第84話 【神を試してはならない】
side ティア・ショコラティエ
悪かったのは、油断した私だったのだと思う。
村の設備のリストアップに気を取られて、彼の観察に注意を割かなかった私の油断。
「なあ……悪かったな、一昨日は怒鳴って。少し、その子を抱かせてもらえないか?」
この事態に混乱して取り乱した彼も、ようやく落ち着いたのだと思った。
リノさんのように、小さな子に触れてみれば、大人としての自分を意識して精神の安定に繋がるかもしれない。そう思って、彼もそのために赤ちゃんと触れ合いたいのだと思った。
だから……気付いた時には、もう遅かった。
「……『患者』のくせに、異常者のくせに、子供を産んだから治ったってんならよ……『これ』をなくしてやりゃ、絶望してくれんだろ」
彼が、ナイフを隠し持っていたことに気付いたのは、それが赤ちゃんに向けられてからだった。
「な、何を……」
「騒ぐんじゃねえ。誰かを呼ぼうともするな。そうしたら、こいつは死ぬ」
赤ちゃんを人質に取られた。
でも、なんのために?
こんなことをしても、何にもならないのに。
「お、落ち着いて……ロックさん、今の状況に不満があるなら、私が聞きますから……」
「俺は落ち着いてるさ……ああ、そうだ。俺が一番まともなんだ。ちゃんと現実が見えてるのは俺だけだ……俺の前に立って、黙って進め。こいつの母親のところへだ。一言でも喋れば……わかってんだろうな」
本気だ。
というより、彼は『そうなったらそうする』というだけ、そういう目をしている。
そうしたら、赤ちゃんに危害を加えたらきっとここにはいられない、制裁を加えられるだろうとわかっていて、その上でこの行動を取っている。いや、そんな先のことなんて考えていない、今の目の前のことだけを意識している。
そして、そうしながらあくまで冷静さを保って、私の身体でナイフを隠しながら、リノさんの所へ行こうとしている。
なんのために……?
彼は……もしかして……
「ロックさ……」
ダメだ。
正面から問いかけようとしただけで、ナイフが少し動いた。意味のある言葉を紡げば、間違いなく彼は赤ちゃんを殺す。
多分、彼の目的は……
「黙って歩け。いいな」
どうしたら……
side ロック・ウェイトマン
ナイフなんてなくても、少し力を込めれば握りつぶせてしまいそうだ。こんな不確かなものが心の支えなんて、反吐が出る。
『めのまえで めのまえで』
もしも、その心の支えを目の前で失ったら……こいつの母親は、どんな表情を見せてくれるのだろう。
怒り狂うのか、絶望するのか、理解できず呆けた顔をするのか。まあ、同じことだ。
どれにしろ、その弱ったところを踏みつけてやる。
弱らせて、蹴り飛ばして、踏みつけて、確実に俺よりも弱い人間にしてやる。
目の前の小娘だって、人質一人で何もできなくなるんだ。どうにでもできる。
なんなら、この赤ん坊を殺すのを少し我慢すれば、なんだって言うことを聞かせられるだろう。
どんな屈辱的なことも、やらせられる。
この状況で『みんなを守る』とか言える異常者なら、自分が尊厳を失うことで他人の赤ん坊が守れるならそうするだろう。
『みんな みんな みんな』
そうだ……ここにいるのは、異常者ばかりだ。
なら、この人質を持っているだけで、俺はここの支配者になれる。
『たのしも たのしも』
どうせ、ここにいたってみんな死ぬんだ。
なら、最期に何もかも愉しんでやる。
ここには女が何人もいる。この状況で絶望しない、屈しない女共。
それを、足下に平伏させ、汚し尽くしてやる。どいつもこいつも、その目の輝きを奪ってやる。
まずは赤ん坊の母親だ。これを見て、俺の突きつけたナイフを見て、どんな命乞いをするか楽しみだ。
「入れ。それから左に一歩ずれろ」
赤ん坊の母親のいる部屋の仕切りを開けさせ、中に入る。
そして、こちらを向いた母親に赤ん坊が見えるように小娘を動かせ……
「はっ……」
手を口に当てて息を呑む母親の顔を堪能した。
ああ……これを見たかった。自分の子供の命が他人に握られている絶望。悲鳴を上げそうになりながら、それが俺を刺激して子供の命を奪いかねないと必死に声を抑え込む姿。
『さいこう だね』
ああ、最高だ。
目の前に、俺より惨めなやつがいる。
こいつらは、俺の思うがままだ。
「『これ』を返して欲しいなら……助けを呼ぼうとするな。そうだな……まずは、靴でも舐めてもらおうか」
『あはは たのしいね』
side ティア・ショコラティエ
どうしたらいいの?
魔法で攻撃する? だめ、ロックさんは私の後ろにいる。狙いが付けられないし、下手をすると赤ちゃんが……
リノさんが、ロックさんの命令に従ってベッドから降りようとしている。音を立てないように静かに、仕切りの外の人に気付かれないように。
どうにかして私が助けを呼べば……ダメだ。どう考えても『助けを求めたのが気付かれたらいけない状況だ』と伝えきる前に赤ちゃんが死んでしまう。
ロックさんは既に後先考えられない状態だ。
人質を殺してしまえば自分がどうなるかを考えてナイフを止めるなんて思考ができるとは思えない。
いや、それ以前に……
「ああ、そうだな……」
間違いない。
今の彼は……
『ティア。五秒後、素早く、思いっきりしゃがんで。それから、すぐ横に避けて』
この声……テーレさん!
これは、『念話』の魔法?
よくわからないけどとにかく、3、4、5! 今!
「グッドタイミング」
「うぐぁ!」
しゃがむと同時に、頭の上を何かが高速で通り過ぎて行って、直後にロックさんの呻き声が聞こえた。
さらに、横に転がるように避けるとテーレさんが駆け込む。
「【失敗率証明】、赤ん坊にナイフを刺す動作を失敗させたわ」
どうやら、最初に石か何かを頭にぶつけて隙を作ったらしい。
テーレさんはタイミングを逃さずに踏み込み、赤ちゃんに衝撃を与えないためかロックさんの顎に掠らせるような拳を決めて昏倒させようとした。
けど……一瞬で意識の落ちたはずのロックさんの身体が踏ん張り、まるで何かに操られているかのように赤ちゃんにナイフを突き刺そうとする。
その動きはテーレさんにも予想外だったらしく、反応が一瞬遅れた。
「チッ、そういう」
「やめて!」
けれど……ナイフが赤ちゃんに刺さることはなかった。
赤ちゃんへと迫ったナイフが途中で阻まれて、その柔肌へ触れる直前で止まったから……いや、リノさんが、ナイフの刃を力の限り掴んで、止めたからだ。
「やめて……お願い……この子だけは……」
憑かれたようにナイフを突き刺そうとするロックさんの力は、きっと普段の彼が出せないほどに強い。けれど、リノさんは手から血を流しながらも……その刃を、決して我が子に届かせようとしない。
きっと、実際には一瞬のことだっただろう。
身体が弱っていて、戦ったこともない女の人の全力が、正気じゃない男の人の力を上回ったのは、ほんの一瞬の奇跡みたいなものだったはずだ。
けれど、その一瞬はテーレさんが赤ちゃんを奪い取るのに十分な時間だった。
「母は強し……ってね!」
ナイフをはたき落とし、奪った赤ちゃんを抱えたテーレさんの鮮やかな蹴りがロックさんの身体をまるでゴムボールのように吹っ飛ばした時、私には彼女が……テーレさんが、白い翼を持っているように見えた。
side ロック・ウェイトマン
なんだ……何が起きた?
何で俺は倒れてんだ?
何で腹が痛い?
抱えてたはずの赤ん坊はどこにいった?
何で……俺は、この異常者に、一番の異常者に見下ろされている?
「はてさて、何やら騒がしくなったので戻ってきてみれば……ロックさん、どうされました? 顔色が悪いですよ?」
見下ろされている。
見下されている。
よりにもよって、こいつに……こんな、異常者に……
「うるせえ……てめえのせいだ……」
不思議と、身体が動く。
まるで自分の物ではないように、痛みもどこか遠く、他人事のように感じる。
「はて、何かロックさんを困らせてしまいましたかな? ご相談いただければ改善の努力はいたしますが」
「ふざけやがって……」
ナイフはもう一つある。
刃を向け、睨み付けるとようやく異常者の顔色が変わる。
「いけません、それはいけませんよロックさん。危ないことはお止めください、そんなことをされては……」
「うるせえ! 異常者が!」
もっと怯えろ。
もっと劣った者らしく、立場を弁えて頭を下げろ。
異常者が、異常者が、異常者が異常者が異常者が異常者異常者異常者異常者異常者!
「俺はまともな人間なんだ! それなのに、てめえらは俺を笑いやがって! 現実が見えてねえだけのくせによお!」
溢れ出る憎悪が止まらない。
くそっ、クソクソクソ!
気分が悪いのはこいつのせいだ俺が惨めなのはこいつのせいだ悪いのはこいつだいらないのはこいつだこいつがこいつがこいつが!』
「ふむ……誰もあなたを笑っていないと思いますが。私の顔は笑顔がデフォルトになっているので誤解を与えてしまったかもしれませんね。それなら謝罪しましょう。しかし……どうやら、違うようですね」
「狂信者さん! 気を付けて!」
異常者の後ろから、女共が顔を出す。
俺を後ろから襲いやがった、卑怯者共が。
「おや、ティアさん、テーレさん。この状況、説明してくださいますか?」
「ロックさんは今、悪魔に憑かれたような状態です! 彼は元々……それが原因で、この治療院に来た人なんです」
…………あ?
何を言ってんだ、俺は正気で……
「正確に言えば、そいつ自身の魂が分裂して生き霊化、そしてそのまま悪霊化して本人に憑依したような状態ね。悪魔っていうのは呪いや憎悪で魂が歪んで生まれる物だけど、別に死んでいないとそうならないわけじゃない。肉体がない方が変質しやすいってだけで、強いストレスを溜め込めば誰にだって起こり得る現象よ。近くで悪魔の気配がいきなり生まれて何事かと思ったけど……ま、この状況じゃ一人くらいストレスでおかしくなっても仕方ないかもね」
おかしくなった……だと?
誰が? 俺が?
この中で、この土蔵の中で、俺だけが?
「ちがう、違う違う違う違う違う違う違う違う! 俺は正常だ! 正常だから絶望したんだ! 違うそう違うおまえらみたいな異常者と俺は違う俺は正常だだからだからだから」
「テーレさん。彼はどうしたらいいのですか? このままでは自傷他傷発狂に至りかねませんが」
「これはどちらかというと『癒し手』の仕事ね。本人の肉体を出ていない以上は『浄化の光』とかもあんまり効果ないし。ティアが治しやすいように拘束するか気絶でもさせとくのがいいんじゃない?」
「了解です。さ、ロックさん。とりあえず、ナイフは不要とのことなので捨ててください。でないとこちらも手荒にせざるを得ないので」
「うるさい! 俺は正常なんだ! 正常だから最期に好き勝手しようと思ってこうしただけなんだ! 俺がおかしくなったなんて嘘をつくな!」
「はあ……『自分は正常だったからこそ絶望し、凶行に及んだ』と。あなたの主張はそう聞こえますが……」
異常者の目が俺を映す。
そこにあるのは、敵意でも同情でも、希望でも絶望でもない……見る間に興味を失っていく『失望』だけ。
「幸運にもここへ避難ができ、一時の物とはいえ安全と選択の自由を手に入れながら……正しい選択を放棄して自ら過ちを犯すとは、それで正常者とは、よく名乗れるものです」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! 俺を見下すなぁあぁああ!」
ナイフを突き出す。
何処に当たろうと構わない。俺を恐れろ、怯えろ、そんなふうに堂々と俺の前に立つな。
「ナイフはやめてくださいと言いました。そんな暴力的なことをされては……こちらも、それに見合う対応をしなければなりません」
一振り目、一歩引いた異常者にナイフが躱された。
二振り目、今度はより大きく踏み込んで、絶対に外さないように大きく振る。今度も避けられたが、ギリギリだ。
身体の動きが何故だか普段より素早い。どんどん速くなる。
これなら避け続けられないはずだ。
「さて、せっかくなので合成魔法を試してみますかね。【思考実験を始めましょう】」
「【失敗率証明】!」
ナイフが届く……
「合成魔法【矛盾命題:神を試してはならない】」
届いた……はずだ。
なのに、手応えがない。というか……誰も目の前にいな……
「もらいました。そしてもう一度、【神を試してはならない】」
「ぐっ、ガ……」
なんだ、今一瞬だけやつが目の前に……いや、それより首が苦しい!
なんだこれ、何が起きてんだ……苦し、息が、やつはどこに、くそっ、クソクソクソ! わけわかんね……
「ガ……ァ……」
振り回していたナイフが手から落ちた。
息ができずに藻掻き続けていて、立っている力もなくなって膝から倒れると思った時にようやく……自分の足が、地面に届いてないことに気付いた。
何が……起こって……
「こういうのはなんですが……もう少し冷静に考えましょうよ。あなたがナイフを離してくれないと、私も怖くて魔法を解けないんですから」
意識を失う直前に聞こえたのは、異常者の呆れたように語りかける声だった。




