17 情けない記憶
お風呂から上がって扇風機に当たっていると、やっといつもの自分に戻れた。
「でも屋台――懐かしかったなぁ」
僕があゆちゃんと同じ十歳くらいの頃は、まだ母とよく話をしていた気がする。
学校のこととか、アニメやゲームの話をしていたなぁ。
むしろ母相手に知識をひけらかすように熱く語っていたような……。
小五になってからは――うん。話をしていたと思う。
話をしなくなったのは――それは――。
『なんで? なんでなんだよー‼︎』
母に怒りをぶつけたあの日からだ。
あれは、あまりに恥ずかしい記憶。
幼稚過ぎる自分自身が嫌で、『なかったこと』にしていたから今まで思い出すこともなかった――。
◇◇◇ ◇◇◇
思い出してしまえば、一瞬であの日に戻ることができる。
五年生の二学期が終わる頃だった。
冬休みに入る前の、そうだ――クリスマスイブの一週間前。昼休みが終わろうかという頃。
男子のほとんどは運動場に出ていて、教室には僕ぐらいしか残っていなかった。
女子にとって、僕はほとんど空気みたいな存在だから、男子がいるところならしないはずの恋バナを平気でしていた。
二つ前の席に座っている赤岸真凜を中心に。
彼女は女子のリーダーであると同時に、このクラスの代表だ。
勉強ができてリーダーシップもあるから――というのがクラス代表を決める時の推薦者の意見だった。
他にも、面倒見がよくて誰に対しても親切な人だとか。とにかく欠点が見当たらない美人。
そう――学年で一番の美人。
女子たちは何かにつけてしょっちゅう、「真凜ちゃん、かわいい!」と言っている。
赤岸はその度に余裕たっぷりに、「ありがとう」と受け止めている。
「私なんか」と卑屈なことは言わないのがすごい。僕には真似できない。
最初に見た時は本当に綺麗な顔をしているなぁと思ったけれど、彼女を後ろから見ているうちに、ストレートの黒髪に目がいくようになった。
赤岸はよく、親指と残りの四本の指との間に髪を挟んで後ろに流している。
肩とお尻の間くらいまで伸ばしているサラサラの長い髪は彼女の自慢なのだ。
女子たちもよく、「触らせてー」と言っている。
「でさぁ。でさぁ。その後どうなったと思う?」
「もう、早くいいなよー」
「えー。どうしよっかなー」
「もったいぶんなって!」
ほんと、聞いてほしいのにどうしてもったいぶるのか分からない女子の会話。
聞くつもりはないのに、声が大きいから耳に入ってしまう。
話題もコロコロ変わって、いつの間にか『好きなタイプ』になっている。
アイドルや俳優の名前があがる中、赤岸が答える番になった。
僕はなぜか、息を殺して耳をすませてしまった。
「理想かぁ。そうだなぁ。お父さんみたいな人かなぁ」
「えー! マジでぇー!」
「でも真凜ちゃんのお父さんなら格好良さそぉー」
「だね! だね!」
「うちのは全然ダメだけどね」
「あっはっはっ。うちもだよー」
「あ、うちも。ってことは真凜のとこ以外全滅じゃん!」
「ねえねえ。真凜はお父さんのどんなところが好きなの?」
「えぇぇ? どんなところって言われてもなぁ――」
赤岸が言い淀むなんて珍しい。
他の女子たちも同じように感じたらしく、そこから怒涛の質問ラッシュとなったが、予鈴が鳴ったので強制終了となった。
五時間目は音楽なので教室を移動する必要があるのだ。
教科書を取り出して準備をしていると、立ち上がった赤岸が僕の方を見ていた。
今――赤岸と目が合ってる……?
「三峰君のお父さんて、どんな人?」
…………‼︎
え、何? どういうこと?
「さっきの私たちの会話、聞いていたでしょう?」っていうのが前提にあるのは確かだよね?
その上で、どうして僕の父に話を振るの?
「あ、え? どんなって言われても――」
僕の返事が尻すぼみになっても赤岸は僕から視線を外さず何も言わない。
その先を言うまで逃してくれないのか?
どうして?
「三峰んとこはシンママだよ? 聞いたって答えは返ってこないよ」
何度か同じクラスになった女子がなんでもないことのように言ってくれた。
救われた。
――けど。
「あ、そうだったんだ。ごめんね」
赤岸がフッと一瞬だけ、気のせいかもしれないけれど一瞬だけ、軽蔑とまでは言わないけれど、僕のことを下に見たような、そんな気がした。
「ほらっ、早く行こ!」
僕と赤岸との会話は、赤岸の「ごめんね」で、正常に終了した。
僕以外の人たちには記憶にも残らないような会話なのに、なぜだか全身をかきむしりたいような、体の中で何かが限界に達した気がして、大声で叫びたくなった。
授業を受けている間も、下校中も、ずっと体の奥底からグツグツと湧き上がってくる何か。
その正体も分からず、自分自身の感情を持て余して、帰宅してからも何も手につかなかった。
母が帰宅して何をしゃべったのかは覚えていない。
違う。僕は何もしゃべらなかったんだ。
晩ご飯を食べていてもイライラがおさまらなくって、母に、「何かあった?」って聞かれて爆発したんだ。
無言のままお椀をテーブルに叩きつけるように置いて、そのまま部屋に閉じこもった。
あの時の母の驚いた顔……数年ぶりに思い出した……。
完全な八つ当たり。
赤岸にちゃんと言えたなら違っていただろうに。
正直に物心つく前に父親とは死別したと言えばよかったし、ただ単に父はいないって答えてもよかった。
それを言えなかったのは 僕が心の中で、自分の家がシングルマザーだってことを、どこか恥ずかしく思っていたから。
母親しかいないっていうだけで、ずっとどこか自信が持てずにいたんだ。
そんなこと関係ないのに。
ヘタレでいることを母のせいにしていた。
その夜のことを謝れないまま、翌朝も、翌々日も、ずっと沸々と湧いてくる怒りのような感情から目を逸らして、ただただ時が過ぎるにまかせていた。
母も最初の頃は、「どうしたの?」とか、「なんかあったなら教えて」とか聞いてきたけれど、反抗期が始まったのだと無理やり納得したみたいだった。
ぐつぐつ煮えたぎっていたものは、一週間も経てば温度は下がっていた。
それでも一週間は長過ぎた。
会話の糸口を見つけることができないまま中学生になり、高校生になった。
なんて馬鹿だったんだろう。
母はきっと心配していたに違いない。
元の世界に戻れたら、母が元気になったなら、正直に今の気持ちを伝えて謝ろう。
母の話もいっぱい聞きたい。
答えたくない事は答えてくれなくていいから。話せる範囲で話を聞きたい。
今まで聞いたことがなかったけれど、父のことも聞きたい。
どんな人だったのか。赤ちゃんの僕と会っているなら、何て言っていたのか。
そういうことも話せるような関係になりたい。
もうあの時のような子どもじゃないから。
母に――会いたいなぁ。




