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ダリウス視点・後編 残り九回が、楽しみでならない

「私が君に求婚するという恩を売ったら、十倍の愛で返してくれるか?」


 口にしてから、自分でも驚いた。

 もう少し段取りというものがあるだろう、と頭の片隅で王太子教育が抗議しているけれど、もう止められない。

 アメリー嬢が真っ赤になって目を逸らすのを見たら、どうでもよくなった。


「……恩か仇かは、これからの殿下次第ですわ。どちらでも十倍でお返しします」


 ああ、やはり。

 私の人生は、もう退屈しないらしい。


 ロザリンド嬢が私の周りに現れるようになったのは、婚約が内定した翌週。


「ダリウス様ぁ、わたし、アメリー様にずっといじめられてて……」


 上目遣い。潤んだ瞳。小さく震える肩。

 なるほど、これで弟たちは落ちたのか。


 だが私は、この女がサングリアを浴びる直前の顔を知っている。

 綿菓子になる直前の顔は、この目で見た。

 池に落ちる直前の顔も、報告書で読んだ。実際に見ることができなかったことが残念だ。


 自分で三滴こぼしたあと、獲物が罠にかかるのを待つ、あの顔を。


「知っている。サングリアと池と綿菓子だろう」


 何度追い払っても、彼女は懲りなかった。

 むしろ日を追うごとに、目つきが鋭くなっていく。


 まだ決定的な場面が足りない――そう考えているのが、手に取るようにわかった。


 ならば、用意してやればいい。

 私はその間に、過去三件の婚約破棄の場にいた者たちを、ひとりずつ訪ねて回った。


 驚いたことに、ほとんど全員が「実は見ていた」と言った。

 ただ、あのときは言い出せなかったのだ。

 泣いている令嬢を疑うのは、紳士淑女のすることではない気がして、と。


 だが、サングリアの夜会以来、皆、少しずつ口を開くようになっていた。


 アメリーが、この国の空気を変えたのだ。

 本人はたぶん、ただスカッとしたかっただけなのだろうが。それすらも彼女らしく愛しく思えてくる。


 春のガーデンパーティーの前夜、父の執務室を訪ねた。


「父上。明日、もしロザリンド嬢がアメリーに何か仕掛けてきたら」

「ふむ」

「ヴァルモン家の家訓をご存じかと、お尋ねします。そうしたら――」

「『許す』と言えばよいのだな」

「……話が早いですね」

「サングリアの話は、宮廷中で聞いておる。王妃など、なぜ自分はその場にいなかったのかと、まだ根に持っておるぞ」


 父は髭を撫でながら、にやりと笑った。

 この人も、退屈していたのかもしれない。


 そして翌日。

 ロザリンド嬢は、予想どおり、いや予想以上の舞台で仕掛けてきた。


 国王の御前。

 しかも、心理的に紅茶をかけられたという、斬新な主張つきで。


「うむ。許す」


 父が重々しく頷いたとき、隣で王妃である母が、扇の陰で小さく拳を握るのが見えた。


 アメリーがシャンパンのボトルを一本ずつ丁寧に抜いて並べたときには、私はもう奥歯を噛みしめて笑いをこらえていた。


 王家のシャンパンは、もったいないらしい。

 そしてロザリンド嬢は、もったいなくないらしい。


 ざっばぁぁぁぁぁん!!


 氷のかけらが春の陽射しにきらめく。

 その様は、あの夜の飛沫よりもさらに美しかった。


 すべてが片づいたあと、王宮の庭園で、アメリーに尋ねた。


「もし私が浮気をしたら、君はどうする?」

「浮気は重罪ですので、百倍ですわ。王宮の裏の湖が、ちょうどよい水深かと」


 真顔だった。

 間違いなく本気で、欠片も冗談の顔ではない。


 吹き出しながら、心に固く誓った。

 この女性を、生涯大切にしよう。


 愛しているからだ。

 それ以外の理由は、ない。


 ……ないが。

 翌朝、念のため、王宮の裏の湖の水深を測らせると、侍従がありえないものを見る目で私を見た。




 結婚式を十日後に控えた夜。

 衣装部屋で婚礼衣装の仮合わせをしていたアメリーが、奥の棚の前でぴたりと動きを止めた。


「……殿下。これは」


 彼女の手には、深紅の染みのついた靴が一足。


 しまった……

 王太子教育は、この事態への対処法を教えてくれなかった。


「サングリアの夜の……ですわよね?まだ、お持ちだったのですか」

「……捨てられなかった」

「侍従長様が『殿下が靴を洗わせてくださらない』と嘆いていらしたのは、これでしたのね」


 まさか告げ口されていたとは。

 アメリーは、しばらく黙って靴を見つめていた。

 笑われるかと思った。あるいは呆れられるか。

 けれど彼女は、靴をそっと胸に抱くようにして、小さな声で言った。


「……あの夜、私、本当は少し震えていましたの」

「君が?」

「ええ。鉢を持つ手が。スカッとしたのは本当です。でも帰りの馬車の中では、明日から私の味方はマリアンヌだけになるのだろうな、と思っていて」


 知らなかった。

 あの完璧なカーテシーの裏で、彼女がそんなことを考えていたなんて。


「でも、殿下は見ていてくださったのですね」

「……ああ。最初から最後まで」

「三滴のところから?」

「もちろん」


 アメリーが、ふっと笑った。

 少しだけ泣きそうな、見たことのない顔。

 まだ知らない彼女の表情があることに嬉しくなる。

 彼女の手から靴を受け取って棚に戻すと、空いた両手を取った。


「アメリー。もう、ひとりで震えなくていい。これから先、君が鉢を持つときは、私が隣で氷を用意しておく」

「……それ、共犯ですわよ」

「王太子が共犯なら、誰も文句は言えないだろう」

「ずるい方」


 彼女は頬を染めて、少しだけ背伸びをすると、頬に柔らかいものがほんの一瞬だけ触れた。


「……今のは」

「求婚していただいた恩の、とりあえず一回目ですわ」


 真っ赤な顔で、彼女は目を逸らす。


「あと九回、ありますので」

「……分割払いか」

「十倍を一度にお返ししたら、殿下が倒れてしまいますでしょう?」


 倒れるかもしれない。

 現に今、膝がかなり怪しい。

 彼女を抱き寄せ、その額にそっと口づけた。


「では、利息は私が払おう」

「り、利息……?」

「毎日ひとつずつ。生涯かけて」


 腕の中で、アメリーが小さく呟いた。


「……それでは、いつまでたっても返し終わりませんわ」

「そうだな。そのつもりだ」


 衣装部屋の奥には、今も深紅の染みのついた靴が一足、大切にしまってある。

 あれほど気持ちのいい飛沫は、後にも先にもあの夜だけだ。

 そして、あれほど甘い「一回目」も、きっと。


 ――残り九回が、楽しみでならない。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

感想にありました、ダリウス視点を追加させていただきました。

楽しんでいただけたら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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― 新着の感想 ―
王太子に婚約者が居ないのに弟にだけ婚約者が居るのはなぜ?!と思ってしまった。 もしや他国から王女を貰う予定だった?そのうちどっかの王女が 乗り込んできて新たな10倍返しストーリーが始まるのでは?w
恩を返すのは良いとして、やっぱりやられたら相手がやり返す気も起きないくらい徹底的にヤらねば(°▽°)
10倍返しって家訓、好きです。 田中芳樹の「銀河英雄伝説」にも同じようなセリフがあって(「恩は10倍に、恨みは1000倍にして返せ」というのが家訓だというようなもの)好きでした。 結婚でよく言うのが…
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