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第7話 線を引き直す バンコク

雨上がりの舗道は、薄い藻みたいにぬめっていた。屋台街の鉄板の角に、丸い水たまり。そこに赤い尾灯がひとつ落ちて、揺れて、消える。QRのピッという音と、硬貨のぶつかる音が交互に鳴り、寺の扇風機が風を切るたびに、電球が微かに揺れる。湿った熱気に、唐辛子の粉が喉の奥で小さく刺さった。


角の屋台の前に、手書きの札が立っていた。薄いベージュの紙に、黒。真ん中に少し癖のある文字で「正札」。その横に、スマホの画面が小さく光り、「本日の最適価格」と英語とタイ語で同じことを言う。二つの線が、並んで立っている。


「どっちでも」


屋台の女主人が言った。髪を高く結び、エプロンの紐を二重に回している。名前はピム。首筋に細い汗。目の奥が、眠っていない。彼女はタレを刷毛で鉄板に塗り、香りが上がるのを見てから、こちらを見た。


「AIの値は、みんなに同じ。私の値は、今日の私。これが、私の線」


僕は頷き、札の縁を指でなぞった。紙は薄く、でも芯がある。雨上がりの空気を少し吸って、端がわずかに波打っていた。正札の上に置かれたクリップが、紙の重さに安心している。


最初の客は、近所の高校生だった。鞄を片方の肩だけに引っ掛けて、画面と札を見比べる。「今日は部活のあとで腹が減ってる」とタイ語で言い、正札を指差す。ピムは笑って、鉄板の音を少しだけ大きくした。「辛さは?」と聞く前に、唐辛子をひとつまみ多めに落とす。AIの価格より僅かに安いのか高いのか、僕にはわからない。大事なのは、唐辛子の落ちる速度のほうだと思えた。


次の客は、観光客の夫婦。手首のデバイスが同じ色で、歩幅が揃っている。画面の「最適価格」が彼らの目を引き、決済の音は速かった。二人は写真を撮り、すぐに立ち去る。AIの光の跡だけが、台の端に一瞬残る。


その次は、近所の母娘。娘はタブレットで宿題をしながら、母は小銭を出して正札を指差した。ピムは返す釣銭と一緒に、氷の入った水を小さなコップで渡す。娘は顔を上げて「ありがとう」と言い、タブレットの隅にコップを置いた。画面の光が水に入って、底に文字が揺れる。


「並べることに、意味がある」


ピムは言って、二つの札の間隔をほんの少し詰めた。指先の動きが、紙の角に短い音を作る。「選べると、人は落ち着く。どっちも“正しい”。でも、どっちかが“私たちにとっての正しさ”かは、日による」


彼女には、記録があった。ノート。油の染みが角に丸く広がって、紙の色が濃くなっている。ページが日ごとに折り目を持って、掌に収まる厚さ。数字はあるが、表の線は引かれていない。代わりに、短い言葉が列になっていた。


日曜:AIだけで出した。行列。回転、速い。会話、薄い。夜、指が冷たい。

月曜:正札も出した。回転、少し遅い。会話、戻る。隣の屋台の人が笑いに来る。

火曜:雨。正札の字、にじむ。紙、取り替え。娘、字を書くのを手伝う。

水曜:AIの値、跳ねた。正札、据え置き。常連、来る。唐辛子、多め。


数字で説明できることは多い。でも彼女は、日を「手触り」で覚えている。正札の紙は、雨で一度ふやけ、乾いたときに少し短くなった。角がやさしい。AIの画面はいつも同じ輝度で、汗や雨で決して滲まない。


夕立が再び来た。ピムはさっとビニールを広げ、画面を覆い、正札の上にだけ乾いたタオルを乗せた。タオルはすぐ湿り、紙は守られた。水の筋が台の縁を滴り落ち、足元に浅い川を作る。通り過ぎるバイクのタイヤがその川を横切り、短い白い線が生まれては消えた。


僕は、昨日からポケットに入れっぱなしの旅日記を出し、傘代わりに少しだけ上にかざした。ページの角に雨粒が乗り、丸い跡が遅れて広がる。ピムが目ざとく見つけて、「紙」と言い、うなずいた。


「紙は、雨で重くなる。重い紙は、強い。乾いたら、少しだけ形が変わる。でも、それも“私の紙”になる。画面は、水の前でいつも正しい。正しさはありがたいけど、今日は、私の紙のほうが好き」


夕立が収まり、空気がほんの少し軽くなると、客がまた増えた。背の高い青年がやってきて、AIの価格を見てから、正札のほうをじっと見た。


「どっちが安い?」と彼は英語で聞いた。


「あなたの今日に、安いほう」とピム。


青年は笑って、正札を指差した。「今日は、そっち」


ピムは鉄板に麺を落とし、手首の角度だけで火の当たりを変えた。香りが立つ。皿に盛り終わってから、ピムはわずかに身を乗り出して、小声で言った。


「“最適”は、日によって、心にやさしくない」


それ以上は言わない。言わないことで伝わることを、彼女はよく知っているようだった。


夜が深くなるにつれて、二つの札の間に人の選択が揺れ、揺れの跡が紙と画面に薄く残る。紙の角は、誰かの指油で少し艶が出た。画面は終始きれいで、触れた痕跡を残さない。


屋台を閉める前、ピムは正札を外し、裏に小さく「今日」と書いた。裏面の紙は、昼間より濃い。書いた文字が乾く前に、彼女は息を吹きかけない。にじむのも、今日のうちだという顔で。


「札、どこで買ったんですか」と僕が聞くと、ピムは通りの端の小さな文房具屋を指さした。「紙、いろいろ。あなたの紙も、そこにある」


文房具屋は、扇風機がひとつだけ回っていた。棚の木が古く、角に緑の塗装が残る。紙の束が重なり、背表紙のないノートが輪ゴムに束ねられている。店主は老眼鏡を額に上げ、僕の手元の旅日記を見て、似た質感の小さな紙束を出してくれた。手で触ると、指の腹にざらりと音が出る。値札は鉛筆書きで、角が消しゴムで一度消された痕があった。


「これをください」


「何に使う?」


「まだ、何にも」


店主は笑って、包み紙を二重に巻いた。外の包みの角を折るときの音が、やけに心地いい。店を出ると、路地の風が紙の匂いをわずかに運び、背中の汗に混じった。


宿に戻る途中、ピムの屋台の前をもう一度通る。彼女は鍋を洗いながら、画面の電源を落とし、正札を引き出しにしまい、鍵をかけた。鍵の金属音が短く響き、通りの音にすぐ馴染む。並んでいた二つの線は、今は一つも見えない。でも、しまわれた線の位置は、夜の空気にうっすら残っている。


部屋で扉を閉めて、買ってきた小さな紙を引き出しに入れる。何も書かない。手前に置く。引き出しの中は暗く、紙の端だけが白く浮いて見える。指先で一度だけ撫でると、さっきの雨の跡と、紙のざらつきがまざって、短い音になった。


——


翌朝、同じ屋台に行くと、正札の字が少し変わっていた。昨日より丸い。“ピムの字”ではあるけれど、別の日の丸さだ。彼女は気づくと、笑って肩をすくめる。


「娘が書いた。私の字は眠く見えるって」


「眠く見えるの、悪くない」


「うん。眠い字の日に、おいしい日もある」


通りの向こうで、QRのピッという音が少しだけ増え、硬貨の音が減った。風が一度止まり、寺の扇風機が更に大きな音を立てる。僧の衣の橙色が、風の止まった空気の中でよく見えた。


正午前、ピムはノートに何かを書き足した。僕は覗き込まず、ただ彼女の背中の傾きだけを見る。字の線が紙に沈み、指が少し汚れるのが遠目でもわかる。きれいすぎる線は、ときどき、不安に似ている。昨日の夜に書いた二重線の跡が、掌のどこかでまだ温かい。


昼下がり、客の波が一瞬途切れたとき、ピムがふいに言った。


「あなたの札は、どこ?」


「まだ白紙」


「いいね。白紙は怖い。だから、いい」


彼女は笑って、鉄板に油をひと刷毛。油が光を拾い、音を小さく増やす。屋台の端に、風がやっと戻る。旗が一枚、遅れて動いた。


——


麗子のメモ:長文メール


件名:物語設計、という仕事

肩書きを変えることにした。「Webコーディネーター」から「物語設計」へ。値段は変えない。正札だけ、変える。

今日は、見積に「二本の札」を並べた。「最適の札」と「私の札」。説明は一行だけ。「選べると人は落ち着く」。クライアント、笑って「今日はあなたの札で」と言った。

あなたの引き出しにも、白い札があるって思うと、こっちの手が軽くなる。帰ってきたら、一緒に私たちの正札を書こう。空白から始めるやつ。


——


手記の呼応


1995/2/22 バンコク・晴れ・水上バス15バーツ

観光客用と地元用の乗り場が違った。地元用に並んだら、運転手に笑われた。笑いながら、手でこっちを指した。安いほう。水の匂いが強くて、濡れた板に足を置いたら、少し滑った。財布の中の小銭が軽くなったのに、気持ちは軽くなった。自分で選んだ線が、正しい気がした



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