第165話 ライリー・キッス
side 狂信者
あれから、どこをどう歩いたものやら。
とにかく、山を下りて真っ直ぐ進めば外へ出られるという認識から、ひたすら低い方へと真っ直ぐ足を前へ運んでいたような気がします。
そして……
『あ、アルジサマ! ストップ! まえ!』
「ん……ぬおっ」
いつの間にか、結界の外まで出ていたようです。
顔の高さに突き出ていた枝に顔を打ち付け、仰向けに倒れました。いえ、別に手をつくことも倒れず我慢することもできましたが、そんな気分でなかったので。
なんとなく、脱力したまま横たわり続けます。
「ライリーさん……これでよかった、そう考えた方がいいんですかねえ。女神ディーレのための聖地はここに創建されます。それも、よくある戦争や災害程度ではびくともしない異世界の中です。むしろ、これから『研究施設』が戦乱を起こそうというのなら、『平和』への欲求はさらに高まり、聖地に人が集まることでしょう」
『え……でも、アルジサマはいいの? テーレ、奪われちゃったんでしょ?』
「いいえ。奪われてなんかいませんよ……テーレさんが、選択肢として総合的に判断して、あの中に留まることを選んだのです。実に合理的です……私と一緒に旅をして、偉業を重ねて名誉と自治区を手に入れるという不確かで遠い道のりよりも、目の前に簡単にそれができてしまう人がいたのですから。ええ、そうできるのならそうするべきなのかもしれません……この当たり券を紙屑にしてしまえなどと言う資格は、私にはありませんよ。テーレさんを奪われたのではありません……力不足な私が、最善手を打つのに不要な駒だった。私がテーレさんに見限られただけです」
『そ、そんなのひどいよ! だ、だってアルジサマはずっとテーレのために……』
「『全てはディーレ様のために』……これまでは、目的が一致していて一緒に動いた方が都合がよかった。私がテーレさんのためにできたことなど、そう多くはありません。それで言うのなら……テーレさんがディーレ様のために、『聖地創建』という目標のために努力した時間の方が絶対的に長いでしょう。私はその途中から関わっただけですから。テーレさんとしてみれば、長い目で見れば一時の感情で私との旅を続けるよりも、確実な手を取った方が合理的です」
『で、でも……そうだ! いくらなんでも一人の能力で守られた結界なんて、いつかその人間が死んじゃったら終わりだし』
「さすがはライリーさん……と、言いたいところですが。私の推理推測憶測が正しければ、もしも荒野さんが何らかの要因で亡くなられたとしても、あの『永遠の停戦地』はそのままの形で残る可能が高い。扱いは『神器』となるでしょうから天界からの回収対象となるでしょうが、テーレさんがいれば規則の裏技なり抜け道なりを突くことは難しくないでしょう。ついでにいえば、おそらくは外側で私が死んだとしてもテーレさんが天界へ強制送還されることはありませんよ。荒野さんがそう決めてしまえば、あの世界のルールは並みの転生特典の機能を上回るでしょう」
『そ、それじゃあ……あ、アルジサマのパートナーのテーレをた、誑かすなんて……』
「私にはテーレさんへの『命令権』があるんですよ。私には、強引にテーレさんをこちらへ引き戻す手段があった……それを行使しなかったのは、私です。理由や思惑はどうあれ、私がテーレさんの行動を許可したのです。何も言えた義理はありませんよ」
『で、でもでも……じゃあ、なんでアルジサマ、そんなに落ち込んでるの?』
「……さあ、なんででしょうねえ。いつの日にか、テーレさんを失うかもしれないという覚悟はしていたはずでした。けれどそうですね……それでも、『聖地創建』という目標のために、女神ディーレのために動き続けるつもりでした。しかし……テーレさんから、その目標はもう私が達成しなくてもいいのだと言われてしまいましたしねえ。正直、想定外だったんですよ。私は……」
私は……まだ、先は長いと思っていたんですよ。
一生をかけてでもと、思っていたんです。
けれど……
「……ライリーさん、まだ、ライリーさんとの契約が残っていましたよね」
『う、うん……けど、今はアルジサマの方が……』
「しばらく、私の身体を自由に使いますか? 必要なら魔法なりは発動するので言ってください」
『え、ちょっ、アルジサマ!?』
「しばらく、何年か不貞寝でもしていたい気分なんです。この感覚に慣れるのは時間がかかりそうですし……正直、慣れる気がしませんし。ライリーさんが使わないなら、ゼットさんが使いますか?」
『……断る。病気の肉体、いらない』
「健康体だと思うのですがねえ」
『さっきから代謝おかしいから。治してから言って』
「そうですか、では仕方がないですねえ」
とりあえず、眠るとしましょうか。
なんだか……とても、疲れてしまいましたから……
「アルジサマ……アルジサマ!」
……はて。
眠りについたかと思ったのですが、まだライリーさんのハッキリとした呼びかけが……いえ、自分の内からではなく向かい合っているように聞こえるということは、ちゃんと眠れてはいるのですか。
ここは、夢の中。そういうことですね。
「なんですか、ライリーさん。私は頭を休めたくて眠ったつもりなのですが、やはり私の身体を使いたいのですか?」
意識すれば、後は明晰夢のようなものです。
私はいつかの寝台に腰掛けていて、隣にはライリーさんが座っていました。私の手に、少しだけ指先を絡めて。
私が問いかけると、ライリーさんは少し困ったような表情をしてから、首を横に振ります。
「違うよ、アルジサマ……今のアルジサマ、元気ないから……元気になってもらいたいから、来てもらったの」
「そうですか。では、どうやって私を『元気』にするおつもりで? 何か記憶の虚像でも作りますか? 今は、あまりそんな気分では……」
「あ、アルジサマっ! わ、わ、わわ、わたしとっ、え、エッチなことしよっ! いま、ここで!」
…………ワッツ?
何を言っているんでしょうかこの自称インキュバスさんは。顔を茹で蛸のように真っ赤にしながら。
「お、男の人はそうすれば元気になるって、聞いたから! し、失恋……じゃないかもしれないけど! わたしが、テーレの代わりにずっと一緒にいるから! あ、悪魔だし……インキュバスだし、こんなことしかできないけど、少しでもその穴を埋められたらって思って……こ、これでも、一人で練習とかもしてたんだから!」
「……練習とは? 具体的に何を?」
「さ、サクランボのヘタ、結んだり……ずっと息止めたり……」
……相変わらず顔が真っ赤ですが。
自称でもインキュバスであるライリーさんにこんなことを言うのはなんですが、マジですか。いえ、私も実際の経験があるわけではないので偉いことは言えませんが、それにしたって仮にも人間を色香で誑かすべき夢魔を名乗っておいて、その段階ですか。
「あー……ライリーさん、そのお誘いに答える前に、一応確認しておきたいことがあるのですが」
「な、なに?」
「ライリーさん、その……『初めて』ですか? どちら側の立場がとは言いませんが」
「……は、はじめてだけど? どちら側の立場がって……え?」
「やはりですか……いえ、『エッチなこと』としか言っていませんし、嘘とは言えませんし、それ以前に知らないことを罪とは思いませんが……そんなことを言って私が乗り気になっていたら、大変でしたよ」
「た、大変って……?」
『……チッ、人間の交尾が見られると思ったのに。ライリー、期待外れ』
堪らず傍観を決めこんでいたらしきゼットさんの思念まで伝わってきましたよ。ゼットさんはゼットさんで勉強熱心なようですが、ライリーさんは失望されてしまったようです
「ゼットちゃん!? に、人間の交尾って……人間って、交尾、するの?」
表情が途轍もない動揺を物語っています。
どんな動物の交尾についての知識があったのかはわかりませんが、そこまで激しいものだとは思っていなかったという、未だに保留されている私の答え次第では自分はとんでもないことを申し出てしまったのではないかという表情ですね。
しかし……
「わ、わたし……やり方、よくわからないけど、アルジサマが望むなら……イ、インキュバスの本能にかけて!」
もはや、ヤケクソなんだか何なのだかよくわかりませんが、顔をこれ以上なく真っ赤に染めて、熱暴走しているのか頭から蒸気すら噴き上げて、私に詰め寄りながら熱弁を振るいます。きっと、マンガだったら目がグルグルと渦巻きになっていますね。
しかし、インキュバスの本能に任せられても困るのですし……
「ライリーさん、そんな無知な子供を騙すような形であなたの大事なものを奪おうとは思いませんよ。大事な何をかは知りませんが。お気持ちだけ……」
「ダメっ! それじゃ何も伝わらない!」
ライリーさんが、私を押し倒さんとばかりに詰め寄り、私の目を見つめます。瞳を通した魅了でも行おうとしているのかと思いましたが……その瞳は輝くことも瞬くこともなく、涙に濡れながら私を見つめているのみです。
「アルジサマ……わたし、夢魔だよ? わたしは、そういうふうに誰かを好きになったりしたことは、たぶんないけど……少なくとも、テーレとアルジサマが利害だけの関係で、目的が達成できたら『はい、さよなら』なんて形でお別れして納得できる関係じゃないことくらいはわかる……だって、羨ましかったから」
羨ましい……それは何も、肉体の有無というだけの話ではないのでしょう。
一時は別行動をしたこともありましたが、基本的にはライリーさんは私と共に活動し、私の精神というある意味誰よりも近しい場所で日々を過ごしているはずです。
しかし……
「今の私とアルジサマは、契約あっての関係……寂しいけど、何かの拍子に契約が終わったらそこでお別れしなきゃいけないっていうのはわかってる。アルジサマがわたしを嫌っててそういう関係にしてるんじゃないのはわかってるけど……アルジサマは、契約が終わったらそうするべきだって思ってる。なんでかわからないけど、わたしのためにそうしなきゃいけないと思ってる。それくらいは、ずっと心の中にいれば何となくわかるよ」
「……ええ、そうですね。決して、ライリーさんを除け者にしたいわけではないのですがね」
「うん……知ってる。けど、それ以上に、アルジサマはわたしよりテーレのことを愛してるよ。ううん、愛したいと、想ってる」
「……それは、まあ、ライリーさんに悪いかもしれませんがテーレさんは色々と、愛すべき要素が……」
「違うよ。初めはそうだったかもしれないけど……今は、『テーレだから愛したい』って気持ちがあるはずだよ。同じ要素を持った他の人とは交換できないテーレさんだけに向けられる気持ちが。じゃなきゃ、アルジサマはそんなに落ち込まない。愛すべきものの優先順位が繰り上がるだけ……アルジサマが落ち込んでるのは、本当は『自分でテーレを愛したい』って思ってるのに、自分よりも上手くテーレを愛せそうな男が出てきて、『テーレを幸せにしたい』って気持ちを優先するためには『自分でテーレを愛したい』って気持ちを押し殺さなきゃいけないから。このまま、本当の気持ちを意識せずに引き下がったらいつか絶対に後悔する」
真剣な眼差しから読み取れるように、これはライリーさんの本気の忠言なのでしょう。
なるほど、『特定の人を愛したいという欲望』ですか。確かに、理屈は通っています。予想以上の精神的なダメージの原因も、それなら納得できそうです。
さて、その理屈を聞いてふと思ったのですが……
「……それが、なんで私と『エッチなこと』をしようという話に? ショックで弱っている私の精神を狙いたかったのですか?」
「そ、それはまあ、考えなかったわけじゃないけど……言葉だと、伝えきれない気がしたから。今も、アルジサマは言葉ではわかってても、ちゃんと理解できてない気がするし」
「と、いいますと……」
「わたしは、アルジサマのこと好きだよ。契約してるからってだけじゃなくて、わたしの存在にいろんな意味をくれたから。ゼットちゃんがこうしてアルジサマの中にいるのも、クロヌスの貴族の人の悪巧みの証拠を集めたりできたのも、アルジサマがわたしに行動の目標をくれるから。無意味に利用されて使い潰されただけのはずだったわたしが、世界に傷痕を残せた。すごく、感謝してる」
「ライリーさん……私は、契約に基づきあなたを使役している。私も、あなたを利用しているだけの立場と変わりはありませんよ」
「ううん。わたしにとっては違うの。アルジサマが認めなくても、わたしはアルジサマを特別な主人だと思ってる。だから……わたしには、アルジサマを誰よりも愛したいって欲望がある。エッチなことすれば……その欲望を、教えられるかなって」
「……百聞は一見にしかず、そして百見は一度の体験に届かずというわけですか」
つまりは、色仕掛けを通した『欲望』の教唆ですね。
なるほど、実に悪魔らしいやり方です。行為としてどんなことをするかという知識はなくとも、ライリーさんは私よりもずっと心の在り方というものを理解していたようです。
私はやはり未熟ですね、菩薩様でもなければ個への愛を捨てることなどできますまいに。テーレさんは私の愛が全てに向けられているというようなことを言っていましたが、仮にそうだとしてもその中でもよりいっそう愛したいものがあるというのも、矛盾はしませんしね。
「しかし……新説を適用するのなら理論だけでなく、実証がしたいものですねえ。私にとって、テーレさんが特別であるという実証実験です。となれば……ライリーさん、共同研究と参りましょうか」
「きょ、きょうどうけんきゅう?」
「はい、ライリーさんが最初にしたいと思ったことをしていただけますか? もちろん、本当にしてもいい……いいえ、ライリーさんがまだしたいと思うのならですが」
「えっ! ほ、本当に……? し、舌とか入れちゃうよ?」
「ええ、練習したというものを無下にするのもなんですし。それに……ライリーさんには大変失礼ですが、対照実験も兼ねて」
「じゃ、じゃあ……い、いくよ!」
顔を両手で固定され、ライリーさんの唇が私の唇に触れます。
そして……
「う、むぅぅ~」
まあ、具体的な技術の方は割愛しておきます。
確かに練習したと言っていただけありますし、インキュバスの本能とやらも手伝ってかなかなかに熱烈なアプローチでした。ええ、悪いものではありませんでした……しかし。
「ぷはぁ……どうだった?」
「……ダメですね」
「そんなぁ~……」
ガックリと肩を落とすライリーさん。
インキュバスとしてのプライドやらなんやらがあったのでしょうか。悪いことをした気がしますが、噓はつきたくありませんし、事実は事実として認めなければなりません。
「いえいえ、さすがはインキュバスを名乗るだけありますよ。それも悪魔としての魅了技能の一部として能力に数えられているのでしょうが、技術はおそらくスキルレベルにして200以上、本当に技術の巧さで言えばテーレさん以上なのだと思いますよ。それに、確かに私への強い想いというものも、感じ取れた気がします」
初々しさと人間の快楽反応を知り尽くした本能の合わせ技というのは確かになかなかに強烈なものでした。
夢魔というのはその方面においては生まれ付きのプロということなのでしょうねえ。
「しかし……それでも、選べるのならテーレさんを選びますね。ええ、あの時も私はあの行為をキスかどうかの判断すら難しく思いましたが……どのような形であれ、どのような理由があれ、テーレさんの肌に触れ、五感で存在を感じ、干渉を受けているというだけでも高い幸福度を感じました。実験結果からすると、それはやはり相手がテーレさんだったから、ということだったようですね」
いえ……思えば、別にキスでなくとも、触れ合うだけでも、隣で歩いているだけでも、私は幸福を感じていたようです。
テーレさんはああ言いましたが……私に、テーレさんの代わりになる存在はいない。それが証明されました。
「ありがとうございます、ライリーさん。元気になりました」
「ほ、ほんと! やっぱりテーレに負けてるのは複雑だけど……アルジサマが元気になったなら、よかった! メッチャクチャ悔しいし自分で都合のいい女を買って出ちゃった後悔半端ないけど!」
こちらとしても非常に申し訳ない。
しかし、ライリーさんも義理や同情で仮初めの本命扱いされるのは夢魔的に侮辱的な行為でしょう。埋め合わせは今度キチンとするとして、今はテーレさんの方です。
「私は……やはり、もう一度テーレさんに言わなければならないことがありそうです。テーレさんの認識にある間違いを正さなければならない。テーレさんは決して、私にとっての不幸などではないと」
木陰で、目を覚ましました。
太陽の方向が横たわったときと違い、完全に樹の向こう側に移っていますね。
しばらく深く眠ってしまったのか……疲労を回復せよというライリーさんの配慮か、何時間か経過してしまったようです。おかげで、疲労感は抜けていますがね。
「さて……『命令』を使うつもりはありませんが、説得くらいはさせていただきましょう。前回は不意の驚きに何も言えなかったということで」
さあ、立ち上がり、もう一度足を踏み入れましょう。
この境界を越えて、あの常夜の世界へ……
ボイン!
「ぬおっ」
弾き飛ばされて、またも仰向けに倒れました。結界が高反発のクッションのような弾力をもって私の侵入を拒絶したようですね。
特定人物の侵入禁止、そういったルールが追加されたと見るべきですか。
「……荒野さん、それはズルいでしょう」
『困っていたから助けた』なんて、そんな気は全然ないというふうに装っておいて、こう来るのですか。
テーレさんも、罪な人ですねえ。




