第52話 スライム・ライリー
side テーレ
半端に小綺麗な街並みは、見る者の気分をよく映す。
細かなことが気にならない軽い気分の時には綺麗に見えるけど、気分が沈んでネガティブな時には細かな汚れが目立っていつもより汚れて見える。
屋敷から宿への帰り道。
街の中でも特に小綺麗な地域なはずなのに、いつもよりずっと汚く暗いように見えるのは、それだけ私の心が沈んでいるということなのだろう。
「マスターのせい……いや、好きにやらせた私のせいか……」
私は、ディーレ様のためなら何でもする覚悟でこの現世に降りてきた。
ディーレ様のため、聖地を創るため、偉業達成のため、汚れ仕事なら私の手を使うべきだと覚悟を決めてきた。
そう考えるなら、あいつのやったことは何も責められない。
悪徳貴族だった市長を倒して、次の市長に貸しを作って、商会からの信用も得た。
その過程で、転生者としての足がつく特別なこともしていない。
転生特典として私が持つ『万能従者』は便利ではあるけど、その職業のプロを雇えば事足りることしかできないからその方面からバレる心配は元からないけど、他の転生者のように前世の世界での知識を輸入して広めたりもしていない。
やったのは単純に、市長の娘を唆して下剋上させただけ。
これなら、この事件から他の転生者に動向を悟られる心配はまずない。
むしろ、事件を知っても、転生者が特別な能力も前世の知識も使わずにただの家庭教師として娘を洗脳まがいの方法で操ったなどとは考えないだろう。
本来なら、褒めなければならない。
他の転生者が敵になる可能性があり、迂闊に転生者らしい振る舞いの許されない状況で、能力に頼らず自力でここまでの成果を上げたことを、認めなきゃならない。
なのに……
「もうっ! なんだってんのよ……」
私は天使。
親の愛なんて知らない、生まれなかった魂から作られた神の眷族。
そのはずなのに……心が痛む。
さっき、屋敷へ行ってきた。
あの子……新当主カーリー・ローリーは、今回の事件の黒幕の一人とも言える私に、貴族らしく割り切った作り物みたいな微笑で対応して、王都で王命を受けるための紹介状を書くことを快諾した。
その様子に、私は少し困惑した。
恨まれて、罵声を浴びてもおかしくないと思っていたから。
なのに、あの子は……
『先生に恨み言なんてありません。先生はただ、私が知らなかった本当のことを教えてくれただけですから』
狭い世界で、あの子は父親の言葉だけを信じてきた。
それ以外に判断するものがなくて、父親のしていることを世界で一番正しいことだと信じて、尊敬して、愛していた。
だからこそ……その静かな豹変は、目を逸らせなかった。
『愛憎』という言葉があるのは、愛と憎しみは反転しやすいものだから。愛しているから、それを裏切られると憎らしい。
あの子の目は既に、完全ではないけど愛憎が反転してしまったものだった。
正しいことをしていると言われて、それを信じて尊敬していたからこそ……その正しさが父親の独り善がりだったと知って、愛が変質した。
でもきっと、それだけじゃない。
あの子が父親を手にかけたのは、憎しみだけじゃない……おそらく、グラード・カーリーは私たちへの報復を考えていた。
だから、あの子は悩んだ末に、薬を使った。
これ以上、罪を重ねさせないために……憎しみと同居した、愛情のために。
そうじゃなきゃ、衝動的な憎悪では、今頃燃え尽きてしまっている。大義名分ではあるけれど、貴族として、親の大切に護ろうとした家を護るという動機付けがあったからこそ、ああして堂々と当主としての笑顔が作れたはずだ。
マスターは……私たちは、あの子の愛憎全てを利用した。
私が弱体化して人間体になっていなかったとしても、純正の天使の状態でもできない。悪魔にだってそうそうできることじゃない。
天使は慈愛しか知らない。悪魔は憎悪しか知らない。
天使は慈愛のために、道を誤った者を裁くことはできる。
悪魔は憎悪のために、言葉巧みに人間を騙して憎悪に染め上げることはできる。
でも、これは人間にしかできない。
マスターはあの子を……何も知らなかった純粋培養の箱入り娘を『正しさ』に狂わせた。
偏った価値観を与えられた箱入り娘を見つけたマスターは、自分にとっての標準値まで……一般的な基準での狂気まで、正しさを教え込んだ。
最初は、普通じゃない転生者の方が一人では何もできなくて思い通りに動かしやすいと思ってた。だけど、あれは違う。
あれは、何でも『できてしまう』人種だ。ブレーキの利かない乗り物を、とりあえず『動く』のならば問題ないと思えてしまうような人間だ。
止めたければどこかにぶつければいいと、ブレーキが直らなくてもクッションを用意しておけばいいと考えられるようなタイプだ。
このままじゃいけない。
でも、私の『万能従者』ではあのレベルの狂気は治せない。
それに……
「『狂信者』の称号……『測定結晶』が割れて詳細がわからないけど、それが『発動する魔法の結果を狂わせる』って性質の称号だとすれば、これからの魔法の習得も考え直さなきゃいけない」
『称号』というのは、神々が地上の人間を観察するときに注目するべき個体を見つけやすくするための目印だ。
特に飛び抜けた才能、あるいは劇的な運命に生まれ、乗り越えた人間に『称号』を与えることで、その人間がより活躍しやすく、より波乱万丈な人生を歩みやすくするシステム。
『称号』はそれを持つ人間に特殊な能力を与える。
ある意味、神々を楽しませる役割への報酬や期待への投資でもあるけど、何よりも強い目的は『個性』を持たせることだ。
だから、その『称号』の与える能力がプラスになるとは限らない。
たとえば、蛮勇に対して与えられる『狂戦士』の称号は猛獣みたいな強さを与える代わりに理性的な行動を取るのが難しくなる。
ただの『火を灯す』という魔法が、法具を使ったからっていきなり『浄化の光』に変化するなんて普通はあり得ない。
『鑑定』の魔法も、偽物と本物の判別ができるのに『どちら側が本物なのかがわからない』なんてパターンは聞いたことがない。
あれが『狂信者』の能力の影響だとすると、称号の詳細がわからないままに新しい魔法を試すのは危険だ。魔法の効果が根本的に違うものになるなら『自爆』もあり得る。
『称号』というシステムは専門の天使の管轄であって、神々でもおいそれとその詳細を知ることはできない。
というよりも、転生者同士の衝突が神々の代理戦争にもなるこの世界では『称号』という情報も重要なカードになるから公開はされていないし、勝手に新しい称号が生まれないように転生の手続きと関係のない中立の天使が管理を任されている。
だから、転生者自身の称号であったとしても現世で調べる必要がある。
一応、転生の時に適性検査で出たスキルレベルの結果なんかはあるけど……それは現世に来てからの成長を反映していないし、マスターに関しては適性検査の数値も怪しいものだ。
ディーレ様から、マスターの『信仰』のスキルはカンストしていると聞いたけど、私はそれをターレの遺した妨害工作の一環か単純な計測ミスだと思っている。
だって、『前世では何も信仰していないのに信仰を極めている』なんて『生まれてから一度も剣を持ったことがないのに剣を持てば世界最強の剣士になれる』みたいなものだし。
信仰を極めるには常に神や信仰のことを考え続けているくらいでないといけないのに、たった数十年、それも信仰対象なしで届くとは到底思えない。
それに……たとえ、信仰を極める方法があったとして、やっぱり間違いだと思う。
確かにマスターの霊能系魔法の出力はおかしいけど……それでも、『それほどじゃない』と感じる程度だ。
魔法を使いこなせていないのもあるかもしれないけど、威力を発揮できていないというより力加減ができない感じなのに、そこまで超越的な領域じゃない。
ターレのこともあるし天界での測定も信用できないなら、やっぱり現世でちゃんと調べるしかない。
「どちらにしろ、まだ王都に行くには功績が足りない。どうせ旅がまだ続くなら……一度、確かめないと」
『測定結晶』での検証はおそらく不可能。
だけど、人間の中にはマジックアイテムで測定できない能力を見極めることができる者もいる。
「この辺りの地域だと……レグザルの治療院。あそこには今も、誰かしら一族の『癒し手』がいる、はずだけど……」
『癒し手』も称号の一つ。
他人の心を覗き込み、傷に触れることができる……『心を癒す手を持つ者』という運命の称号。
頭の怪我や精神の治療は、医療技術として万能に近い魔法があるこの世界でも困難な分野だ。
表面的な損傷は他の外傷と同じように治せるけど、魂との繋がりの強い脳や精神の損傷は普通には治せない。
記憶や自覚を司る部分を他の部分と同じように治そうとしてもまず元通りに機能することはないし、仮にちゃんと機能しても以前とは全くの別人のようになってしまう。
一般的な医療施設を兼ねる神殿で治せないそれらの治療をすることに特化した、数少ない『癒し手』が、山奥の僻地に患者の療養地をかねて設立するのが『治療院』と呼ばれる特殊医療機関だ。
戦場帰りやモンスターの被害に遭って生き残ったものの殺戮を目の当たりにして心に傷を負った人間なんかが世間から隔離された静かな土地で専門の癒し手と対話しながら心の傷を癒したりする場所でもある。
マスターは長期療養させるわけにはいかないけど、『狂信者』の詳細がわかれば魔法の習得も再開できるし、あの性格も少しはどうにかできるかもしれない。
もしかしたら、今のマスターは『治療』が必要な状態かもしれないし。
「転生者がいきなり平和な世界から過酷な世界へ転生させられたせいでおかしくなるっていうのも、昔はよくあったらしいし……」
最近では適性審査の基準値が上がってほとんどなくなったらしいけど、完全にありえないわけじゃないし。
あと、昔は死の瞬間の苦痛を何かの拍子に思い出して壊れる転生者もいたらしいけど、今では記憶の封印が強化されてそういうことも起きないようになってる。
まあ、わざわざ瞑想でもして真剣に思い出そうとしなきゃ封印自体に気付かないような自然な範囲だけど。
精神を守るための処置だとしても、記憶を操作されたって自覚すると頭を弄られたって文句を言う転生者もいないわけじゃないから。
もしかしたら、霊能系の魔法にやたら適性のあるマスターなら、封印に気付くこともできるかもしれないけど……さすがにそれはないか。
電車に轢かれて死んだっていうのは憶えてるのに、わざわざ自分が惨たらしく死んだ瞬間を思い出そうと努力する気になるわけないし。
仮に何かの拍子で封印を見つけたとして、それが開けたらとんでもないことになる呪いの箱だっていうことくらいは感覚でわかるはずだ。
その記憶を自分で開いてしまっておかしくなったということはないだろう。
でも、もしかしたら封印の時に不備があったか……あるいは、他の女神の妨害とかで封印に綻びがあって無意識レベルでストレスがかかっている可能性はあり得る。
それが原因だったら、治療院で綻びを見つけてしっかりと記憶を封印し直せば案外まともな人間になるかもしれない。
私の『万能従者』で心療内科の知識は呼び出せるけど、私自身の精神性がそもそも人間の心理を理解して親身に語りかけながら癒すとかに向いてない。
天使というのは人間よりずっと長く生きる分だけ精神の強度も高いせいで、繊細なことで傷付きやすい人間の心理は本質的に理解できない部分がある。
こればかりはどうしても人間の熟練者を頼る必要がある。
「『餅は餅屋』……だったっけ。マスターの前世の言葉では。専門外のことで私が悩み続けるよりは、どうやって専門家の所へ連れて行くか考えた方が合理的だし」
問題の後回し、あるいは押しつけかもしれないけど、方向性を決めるとそれだけで思ったより気分が楽になる。
そもそも私、癒し系天使じゃないし。どっちかって言うと、味方よりも敵をどうこうする方が得意なタイプだし。
「いっそ、悪魔に憑かれておかしくなってるとかなら楽なんだけど、あれだけ強力な浄化魔法が使えたらそれはないか」
何気に魔法抵抗力が高い上にやたらと神官適性が高いし、精神耐性の呪紋まで修得しているマスターだ。
そこら辺の悪魔が憑こうとしても普通に抵抗されるだろうし、無理やり取り憑くとしたら強すぎて接近しただけで察知できるような大悪魔だろう。
何かの間違いでマスターが自分から契約を受け入れたりしない限り、考慮する必要すらない可能性だ。
というか、あんなマスターと契約したがるとか悪魔だとしてもどんなもの好きだって話だ。
病は気からとも言うけど、悪魔だって精神が弱ってる人間から狙うものだ。じゃないと心の闇に付け込むどころか逆にいいように使われてしまうことがある。
昔話でもたまに賢い人間の魂を狙って逆に騙されて損をする悪魔の話なんかがある。
けど、それは悪魔は存在そのものが不安定で、一種の魔法や現象に近いものだから起きた現象を実話を元にした話だ。
悪魔は、自分を『使いこなす』ような存在に取り憑くと相手に有利な契約を結ばれて安い報酬で使い魔として使役されてしまう。
まあ、神官系の適性の高い人間は契約の交渉以前にそういう低級悪魔が気配を嫌って逃げるから使い魔を持つことがまずできないんだけど。
悪魔じゃない雑霊を使っても神官系の側にいるだけで浄化が進んですぐに天に還るし、使えてもせいぜいが低級だ。
「悪魔の使役は別として、戦力増強のために動物を手懐けておくのはありかもしれない……一応、ある程度馬には乗れるようにはなってたし。卵や幼体からならモンスターの調教っていうのもありかも」
アニマルセラピーになるかもしれないし。
当面の資金は確保できたんだし、大型でも餌代はどうにかなる。移動速度を考えれば、騎乗可能なモンスターを用意しておくのは悪い手じゃない。
「ワイバーン……は、今では軍用だから一般での所有は禁止だったっけ。他に戦力になって尚且つ騎乗向きなモンスターは……」
騎乗向きで考えるなら馬系がベスト。でも、ただの馬は大人しくて扱いやすいけど、戦力にするには割と訓練が手間が必要だし……
「いや、むしろ手間がかかる方が世話に付きっきりにさせておけるからいいかもしれないし……それとなく、好きな動物とかを聞き出しておくか」
「テーレさん。実はある生き物……いえ、厳密には生き物かどうか曖昧なのですが、飼いたいものがあるのです」
宿屋に帰って、私が一言発する前にこれだよ。
なまじ私から何か動物を飼う提案をしようとしてた所だから問答無用で却下する気にはならないけど……生き物かどうか曖昧なものって何? これがぬいぐるみとか人形とかだったら早急に治療院へ引っ張っていかないといけないんだけど……
「こちらの方なのですが……ライリーさん、そんなに怖がらずとも、テーレさんはあなたを食べたりしませんよ……おそらくは」
マスターが手の平の上に乗せて見せてきたのは、プルプルとした質感の黒っぽいゼリーのような……小人の女の子。
しかも私を怖がってかブルブル震えてそれが身体の質感と相まって余計にプルプルしてる……いや、ホントに何これ?
「えっとマスター……説明プリーズ」
「テーレさんの言葉通り一眠りした後、久方ぶりの娑婆で空腹だったのを思い出したので棚にあったゼリーを食べようとしたらこうなりました」
「なにその超展開。いや、待って、棚にあったゼリー?」
テーブルの上の空の容器には見覚えがある。
私が魔本のカビを培養するために使っていた器……いくつか育てた内の育ちが良かった器は常に持ち歩いてるけど、悪かったやつは一応残しておいたけど放置したままだったような……
つまり、この小人少女の身体のプルプルはこれ、私の作った寒天培地だ。
カビの餌として混ぜたインクが黒色なのとカビ自体も黒カビだからわかりにくいけど、留置所にいた間に繁殖が期待できないと思っていた培地でカビが大繁殖していたらしい。
しかも、それをマスターがゼリーだと思って食べようとしたもんだから『自己保存』の魔法が発動して、食べられにくい形に変わってこうなったと……どんなミラクルだ。
しかも、形状が変わっただけじゃなくて動物的な動き方をしてるあたり、そこら辺の雑霊でも取り込んで死霊魔術で作る低級の使い魔みたいになってるみたいだし。
このビクビク怯えるような反応も食べられにくくするための防御策……いや、中身の魂からすれば、いきなりちっちゃくなって巨人に見つめられてるんだからこうなるか。確かにこの姿を見て食欲なんて……
「マスターったら、こんな弱々しくて怯えてる小さな女の子を口に入れて咀嚼しようとするなんて、なんて背徳的な……」
「テーレさん、私はこの姿を見てからは食べようとはしていませんが。あと、涎らしきものが」
「ぴゃっ!?」
この小人、声まで出た。
もはや自我を持ってるのは疑いようのないくらいの反応だ。
確かに、これはちょっと飼ってみたくなる。いろいろ試して反応を見てみたくなる。
「そういえばマスター、さっきなんか名前で呼んでたよね? 名前付けたの?」
「はい、ライリーさん……厳密には『インキュバスのライリーさん』と呼ぼうかと」
「なんでこの見るからにスライム系な女の子にそんな名前付けたし!」
もはやセンス云々の問題じゃない。
種族も性別も違う矛盾の塊みたいな名前だ。
「見た限りではこれ以上ふさわしい呼称を思いつかなかったので。まさにライリーさんそのものです」
「いやそもそもそのライリーって誰?」
「私の夢の中に出てきたインキュバスさんです。姿形がそっくりなので。ほら、この膨らんでいそうで膨らんでいない胸のあたりとか」
「ぴゃっ!」
こいつ私が悩んでる時になんて夢見てんだ。
女夢魔ならともかく、男夢魔は完全にただの夢だろうし。
てか夢の中で性転換でもしてたのかこのマスター。前襲われかけて平気だったのはもしかして呪紋以前に性癖がそっちだったのか。
まさか、私が襲う時には生やせばいいってことなの?
だけどまあ、偶然だろうと直前に夢で見たっていうんならこの姿の理由もわかる。
そのイメージが強く残ってたからカビがその形を再現したんだろう。
インキュバスっていうか、普通に女の子の姿にしか見えないけど。悪魔特有の抑えきれない憎悪みたいなものは感じないし。
「テーレさんがご不満なら名前を変えますが」
「とりあえず、下のライリーはともかくインキュバスはやめて。無難に『スライム・ライリー』でいいでしょ。厳密にはスライムじゃなくてゴーレム系に近いけど」
「了解しました。では、テーレさんの命名に従ってライリーさんは厳密な種族は無視して『スライム・ライリー』を正式名称としましょう。本当によろしいですね?」
「なにその念入りな確認」
「いえ、名前を付けてくださるということは、飼ってもいいということかと」
「あ、しまった」
思わず突っ込みどころがあり過ぎる名前に気を取られて名前を付けてしまった。これはちょっと捨ててこいとか言えない流れだ。見るからに戦力にはならないのに。
いや、待てよ……
「……ライリー、ちょっとこれ、飲んでみ」
「テーレさん、これは……」
「うん、インク。多分栄養源になるから大丈夫。植物性だし」
「なるほど、植物性なら大丈夫ですね。さ、ライリーさん。壺はこちらで傾けますのでぐぐっと」
恐れながらも、自分より大きい墨壺からインクをチビチビと飲み始めて、最後には普通にゴクゴクと飲むライリー。
カビが魔法で寒天培地を動かしてるってことは、生物的にはカビそのものに近い。カビの餌になるインクを自分で適量補給してカビを培養してくれるなら、魔本の強化に使える。
「ふむふむ、スライムモードの時の食事はインクですか。この消費量ならそれほど食費がかかるというわけでもないので楽でいいですね」
「ま、まあ使い道がないでもないし。こういう可愛い系のマスコットがいた方が有名になったときに受けがいいかもしれないし」
普通に可愛がりたいし。
最悪の場合は魔力電池として使えるかもしれないし。
ちょっと弄くって遊んでみたいとかじゃないし。
「ぴゃ!?」
「おや、テーレさん。何か今不埒なことでも考えましたかな? ライリーさんは敵意や悪意の気配に敏感なのです」
「不埒なことってなによ。でもまあ、それなら警戒用の鳴子の代わりくらいにはなるか……ん?」
自分を害する者への感知能力の高さは『自己保存』の産物としては当然のものだ。別に私が特別怖いわけじゃないだろう。
いや、思えば、私が帰ってきてからずっと……
「……マスター。荷物まとめて。出発準備」
「了解です。しかし、急にどうしました?」
「意識しないと気付かなかったけど、宿の周りに何人か潜んでる。多分、偽金でお零れを得てた連中。マスターに家の金庫を鑑定されるのが嫌なんだと思う」
「なるほど。さっそく役に立ちましたね、ライリーさん。さて、では次はどこへ参りましょうか?」
夜逃げ同然の出発なのに、文句一つ言わずに荷物をまとめるマスター。
……ライリーが敵意を感知したのは私の帰ってくる前だったはず。
さては、こうなるっていうのを、ある程度わかってたな?
「はあ……ちょっと寄り道になるけど、次はちょっと都市を通って山奥へ行くよ。そこに、知り合いがいる、はず……たぶん、まだ生きてると思う。二十年ぶりくらいだけど」
「わかりました。その方がご存命であることを祈りましょう。テーレさんのお眼鏡にかなった方というのは是非ともお目にかかりたいものですし。おっと、手土産など用意するべきでしょうか。いきなりアジトにお邪魔するわけですし」
「……マスターが想像してるような裏稼業の人間じゃなくて、普通に真面目な表稼業の人間だからね」
なんで私の知り合いって言われてまず山奥の盗賊をイメージしたし。
マスターを治療院で診てもらうとして、こいつの考えが少しだけわかるようになってきた私も軽く診てもらおう。
「では、いざ行かん新たな地へ」
「敵に囲まれてんのになんでこんな楽しそうかのかなこのマスターは!」
ああもうこの街でようやくゆっくり準備できると思ったのになんて災難なんだっての!
その数時間後、私たちとすれ違うように街の外から来た新たな『転生者』が私たちのいた宿を襲撃したのを知ったのは、まだしばらく先の話だった。
狂信者は、『インキュバスのライリーさん』という名のスライム少女っぽい何か(に憑依したライリー)を飼うことを許可してもらった!
噓はついていない(誤解を招かないとは言っていない)。




