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第6話 迷う線 シェムリアップ→バンコク(陸路)


朝の雨は、大粒で、急に止む。止むたびに屋根の縁から太い線が落ちて、地面に短い音を残す。シェムリアップのバスターミナルは、ビニール屋根が低く、電球が近い。濡れた切符売り場の前で、相場より高い傘が売られている。骨の弱い傘だ。買わない。濡れてから乾くまでの時間を、今日は持っていく。


発車の五分前、端末が震えた。「価格AI:国境までの相乗り提案 −40%」。画面には四つの座席の図。隣の枠に、見知らぬ旅人のアイコンが点いた。承諾のボタンは青い。押す。青い線が細く伸び、席が埋まる。


バスのシートは濡れた布の匂い。背もたれの縫い目が指にざらつく。窓ガラスの内側に、冷房の水滴が並ぶ。ワイパーは外側の雨を消すが、内側の息までは拭えない。隣の席の男は、短く刈った金髪に、濃い色のレインジャケット。腕に薄い傷が一本、真っ直ぐにある。


「ヨハン。ベルリン」彼は自分の胸を親指で軽く叩く。「エンジニア。マニュファクチャリングAI」


名乗る声は穏やかで、単語の選び方が正確だ。彼の端末は、画面保護フィルムの上からでも滑らかに操作できるように、指先に小さな滑り止めのパッドを付けている。画面には旅程が縦一列で並び、分刻みの矢印が、雨でも濡れない線を描いている。


「最も安く、最も速く、最もトラブルのないルート」と彼は端末を少し傾けて見せた。「バンコク到着は、遅れても十八時三十二分。ホテルのチェックインは自動。部屋の温度は二十三度にセット。夕食は“辛さ3”。到着前に注文済み」


笑うと、前歯の裏の金属が一瞬だけ光った。雨脚が強くなり、車内の蛍光灯が一度だけ瞬く。バスが走り出すと、窓の外に長い田の線が現れ、雨でその線が消されては書き直される。


彼は言う。「旅は最適化できる。迷わない。僕は“偶然”を楽しめない。偶然はコストだ」


「偶然は、時々、余白になります」


彼は首を傾けて、窓を見た。雨粒が走る筋の間に、自分の顔がゆがんで映る。


国境の手前で、端末がまた震える。「混雑のため、徒歩での越境に切替。相乗りバンへ自動接続」。僕たちは同じ提案を受け取り、同じ青を押した。バスを降りると、地面の水は温かく、足首の上まで跳ねた。検問所の屋根の下で、列が二本。昨日よりは短い。端末の画面に、また緑の輪が現れて、今度は止まらずに回った。音が一度だけ高く鳴り、記録が残る。


歩いて橋を渡る間、雨は横から来た。ヨハンのレインジャケットの水滴はよくはじき、僕のシャツは薄く重くなっていく。国境を抜け、指定のバンに乗り込む。運転手が手短に点呼をとり、AIが席順を表示する。車内の匂いは、濡れた衣服と甘いスナックと、古いプラスチック。


走り出して十分ほどで、ノアから音声が届いた。画面に彼の名前が小さく跳ね、波形が現れる。後部座席の静けさの中で、イヤホンを片耳だけ挿した。


「聞こえますか? 父が昔の申告書を出してきて、笑ってました。あなたが言ってた“一行”を、僕が代わりに書いたんです。“母の通院のために、今年は時間をずらしました”。AIが“OK”って。父、なんか、肩が落ちたみたいに楽そうでした。ありがとう」


背中のほうから、ヨハンが画面を覗いた。覗くというより、目が自然に吸い寄せられた感じ。波形の上で、笑い声が小さくはじける。


「それは誰?」


「L.A.で会った子。彼の父上の——少しだけ、見た」


「君は、旅先で出会った清掃員とつながってるのか」


「たまたま。たまたまが、残っただけ」


ヨハンは短く息を漏らした。笑っている。笑っているのに、どこか羨ましそうだった。窓の外、雨の線が揃って走り、ワイパーがそれを一気に消す。消えたあとに、ガラスに細い筋が残る。消えたのに、残る。


彼は続けた。「僕の旅程には、そういう“たまたま”の欄がない。欄外がない。仕事もそう。僕は製造ラインの揺らぎを嫌う。揺らぎは不良の前触れだから」


「でも、揺らぎが新しい線を生むこともある」


言ってから、黙った。ヨハンは頷きもしないで、窓の外を見つづけた。相乗りバンは舗装の継ぎ目で細かくはね、天井の薄い布が小さく揺れる。運転手のラジオから古い歌が流れ、歌詞のないサビが雨音に溶ける。


休憩所に入り、十六分のトイレ休憩。AIは「混雑回避のため、三分延長」と提案して、乗客の同意が画面の上に小さな点で集まり、満ちたところで決定する。ヨハンは売店で水とプロテインバーを買い、袋をきれいにたたんでポケットに入れた。僕は屋根の外に一歩出て、雨に顔を当てた。冷たくはない。頬の上を温い水が横へ流れていく。目を閉じると、屋根の端から落ちる水の一定のリズムだけが耳に残る。


「なぜ外に?」


「雨の重さを、少し。体に入れておきたい」


「重さ?」


「昨日、紙にインクを落として。二重線をたくさん引いた。やり直しの跡が残るほうが、安心する夜がある」


ヨハンは理解しようとする顔をして、そして笑った。「僕は“やり直しの跡”が怖い。跡が残ると、プロセスが汚れる」


「きれいすぎる線は、ときどき、不安に似ている」


言葉が空気の上で少しだけ止まり、雨に薄められた。ヨハンは手首のデバイスを見て、到着予定を確認した。十八時三十二分。数字は動かない。


再び走り出すと、国道は長く真っ直ぐになり、バンコクの外縁に近づくにつれて雨が細かくなった。相乗りのアプリが「都心までの追加相乗り −15%」を提示する。ヨハンは即座に承諾。僕の画面にも同じ青。指が一度、止まる。承諾の代わりに、別の選択肢を探す。小さく「近郊で降りる」の文字。知らない停留所の名前が並ぶ。ひとつ前。名前の響きがいい。押す。


「おりるの?」ヨハンが眉を上げた。「まだ都心じゃない」


「一駅、手前で。歩きたい。雨の匂いを、もう少し」


「非効率だ」


「うん」


バンは大きな交差点の手前で停まり、僕の荷物を降ろした。アスファルトは濡れて黒く、白線が柔らかい。信号の下で、透明なビニール傘の群れが薄い音を立てる。ヨハンに手を振ると、彼は窓越しに親指を立て、笑った。羨ましそうな笑顔に、今度は少しだけ光が混じる。ドアが閉まり、バンは滑るように走り去った。


雨の街に一人。地下鉄の入口までの短い歩道を、あえて遠回りする。歩道の継ぎ目が水を抱えている。屋台の屋根から滴が落ち、鼻先で匂いが変わる。油、唐辛子、プラスチック。角をひとつ曲がって、また戻る。予定のない移動は、いつもより体が軽い。傘をさしている人は速く、さしていない人は遅い。速度は、選んだ装備の影響を受ける。


地下鉄の入口に着くと、端末が自動でルートを提案する。最短、最安、階段が少ない。画面を閉じる。代わりに、昔の旅日記をポケットから出し、適当なページを親指で押さえた。紙の角は湿気で柔らかく、端が指に貼りつく。新しいページに、今日の日付だけを書いて、閉じる。雨はまだ降っている。


改札に向かう途中、Sokhaから短いメッセージ。「昨日の“+−”、妻が壁に貼った。子どもが丸を描き足した」。絵文字はない。ただその文だけ。胸のどこかで、ゆっくり何かが温かくなる。欄外の丸が、別の家の壁に移った。


地上へ戻る階段の途中で、立ち止まる。地下鉄に乗れば、十八時代のどこかで宿に着く。乗らなければ、もう少し雨の中を歩く。足は少し濡れて、靴の中で音がする。上へ、下へ。体はまだ決められる。決めないままでいる時間が、今日は贅沢だ。


——


麗子のメモ:音声メモ


[00:18] ノアさん、お父さんと笑ったんだね。波形、聞こえた。

[00:29] 今日、クライアントに「迷っていいです」と言った。AIの最適案を一回横に置いて、二つの“遅い案”を出した。向こう、ちょっと泣いた。

[00:51] 迷いって、線を引く前に置く石みたい。足場。あなたの旅、足場の置き方が好き。

[01:04] 雨、どう? 匂い、送って。


——


手記の呼応


1994/1/26 バス車中・雨

紙の時刻表が読めない。係員も「来るか来ないか」と笑った。次のバスは、来た。窓を伝う水が、字よりもはっきり時間を教える。止まない雨の中で、迷うことを許されている気がした。


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