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転生したので狂信します  作者: 枝無つづく
三章:異常なる『正常者』

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第73話 失せもの知らず

side テーレ


 私は天使の中では『医術』に詳しい方だ。

 もちろん、本職として『医療』や『治癒』の概念を守護する天使には敵わないけど、治癒や浄化の魔法が他の天使より苦手な分を補うためにそれなりに努力して魔法と関係のない視点からの『人間の治し方』を勉強した。

 その過程でいろんな『症例』や『体質』の知識も持っている。


 人間の能力なんて生まれたときから千差万別、どこからを病気、どこまでを個性と呼ぶかなんて時代によって変わるものだし、害があるか役に立つかも環境や選ぶ道次第だ。

 だけど……中には、同じ能力でも単なる優劣の違いでは済まないものもある。


 その一つが『完全記憶能力』。

 魔法の有無に関わらず、人間が生まれつき持ち得る『個性』の一種。


「『忘れる』って能力の欠如……そう捉えれば、病気と言えないことはないわ。けれど、これは本人にとって生まれつき『当たり前』のことだから、後天的に治すべきものじゃない」


 ココアも『癒し手』としてそういった知識は人並み以上に持っている。

 そして、その上でマスターを診た結果を語る。


「『完全記憶能力』って一口に言っても結構種類がある。中にはその能力を上手く使って知識の習得とかで他の人には真似できないような能力を見せることもある。だけど……良いことばかりじゃない」


 人は心の傷を時の流れの中で癒やすことができる。

 けれど、それは『忘れる』という能力があってこそ。

 望む望まないに関わらず、記憶が劣化して風化していくからこそ、悲しみも痛みも次第に過去のことにできる。


 けれど、その感情を『忘れる』ことができないのなら……記憶が過去のものにならないのなら、その苦しみは常人のそれとは違う。 


「中には視覚的に『見た』映像を完全に憶えられるって人もいる。パラパラと本を流してみただけで、後からその映像を思い出すことで読み返すことができる。その場で理解できるとは限らないけど……それだけなら、ただの便利な能力かもしれない。でも、人によっては何年前のことでも昨日のことのように詳しく思い出して説明できるって人もいる。何年前の何月何日、朝ご飯に何を食べたかなんてね」


「そりゃまあ、それくらいは知ってるけど……それだけなら、大きな問題はないでしょ?」


「そう。基本的には完全記憶って言っても、自分が興味を持っていること以外は他の人とあんまり変わらない。眼球の焦点が合ってなきゃ視界に入っていてもボンヤリとしか見えないように。ただ……『感情』は例外よ。だって、興味を持つ持たないに関わらず意識してしまうものだから」


 親しい人の死。

 誰かに裏切られた絶望。

 体や心の痛み。

 それらはどうやっても無視なんてできないもの。憶えたくなんてなくても、記憶に残ってしまうもの。


「完全記憶の持ち主の中には『出来事』は完全に語ることはできても、その時自分がどう感じたか、そのことについて何を思ったかを語ることはできないって人もいる。過去を語ろうとしても、記憶力が普通な人よりも無感情で淡々とした回想になる。そういう人たちはある意味幸運よ。味気なくはあるけど、過去の苦痛に苛まれることはない。『思い出』が実感のないただの『記録』になっちゃうのはそれはそれで辛いかもしれないけどね。でも、『出来事』と『感情』の両方を完全に記憶している人間は過去のフラッシュバックに苦しみ続けて日常生活を送ることも難しくなる。周りからは常に妄想や情緒不安定を抱えているように見えることもあるわ」


 この話はマスターの診断の前振り。

 つまり、この『完全記憶』の話はあいつの状態を説明する上で大事な話だということだ。

 確かに……あいつは、自分の過去への執着が薄いように見えることがよくあった。自分が死んだと聞いても悲嘆しなかったし、前世の名前をすぐに返上したりもしていた。

 それは、自分の過去に対して『感情』が……『思い入れ』がなかったからか。


「つまり、マスターもそのタイプってわけね。記憶できない感情に興味がない……だから、痛みや苦しみへの興味も薄い。ただ、未来の幸福だけを見ている……幸福は感じたその瞬間しか、味わうことができないから」


 あの行商親子を救うか殺すかっていう発想がすぐできたのも、『殺してしまった』という罪悪感に苛まれる心配がなかったからか。

 心が傷つかないというのなら、あの危うさも納得できるかもしれない。


「……いいえ、違うのよテーレ。それは違う、真逆なのよ。彼のタイプは、『出来事』と『感情』の内、『出来事』だけが完全に残り続けるタイプじゃない……『感情』が残り続けるタイプなのよ。彼は『出来事』の記憶力も高めだけど、それと不釣り合いなほどに感情の記憶力が強い。私も初めて診るタイプだわ」


 ……感情、だけ?

 それはつまり、『何が起きたかは思い出せない』のに『どう感じたか』はしっかり思い出せるってこと?


「そんなタイプ、あり得るの? だって、記憶って何か『出来事』を思い出して、それに関連する『感情』を連想するものでしょ? 『感情』だけなんて……」


「そうね……多分、彼の周りの人たちも、彼自身もそれが理解できなかったんでしょうね。『出来事』の記憶力は簡単にテストで測れる。言い方を変えれば、言葉で表現できる部分の正確さだからね……でも不釣り合いなまでの『感情』の正確さは言葉で表現できない。彼にとっての『感情』には『過去』の概念がない。これまでの人生で生まれた感情の全てが蓄積して、累積して……継続している。想像できる? できないでしょ? 私も実際にこの手で触れてみるまでは理解できなかったわ……」


 感情に『過去』がない?

 それって……いや、でも……


「あり得ない……そんなもの、精神が耐えられるわけがないじゃない」


「そう、壊れて当たり前なのよ。それなのに彼が一番すごいのは……それでも壊れていないところ。多少の歪みなんて、本来の状態を考えれば誤差みたいなものなのよ。常に狂おしいほど嬉しくて怒って哀しくて苦しくて痛くて辛くて愛おしくて憎くて……でもその感情の対象は『現在(いま)』にはなくて、常に虚しい。彼は周りの情報から想起する感情が多すぎて、自分でもわけがわからないのに感情が溢れて来る」


 そうか……だからこそ、ココアは『不釣り合いなほど』と表現したのか。

 自分で自分の感情の原因を特定できない。原因が特定できないものは、相談も解決もできず、理解も得られない。

 だから、自分自身でどうにかするしかない。


「そして、理解できないそれらを全部足し合わせて、最も原始的な感情である『(プラス)』と『不快(マイナス)』で判断する。そして、感情の記憶っていうのは危機感知に役に立ちやすい悪感情、恐怖や嫌悪みたいな『不快(マイナス)』の方が想起されやすいから、何もせずに同じだけ正負の感情を記憶し続けたら負の感情に負けてしまう。彼が常に笑っていて、あらゆるものに肯定的なのは狂っているからでも壊れているからでもない……壊れないために、蓄積する感情の総和を『(プラス)』に保つための防衛措置なのよ」


 それだけ丁寧に説明されて、ようやくあの極端な行動原理や価値観がどうやって形作られてきたかがイメージできてくる。


 壊れないための防衛措置。

 世界が醜いことに耐えられない、けれど世界に変化を望んでテロイズムなんかに走ることのなかったあいつは……世界に変化を求めず、自分から変わることにした。


 自分自身の価値観を狂わせることで、世界の醜悪さすらも美徳と受け入れるようにしてしまった。

 他人が『しょうがない』と目を逸らして忘れようとする必要悪を忘れられないが故に、その悪であろうとも必要な行為を成そうとする切実さとなりふり構わない意志力を美徳として認識するようにした。


 その結果、あの両極端な合理性と道徳性が生まれて……そのどちらでもない『半端』な振る舞いを、冷酷さを持ちながら感情を捨てきれないというようなどっちつかずの態度に価値を見出さなくなった。


 正気であろうとするが故の理屈が極まった末に狂人のように見えるというのは、本当に正気であるというべきなのか。けれど、確かにあいつの行動は最終的には利益が出るように、独特の理屈が通っていることはわかる。

 けれど……それだけじゃ、説明がつかない。


「……そうね、ここまでが彼の『体質』の話。ここからは、それと向き合って生きてきた彼自身の人格の話。まず第一にだけど……彼は、自分の記憶力や感情を『異常』だとは思っていないわ。おそらく、彼が前世で生きていた世界での家族や周りの人間も『異常』だなんて思わなかった。なまじ、感情と関連する知識の吸収力も高くて学院で受けるような知力を重視するテストを問題なくクリアできちゃったせいもあるんだろうけど……一番の原因は、彼の両親でしょうね」


 両親……マスターが、彼が自身の死を理解した瞬間に、それを嘆くよりも先に返上した……投げ捨てた、前世の名前を付けた人間。

 自分の子供が蓄積し続けた歪みに、最期まで気付かなかった人間たち。


「彼は無意識に『普通であること』に固執している部分がある。彼の両親は『少し周りと違う』幼少期の彼を矯正しようとして『普通にするように』と繰り返していたのかもしれないわね……悲しいけど、よくある間違いよ。彼の『普通』と周囲の『普通』は違うのに。生まれつき舌が麻痺して動かない子供に『みんなと同じように喋れ』と言い続けた結果、口で喋っているのと全く区別のつかない腹話術を修得してしまうようなものね。それがとんでもない努力や苦悩の果てにあることで、誰にもできないようなすごいことをしているのに、想像もできないような頑張り方をしているからこそ、誰もその苦難に気付かない。全く違う方法で努力しているのを遊んでいるのと勘違いして、出来損ないの子供が努力をサボっていて言葉を憶えるのに遅れて、ようやく一周遅れて人並みに喋れるようになった程度にしか思わない」


 それは……わからない、わけじゃない。

 私だって、『悪』という本質を持ちながら『善意の女神』の天使として振る舞うために、他の元から善良な天使には想像のできない苦労をしている自覚はあるし、ターレみたいに悪意を抑えて実行しないように我慢している私を『常に悪巧みをしていて危ない』と認識するのもいる。

 元から悪意のない存在に『悪意を我慢する』ということが『努力』だと言ってもわかるわけはない。あっちにとっては、そんなものは息をするよりも簡単なものだから。


 それでも……なんとかディーレ様の天使として支障のない程度に悪意を抑え込んで生きるのに精一杯な私には、『自分が異常であると思わないほどに普通に生きる』というのは未知の領域だ。

 あいつのは、自分を騙すとかそういう次元じゃない。

 あいつはハッキリと口にした……『世界の人間の大半が狂っているのかもしれない』と。


「あいつは……あいつにとっての『普通』は、あいつ一人のものじゃない。少なくとも、あいつは何人かには、心を開いている……ように見えた」


「そうね……感情という概念に対して他人とは違う視点を生まれ持った彼はどうしても『一般的な基準での「普通」で物事を考える』ということができなかった。その解決のために、基準として自分を『標準』に据えて世界観を構築した。ある意味、発想の転換ね。彼は他人を理解するためにまず『基本的に人間は自分と同じようにものごとを感じ、そこから物事を考える』という前提を置いた。『自分がされて嫌なことは他人にするな』『自分がしてもらって嬉しいことを他人にしろ』、まずそこから始めた。その上で、『どういう心理から思考したら自分もそういう行動を取るのか』を逆算して、他人の内心を想像している。」


 それもきっと、『普通に生きる』という与えられた目標の上で言いつけられた『相手の気持ちを考えろ』という意味での標語を元にしたのだろう。


 感情について『0≦1+1<2』という公式が成り立つ世界観を『1+1=2』という公式が成り立つ自分の世界観で理解しようとしたんだから、式が成り立つわけがない。

 どんなに理由を探して修正値を加えても、『感情を忘却する』という概念がない分、どうやってもその分だけ最新の状況に対する『感情値』は大きくなる。


「彼は気紛れや目の前の状況の変化より遥かに強固に固定された感情、つまり『意志』がほぼ不変であることが当たり前という前提で、誰もがその強固な意志に従って生きているという前提で世界を再演算した。全ての行動の裏にその意図があると。自分の努力が理解されないように、自分の見えない部分の意図では彼らの行動全てが、それぞれ個々人の人生において、ある目的や目標を見据えた上で、複雑で広大で自分の視界に収まらず想像を超えるような計画の一部になっていると。だから、本当にそうやって生きている人間がいれば、彼はそれを『標準的な生き方をしている』と感じるんでしょうね」


 マスターはラタ市で、戦闘狂のアーリンや死に物狂いで生きるスラムの子供なんかを『信頼できる相手』として扱っていた。


 私はあの時、こいつは正気と狂気の基準が反転しているのではないかと思った……けど、厳密には違う。

 マスターにとっては、『狂おしいほどの感情で動くこと』が当たり前で、半端な感情で動く人間には共感することができないというだけだったのか。


 そして、感情を忘れないということは……後悔や罪悪感も忘れないということ。

 『他人を不幸にして、その罪悪感を一生背負いながら生きるより死んだ方がマシだ』、本気でそう思っているのなら、相手もそう思うだろうと考えているのなら……どんな手を使っても止めるというのも、理屈は通る。永遠に減衰しない自罰欲求なんて、それこそ拷問みたいなものだ。


「彼の世界観の構築にはいろいろな出来事が関わってるけど、それは今は置いておくわ。それこそ、彼は自分の人生の全てから強い影響を受けているようなものだから。問題は……彼は自分の体質を異常だとは思わなかったということ。そして、生きていく中で感情を蓄積し続けて行ったということ。それが臨界に達した時、彼は自己防衛のために一つの結論を出した……彼は『他人』と『自分』の区分を喪失することで自分でもわけのわからない感情の出所を説明できるようにした。もう、哲学とか思想の問題だし、『転生』というものがある以上は全くの出鱈目なんかじゃないんだろうけどね」


「それって……」


「簡単よ。人間が最も自分への刺激以外で感情を想起されるもの、それは『他人への刺激』。痛そうな怪我をした人間を見れば自分も怪我をした時の痛みを思い出すし、他人の幸せな姿を見れば自分も幸せに感じる。彼の記憶力……いえ、ここでは敢えて『想起する能力』って表現した方がいいかもね。彼は他人の痛みを文字通りに自分のもののように感じられる。傷ついた他人を見て、正確に自分が傷ついた瞬間の感情を連想して、想起する。『想起する』ということは『思い出す』ということ。つまり、突き詰めれば『他人の傷を見れば、それを自分が傷ついたのと同じように痛みを思い出す』ということになる……そこから彼は、こう結論付けたのよ。『他人とは、忘れているだけで過去の自分なんだ』ってね」


「『過去の自分』……? え、いや、他人は他人でしょ? 目の前に生きている他人を自分自身だと思い込むなんてそんな……」


「そうね、こういったらわかりやすいかしら。『目の前の彼はいつか死ぬだろう。そして、彼の魂は人生の内で経験した出来事を忘れて、別の人間に転生する。そして、転生した人間というのが自分である』……ある意味、彼がいきなり死んだと言われてすんなり転生者になることを受け入れたっていうのは当たり前のことだったんでしょうね。だって、彼にとっては出来事の記憶が引き継げるか引き継げないかって違いだけだもの」


「…………」


「感情を忘却しないということは、感情に時系列がないということ。だとしたら、共感で得られる感情やこれまでの経験から精密に想定できてしまう未来の感情を『現在の自分の肉体の五感の情報から生じた感情』と区別しなくなったとき、その置き場所を『自分自身の過去や未来』としてしまう。そして、そこから『他人』を『自分』と等価値な『観測点』の一つとしてしまうのも、彼が自己認識の合理化を図る上で十分にあり得るでしょうね。そうすれば、逆説的に自分の主観を『現在の自分が担当すべき情報』として独立できるんだから」


 マスターの前世、日本にそれなりに浸透していた仏教という信仰にはそういう思想があるというのは、知識として入っている。


 輪廻転生、全ての命は一本の鎖のように連なっていて、転生を繰り返しながら修業を重ね、より高等な生物になり、最後にはその繰り返しから卒業する。


 確かにそれは、天界での魂の浄化・転生のシステムにも近いものだ。

 完全に浄化された魂は区別を失い、ある意味統一された一つの魂となって新たな命として現世に送り込まれる。

 その区別を失った時点を完全に融合した状態と考えるのなら、時系列を無視するのであれば他人と自分が違う器に入っただけの分身のようなものだと認識することができないことはない。

 けれど……


「だ、だけどあいつは、結構他人を容赦なく攻撃したり罠にはめたりするし、そんなふうには……」


「だから、逆なのよ。『他人』じゃないからこそ、容赦なんてしない。それに、その『他人』がより多くの『人間』を不幸にするのなら、大きな樹が病気になった葉を他の葉に病気が移らない内に落とすように、感情の総和が『不快(マイナス)』にならないように、さっさと切り捨てる。システマチックに、徹底的に、そして道徳的に。自分を罰するように他人を罰する。その他人の未来の罪悪感を自分の公式で算出して、その後悔に見合う範囲で『マイナス』にならないように引き留める。私が一番驚いたのが、彼の死因が『自殺』じゃなかったことよ。『罪は罰しなければならない』って厳しさを捨てずに……一生後悔を忘れられないからこそ、『死にたい』と思うような負い目を負わないように、彼なりに誠実さを貫いて来たのでしょうね」


 それが本当なら……本当に、そんな生き方をしていれば、それはもはや潔癖を通り越して高潔だ。

 たとえば、『不幸』の根源が自分自身であったとしたら、あいつは自分自身すらも殺しかねない。


 罪を犯してしまえば一生その罪悪感が消えないという呪いのような体質から、そんな潔癖さを持ったまま生き抜いて……そして、善意の女神であるディーレ様にその人生を評価された。その総和が『素晴らしいもの(プラス)』だと判定された。


 それなら……あの時の反応も、わかるかもしれない。

 偶然、自分を転生させてくれるから信仰したわけじゃなくて、マスターの、彼の世界観、人生観、思想と『善意の女神』であるディーレ様は相性が良すぎた。

 外れしかないはずの転生者候補からの抽選で、ディーレ様の振った賽子はその中から最も『転生』に向いた人間ではなく、最もディーレ様との相性の良い候補を指し示した。


 それはきっと……運命とも言える幸運だったのだろう。

 ディーレ様の信仰されていなかった世界で、彼なりの善意に生きて、その末に死んだ彼が掴んだものだったのだろう。彼の死因が『自殺』だったのなら、彼は転生者候補には挙がらなかったはずだから。


「なるほど……一応、理解はしたわ。扱いは難しそうだけど、少なくとも無意味に悪いことをしようとすることはないっていうのがわかっただけでもありがたいわ。『こうした方がみんなが幸せになる』って感じで誘導すればいいわけだし。それに……ココア、あんたに診せて良かった。体質のことをちゃんと理解させれば……」


 『他人の痛みはあんたの痛みじゃない』。

 時間はかかるかもしれないけど、繰り返しそう言い聞かせれば、生きるのも少しは楽に……


「だめっ! テーレ、それは絶対ダメ!」


「え? なんで……」


「確かに、もっと早い内だったら……彼が、まだ小さい内にだったら、それでよかったかもしれない。だけど、今はダメよ……彼の精神は、もうかなり危ういバランスで積み上がりすぎてしまっている。さっきも言ったでしょ? 壊れていて当然、今の状態が奇跡みたいなものだって」


「で、でもそれを耐えてるあいつの精神力は常人よりもずっと強いって話じゃ……」


「『自分と同じように辛いはずの他の人たちもみんな平気で生きていられる』……その『実例』があるからこそ、彼は現状を保っていられる。そんな彼が、『そんなに辛いのは自分だけだ』なんて知ったら……」


 『誰かの苦痛を見るのは自分のことのように辛い』。

 『他人の気持ちになって行動しろ』。

 『誰かを幸せにすることは自分の幸せになる』。


 それは『綺麗事』だ。

 普通の人間にとって、それは比喩表現であって、そのものではない。他人の受けた痛みと自分の受けた痛みで生じる感情は等価ではない……あいつ以外の人間には。

 それを馬鹿正直に信じて、『誰もが自分と同じだけ膨大な感情に苦しみながらも笑って生きている』と思い込んでいるマスターが、それは違うと言われたら……


「赤の他人、他の人間がそう言っただけなら、きっと彼はその相手が『狂っている』と認識するはずよ。他人の痛みに共感できない、他人を傷付けるという『自傷行為』を正当化するために感覚を麻痺させてしまった可哀想な人だって思うわ。だって、彼の世界観はある意味では個を捨てて集団として生きる上で徹底的に合理性と正しさを追究した結果なんだから」


「…………」


「でも、彼はあなたを全面的に信頼している。地上の『人間(ヒト)』としての視点では見えない方向性を見出す指針として、『神様』とその手足である『天使(あなた)』を信頼している。そのあなたが、彼の苦しみが彼だけのものだと、彼の精神が理解されない孤独なものだと言ってしまったら……」


 私は今までかなりの回数、マスターに『馬鹿』と言った記憶がある。


 けれど、決して『あんたは狂っている』というようなことを言ったことはない。

 それは、私自身が天使として他の天使から見てかなりおかしい精神性を持っているのを自覚していたからというのもある。

 自分が天使としておかしいことを棚に上げて、仮にも主従関係であるマスターに人間としておかしいと言うのはさすがに気が咎めたというか、恥ずかしいと思ったからだ。


 『同じ種族であるはずなのに絶対に理解し合えない』ということが苦痛であることは、さすがに私も……私だからこそ知っているからだ。

 だから、それを改めて突きつけるのは自分自身すらも否定するようなものだと思っていた。


 けれど……マスターは少しだけ違っていた。

 マスターは『自分以外の人間全てが狂ってしまったかもしれない世界』を、自分の世界観と共感できるような誰かとの出会いを信じて生きてきた。

 その最後の希望を、あいつが『従者として嘘は言えないはずだから』と馬鹿正直に信じている私に否定されたら……


「……最悪、壊れるわよ彼。あなたの何気ない一言で」


 そりゃ、平気ではいられないよね。うん。

 …………はは、危機一髪、あぶなかったわー。


「……………………………………ってこわっ! なにそれ、血を捧げるとか言われたときより怖いんだけど!」


 いや、よく考えたら『一言で相手を精神崩壊させられる』っていうのは『従者』としての私の主人(マスター)であるあっちも一緒なんだけど、転生特典の従者と主人ってそんな互いに喉元に刃物突きつけ合ってるような関係だっけ?


「うわぁ……いや、ほんと……えぇ、マジで?」


「天使とは思えないような顔してるわよ。いや、気持ちはわかるけど。心中お察しするわ。彼はある意味、これ以上ないほど純粋な心の持ち主よ。最初に『これが正しい』と感じたルールがずっと固定されてるんだから。とりあえず、基本的にはでっかい子供だと思いなさい。あなたの言うことは聞くのだし、彼の記憶力は言語化の難しい感覚的な部分の記憶に長けているから魔法や戦闘技術の才能で言えばかなりの逸材よ」


 扱いの難しい、けれど上手く使えば最高級の人材。

 確かに『でっかい子供』っていうのは薄々感じてたけども。

 馬鹿丁寧な態度もあって詭弁や屁理屈かと思ってたのが、全部本音だったなら……。


「ねえ、一つ……診察とは別の、個人的なこと、質問していいい?」


「……構わないわ。多分、彼のプライバシーに関わる部分のことなんでしょうけど、友達としてなら。聞いてあげる」


「あいつはさ、よく……私のこと『愛してる』って言うんだけど……『好きだ』って言ったこと、ないんだよね。あいつが子供だって言うんなら……あいつの言う『愛してる』ってのは、どういう意味での『愛』なのかな?」


 ストレート過ぎて、逆に信じられなかった部分もあった。

 私は主人(マスター)に嘘は言えないけど、あっちからは好きに嘘を言えるし。何より、私みたいな不幸の天使が人間に好かれるなんてことは信じられなかった。理屈を重ねられても、疑いが晴れなかった。


 だって、人間っていうのはまだ幼い『子供』ならともかく、『大人』なら本当の愛なんて、軽々しく口にできなくなっていくものだから。

 だけど、あいつは……


「そうね、『好き』って言葉は『嫌い』に変わり得る、言外に『今は好き』って意味を含んでるから、どうしても時系列を無視できない言葉だからってことでしょうけど……」


 ココアは私を見つめて、深く嘆息した。

 まるで、子供に理解させにくい大人の事情や難しい感情の説明を求められた母親のように。


「あなたは『天使』だから何百年経っても子供のままだけど、子供にしては大人っぽいというか……他の天使と違う分だけ苦労して、子供っぽいままではいられなかったのよね。会う度に姿が少し違うけど、本当は人間なら十歳とか、そこら辺なのかしら。若いわね、本当に。あんまりよくないのよ、勉強や仕事のためだけに大人の心を持つなんて、バランスが悪いもの。責められるべきは親御さんや環境であって、本人に言ってもしょうがないことなんだけど」


 今の私の肉体年齢は十五歳くらい。

 人間なら子供だって作れる年齢だし、知識としてそこに至る過程も知っている。

 けど……知識はあっても経験は伴ってない。


 そういう意味では、確かに私は人間で言うところの『大人』と呼べるほど成熟してはいない。


「彼もあなたと同じように、見た目ほど大人じゃないわ。特に、彼の世界観では『全くの他人』というものがあり得なかった。きっと、誰かを『特別』に思うっていうことに経験がなくて、あなたに対してはひたすらがむしゃらに愛すること以外にそれを表現する方法がわからないんでしょうね。ま、長く感情を抑えて生きてきた反動で暴走してる部分もあるだろうけど……ふふ、ある意味お似合いじゃないかしら。あなたみたいな変にませたお子様は告白するよりされる方が楽でしょ?」


「もうっ! 自分は酒の勢いで押し切ったくせに!」


 冒険者に恋をしてドギマギしてた頃のココアに今のこいつを見せてやりたい。

 あんたは最終的には勢いで既成事実を作って結婚まで押し切ったのにおばさんになった途端に自分は恋愛上手だったみたいなことを言い出すんだぞって。


「まあ、愛の種類はともかくあなたは既に彼との付き合いで一番難しい部分を乗り越えているっていうのは間違いないわ。その上で付き合いを続けるための必要事項もちゃんと教えるから、しっかり憶えていってほしいわね。あ、ただ一つだけ、これら私の個人的なお勧めというかお願いなんだけど……」


「何よ、改まって」


「称号の詳細は後で話すけど、彼に魔法を教えるつもりなら……自滅系の術式だけは絶対に教えないで欲しいわ。やらないとは思うけど、一応ね」


「そりゃ、目的達成前に死なれても困るし教えるつもりはないけど……一応訊くけど、どうして?」


 少し困ったような笑み。

 ある程度回復してきたらしいココアだけど……これは、実は本気でヤバイって時の顔だ。悪い懸念が当たっていたらどうしようもないから笑うしかないレベルの。


「そうね……下手すると彼が自滅魔法を使った瞬間に世界(人類)が滅ぶかもしれないから、かしらねえ」





 情緒不安定に見せかけた情緒超安定(あらゆる感情値が常時過去最大)系主人公。


 精神は常にわけがわからないほど歓喜しているし激怒しているし悲嘆に暮れているし愛に生きているし憎悪の炎に燃えているし苦しみに悶えているし胸にポッカリと穴が空いているけれど、それを語るまでもなく『普通のこと』だと思っている『正気』な男。


 混乱しきった表情筋は無意識レベルで動かすとか無理なので、とりあえず『笑顔』に固定してあります。

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