。

 過去の夜会に居合わせた者にも探りを入れていたが、誰もはっきりとは証言しなかった。

 決定的な証拠がない以上、今は動きようがない。


 ――あの瞬間までは。


「きゃっ!酷いですわ、アメリー様!」


 聞き覚えのある名前に、視線を向けた。


 アメリー・ヴァルモン公爵令嬢。

 弟の婚約者。


 礼儀正しく、隙がなく、つまらない女だと思っていた。

 弟にはもったいないが、私の興味を引く相手でもない。


 ロザリンド嬢のドレスには、小さな赤い染みが三つ。

 彼女が自分でグラスを傾けたのは、壁際からでもはっきり見えた。


 やり慣れている、いつもの手口か。


 弟が駆け寄り、ロザリンド嬢が胸に顔を埋める。

 あとは決まりきった筋書きだ。

 公爵令嬢が青ざめ、言い訳をし、誰にも信じてもらえず――。


「三滴ですわね」


 ……ん?

 アメリー嬢が、くるりと振り返った。

 給仕から受け取ったのは、サングリアの鉢。


 夜会の人数分。


 まさか……?


 王太子教育で、およそあらゆる事態への対処を学んできた私が、本気で「まさか」と思った。


 ざっばぁぁぁん。


 赤い奔流が、ピンクブロンドを飲み込んだ。

 そして飛び散った飛沫のひとつが、靴の先に、ぴしゃりと着地した。


「…………」


 靴を見下ろす。

 深紅の染み。オレンジの香り。

 顔を上げると、アメリー嬢が空の鉢を給仕に返し、それはそれは美しいカーテシーをしているところだった。


「それでは、ごきげんよう」


 背筋を伸ばして去っていく後ろ姿を、しばらく呆然と見送った。

 腹の底から、何かがせり上がってくる。


 まずい。


 グラスを急いで置き、早足にバルコニーに出た。

 扉を閉め、誰もいないことを確かめてから、手すりに額を押しつける。


「……っ、ふ、くく……っ」


 肩の震えが止まらない。


 鉢ごと。

 三滴相手に、鉢ごと。


 その夜、私はバルコニーで十分ほど動けなかった。


 翌日、侍従に命じた。


「ヴァルモン公爵令嬢について、調べてくれ」

「ご婚約者様の件で、何か問題が?」

「いや。ただの興味だ」


 侍従は、ありえないものを見る目で私を見た。


 報告によれば、ヴァルモン公爵家の家訓は『受けた恩は十倍にして返せ』。


「なるほど。では昨夜のあれは、恩ではないものを十倍にしたわけか」


 その翌週には、学園から別の報告が届いた。


「ロザリンド嬢が、中庭の池に……」

「ほう」

「その、直前に廊下の絨毯にご自分で座り込まれ、『突き飛ばされた』と……」

「それで、本当に突き飛ばされたと」

「はい。鴨の親子が、たいそうお怒りだったそうです」


 書類で顔を隠す。

 侍従が、またありえないものを見る目で私を見た。


 あの靴は、まだ洗わせていない。

 侍従長には「王太子殿下、そちらの靴は処分を」と三度言われたが、三度とも断った。


 自分でも理由はよくわからなかった。


 卒業記念舞踏会。

 弟が大広間の中央に立ったとき、私は王族席から身を乗り出していた。


 止めるべきなのかもしれない。

 王太子としては、弟の愚行を事前に止めるべきであることはわかっていた。


 だが、正直に言うと見たかった。

 彼女がこの場をどうするのかを。


「アメリー・ヴァルモン!貴様との婚約を、今この場で破棄する!」

「はい、やりました」


 一言目で、もう駄目だった。


 弟が口をぱくぱくさせているのを横に、アメリー嬢が手際よくロザリンド嬢のピンを抜いていく。


「一本の十倍は、十本ですわね」


 ぼふっ。


 綿菓子が誕生した瞬間、私の中で何かが決壊した。


「――ははっ。はははははっ!」


 大広間中の視線が、王族席に集まるが、知ったことか。

 二十二年分の笑いが、まとめて噴き出してきたような気分だった。


 階段を下りながら、考えていた。

 この国の令嬢たちは、皆、我慢することを美徳として育てられる。

 冤罪をかけられても、泣いて耐えて、黙って身を引く。

 それが淑女だと。


 だが彼女は、我慢しなかった。

 そして、嘘もつかなかった。


 濡れ衣を着せられ、泣くのではなく、やられたことにされたから本当にやった。

 全部、皆の目の前で。


 その結果、誰もが自分の目で見たものを信じ始めた。

 半年間、誰の証言も通らなかったのに。


 こんな女性は、他にいるわけがない。

 逃してなるものか。

ブックマーク、★★★★★、リアクション

よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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