第三話 どちらでも十倍でお返しします
ああ、清々しい。
婚約はなくなったけれど、ワインもかけたし、池にも落とした。ついでに綿菓子にもした。
泣き寝入りなんてひとつもしていない。
これはこれで、悪くない幕引きなんではなかろうか。
そう思って踵を返したときだった。
「――ははっ。はははははっ!」
大広間の二階、王族席から、腹を抱えるような笑い声が降ってきた。
声の主は、王太子ダリウス殿下。
ユリウス殿下の兄君。
銀の髪に青い瞳。
冷徹で有能、笑ったところを誰も見たことがない――と噂されている方が、手すりに突っ伏して肩を震わせていた。
「兄上!?何がおかしいのですか!」
「おかしいだろう、ユリウス。お前は三回も目の前で見ていて、三回とも気づかなかったのか」
殿下は階段を下りてくると、まっすぐ私の前に立った。
「ヴァルモン嬢。サングリアの夜会、私もいたんだ」
「まあ。お見苦しいところを」
「いや。あの夜、飛沫が私の靴にかかってね」
「それは大変失礼を――」
「あれほど気持ちのいい飛沫は初めてだった」
……この方、もしかして少し変わっていらっしゃる?
「ひとつ聞きたい。ヴァルモン家の家訓は『受けた恩は十倍にして返せ』だったな」
「はい。……最近は恩以外にも適用しておりますが」
「では」
殿下は私の手を取り、その場に片膝をつくと、大広間がさっきとは別の意味で静まり返る。
「私が君に求婚するという恩を売ったら、十倍の愛で返してくれるか?」
「…………」
顔が熱い。
サングリアをかぶったわけでもないのに。
「……恩か仇かは、これからの殿下次第ですわ。どちらでも十倍でお返しします」
「望むところだ」
殿下は楽しそうに笑った。
「えっ」
ユリウス殿下の小さな声が聞こえた気がした。
そして綿菓子頭のロザリンド様が、ものすごい顔で私を睨み――次の瞬間、その視線が、すうっとダリウス殿下へ移った。
ああ。
まだ終わらないのね。
案の定、ダリウス殿下との婚約が内定して一週間。
ロザリンド様は、ユリウス殿下をあっさり放り出した。
「ロザリンド、どこへ行くんだ!俺と一緒になると言っただろう!」
「ごめんなさいユリウス様、わたし、本当の気持ちに気づいてしまって……」
本当の気持ちという名の王太子妃の座に気づいたロザリンド様は、今度はダリウス殿下の周りに出没し始めた。
「ダリウス様ぁ、わたし、アメリー様にずっといじめられてて……」
「知っている。サングリアと池と綿菓子だろう」
「そ、そうです!ひどいでしょう!?」
「全部見ていた。その直前も含めてな」
「…………」
殿下の返しは毎回こんな調子で、隣にいる私は笑いをこらえるのに必死だった。
普通なら、ここで諦めるだろう。
けれどロザリンド様は、ダリウス殿下にまるで相手にされない日が続くにつれ、むしろ以前より必死になっていった。
どうやら彼女の中では、やり方が間違っているのではなく、まだ決定的な場面が足りないことになっているらしい。
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