第164話 毒気抜き
side テーレ
『そういうこと』を、一度も思わなかったわけじゃない。
『もしも、そうじゃなかったら』と、一度も考えなかったなんてことはない。
私だって、これまで自分の性のために他の天使がしなくてもいい思いをたくさんしてきた。こんな私しかできないからこそ手を汚してきたこともあった。
だけど……
その『もしも』が現実になってしまったとき、私は……
side 狂信者
朝日に照らされる外の世界から、常夜の異空間『永遠の停戦地』へ。
重い身体をライリーさんの補助で動かして足を踏み入れたその世界は、昨日と何一つ変わらず祭囃子に包まれた楽園でした。
私の侵入に対して黒鬼が現れるということもなく、住人が驚くこともなし。
しかし……
「変わらなさすぎる、ということですかね……」
テーレさんが脱出を図って暴れたのなら、爆弾などでそこら中が壊れていてもおかしくはありません。テーレさんならば、黒鬼が出現しても回避や逃走が可能なはず。それなのに、ここまで異常の気配もないということは……
「『テーレさん!! 無事ですか!! 私はここにいます!!』」
『テレパスカード』を用いた通信。
しかし、応答なし……このアイテムは確か、『天界』の位相を経由する特別会線の無線のようなもの。この空間自体が隔離性の高いものであるのなら内部からも使用不可能になりますか。
であれば、足で探すしかありません。
まず調べるべきは……やはり、荒野氏の居場所。『組合長室』。
あの、山の中腹の櫓です。
彼自身に意図を問い詰めねば、何もわかりません。何故、私だけを外に追い出したのかも。
「無事でいてくださいよ……テーレさん」
山の中腹を目指して一時間ほど。
全身を重く縛る疲労感もあって思ったよりも時間はかかりましたが、ようやく櫓が見えてきたところです。
坂道を駆け上り、少しだけ息を整えようと近くの樹の一本に寄りかかると……思いのほか表面が滑らかだったのか、身体が言うことを聞かなかったのか、寄りかかろうと樹に預けようとした重心がずれ、上ってきた坂道へと身体が傾いて……
「マスター!」
その傾いた身体が、ぐいっと引っ張り上げられます。
よく聞き知った声の持ち主の、よく知る感触の手によって。
そして、きっと彼女はいつものように私の行動に怒りながら……
「大丈夫ですか! まさか、こんなすぐに戻ってくるなんて……とにかく、休める場所へ運びます! 無理に動かないでください!」
……テーレ、さん?
気が付けば、私はベンチに横たわって、星のない夜空を見ていました。疲労感のせいか、視界はボンヤリとしていて焦点が定まりませんが、地上に溢れるオレンジ色の光に薄く照らされる空は、『永遠の停戦地』の内部ということで間違いないでしょう。
そして、私の頭には柔らかな感触が……
「目覚めましたか、マスター。心配をおかけして、ごめんなさい。でも、もう無理をしなくていいんです。少し、誤解があっただけですから」
視界に入り込む、金色の髪と黄金の瞳。
その姿は、祭の最中に着ていた浴衣姿。しかし、それは驚きに値しません。
最も驚くべきは……その表情。
いつもどこかトゲトゲしさを持った印象を抱かせた目付きや表情はどこにもなく、以前彼女ができないと悩んでいた『柔らかく穏和な笑み』に慈愛を滲ませたテーレさんのお顔がそこにありました。
「テーレさん……ですか?」
「あは、ごめんなさい。こんな格好だとわかりにくかったかもしれませんね。でも、私ですよ。あなたの従者、ディーレ様の眷族、天使テーレです」
「服装のことでは、ありませんよ……」
「じゃあ、態勢のことですか? 膝枕です。お布団のある宿舎は遠いので、近場で休むには丁度いいかと思って。いけなかったですか?」
「いいえ……膝枕は、ありがたいのですが……本当に、テーレさん、ですか?」
数瞬の沈黙。
しかし、それは嘘偽りの気配ではなく、どちらかといえば悲しみの気配。あるいは……悔悟の念。
その優しげな目を潤ませて、柔和な表情を曇らせながら、答えます。
「はい……私はテーレです。いえ……私が、本当のテーレです。これが本来の、『悪』に歪んでいない私なんです。いつも、あんな態度を取ってごめんなさい……いつも、馬鹿なんて言ってごめんなさい……いつも、不幸を呼び込んでごめんなさい。でも、今は、ここにいる間は大丈夫なんです」
「……洗脳、というわけではなさそうですね。彼に、荒野さんに何をされた……いえ、何を、してもらったんですか?」
こっそりと『浮気封じの呪紋』を刻んでみても効果なし。しかし、目の前のテーレさんは偽者ではありません。別人のようですが、別人でないことはわかります。むしろ、似せようとする気も欺こうとする気もないからこそ、ハッキリわかってしまいます。
目の前にいるのは、私に膝枕をしてくださっているのは、紛れもなくテーレさんです……何か、大きな心境の変化があって、表情や性格が変わっただけの、普通に豹変しただけの、本物のテーレさんです。
「……あの人は、この結界の中のあらゆる『流れ』を感知して、操作することができるそうです。最初、並んでる私たちを見たとき……彼は、マスターに集まる幸運と、私に集まる不幸を感知して、マスターが私から運気を奪っているんじゃないかと誤解したみたいなんです。でも、ちゃんと説明したらわかってもらえました」
運気を奪っている……ですか。
アーリンさんにも私がテーレさんを操って従えているのではないかと疑われましたが、やはり私とテーレさんのコンビは不純に見えるんですかねえ。
しかし、ここまでの変化は尋常なことではない。
「呪いで集まる『悪』の負荷を受けていない状態のテーレさん……それが、今の状態ですか?」
「はい……あの人は能力で、私に集まる『不幸』と『悪いもの』の流れを調節してくれた……呪い自体が消えたわけではないけど、ここは無菌室みたいなもの。私は初めて、完全に呪いから解放された精神で物事を考えられるように、呪いの霧を通さずに世界を見られるようになったんです」
『従者は主人に嘘を言えない』。
だからこそ、わかってしまう。テーレさんが言っていることが荒野氏を庇っての言葉や思ってもいないことでも、ましてや私への揺さぶりでもないということが。
むしろ、本当ならばそのままの形で口にしたくないとすら思っている……純然たる事実だということが。
「……ずっと、心のどこか奥底で、拗ねていた部分がありました。私には、みんなのように悪意を通さずに物事を見ることができない。生まれてからずっと呪われたまま、私は何にも悪いことをしてないのに、自分の心から悪いことをしたいわけじゃないのに世界のみんなから『悪いもの』を押し付けられて、どんな綺麗なものも悪に曇った視界でしか見られなくて、他の天使の子たちを僻んで、脳天気だって心の奥で馬鹿にして……ひたすら人を信じるってことができるあなたのことも、心の中では見下していた。疑うことに長けたあなたが、無条件には人を信じられないあなたが、自分の意志でそれをし続けるのが、どれだけ大変かなんて想像もできずに……テーレは、悪い子です」
「……テーレさんは、悪い子でもいいのですよ。そんなふうに畏まらなくても、無理に笑わなくてもいいのです」
「今なら……わかります。私が一緒にいれば、私はマスターの足を引っ張り続ける。マスターはもう、従者なんていらないくらい強いんだから。他の転生者にだって、どうにでも勝てます。いえ、マスターだけならきっと、争う必要もない。私の『不幸』さえなければ、マスターの幸運ならば、きっとマスターの望むとおりの平和的解決ができます。それでも私が一緒にいることに拘ったのは……単に、『聖地創建』なんて目標を私の手で叶えて、ディーレ様に褒めてもらいたかっただけなんだって。ディーレ様は、本当にただ、担当になった転生者に、あなたに、幸せな第二の人生を送ってもらいたかっただけなのに……私は……」
ポツリ、ポツリと……滴が、私の額に落ちました。
それは、この外界から隔離された世界にはありえない雨などではなく、すぐ目の前の瞳からこぼれ落ちたもの。
悲しみに顔を歪ませたテーレさんが堪えきれずに流した涙の粒。
「もう……マスターは、私のわがままなんかに、付き合わなくていいんです。もう、『聖地』もマスターが無理をしなくていい……昨日、荒野さんと話を付けました。聖地が必要なら、ここをそうすればいいって。彼なら、信仰の流れを女神ディーレに向けて集めることもできる。外へ流れ出る空気に乗せて、ディーレ様への信仰を一緒に広めることもできる。そうすれば、私たちの目標が達成されたのと同じ結果が得られるんです。ただ……私が、ずっとここいれば。そういう、条件なんです」
「何故……彼と、そんな話を……?」
「少し前までは、呪いを解いてもらったとしても何も変わらないと思ってたんです。でも、解いてもらって初めて……今まで、気付けなかったことに気付いてしまったんです。あなたは、私を本当に愛してくれている……けれど、同時に『全て』を愛している。私にとっての『人』は『人間』と『天使』や『神々』だけだけど、あなたはもっと広い概念を心から愛している。対話可能な全ての知性を、幸福を求める生命を、食べる食べられるという関係ですら尊重して、今は知性を持たない者ですら、いつか知性を持つかもしれない者として敬愛している」
「それが……不都合は、ないでしょう?」
「いいえ……あなたにとっての『人』はこの世界では悪魔や魔王までも含むもので、それを考えれば私の優先しようとする『人間』はあまりにも利己的で、狭量すぎる……本当は冒険者なんて向いていない。みんなが幸せになれるような研究ばかりしていたい、そして、この世界ではそれができる魔法の才能もある。誰かと戦うなんて向いてないのに……私のために、私の方針に合わせて認めたくもない暴力や争いも許容してくれていた。私の存在自体があなたにとっての『不幸』だった。だから……ここで、マスターは私から解放されていいと思ったんです。思えて、しまったんです」
テーレさんは嘘の言えないその口で、ハッキリと『その言葉』を口にしました。
「お別れしましょう。私たちの、お互いの幸福のために」
テーレさんは、大領主様や商会に宛てた手紙……私が後腐れなく『研究施設』関連のゴタゴタから抜け出し、この先を生きていくために必要な資金を引き出せるようにするための書状を用意すると言って、櫓へ向かっていきました。
その間、私は……何も言えず、沈黙していました。
「ああ……本当に、情けない」
『お互いの幸福のために』。
そんな一言で、何も言い返せなくなってしまうなんて。私一人の幸福のためだと言われれば、いくらでも反論できたと思うんですがねえ……
「反則ですよ、それは……大体、なんですか。『ここを聖地とする』とか、そんなことポンとやられたらたまりませんよ」
どういった理由でそこまでの厚意を見せて下さるのかわかりませんが、悪意のフィルターがないとしてもテーレさんが信じたのなら嘘ではないでしょう。
それなら……それこそが最短で、合理的な手段と言えるのでしょう。私にはそんなことはできません……テーレさんの『呪い』だって、どうにもできません。
つまりこれは……
「『結局のところ女の子は頼れる男が好ましい』、ということですかね……漢らしさで負けたというのなら、どうすればいいんですか」
「わいはおのれも『漢らしい』と思うんじゃがな。『一緒に来い』ちゅって『命令』することもできたんじゃろ?」
……おや、これはこれは。
噂の色男さんの登場ですか。
彼の目の前で横たわっているのも何だったので、身を起こして座り直します。
「これはどうも、荒野さん。昨日ぶりです」
「悪かったのう。ここに来る転生者ときたら漢らしさの欠片もないやつらばっかりだったもんでなあ。ほれ、疲れとっちゃるでこれ飲めやい」
「いりませんよ。これでも回復は速い方なので……それに、今はあなたからの施しは受けたくありません」
「ははっ、ほんに悪かったなあ。じゃが、わいは別におのれが憎くて嬢ちゃんにちょっかいかけたわけやないんや。目にとまったから、それだけやで」
「……それだけで、テーレさんの周りから『不幸』を遠ざけたり、ここを女神ディーレの聖地にしてもいいと提案したのですか? 何故ですか? テーレさんに一目惚れしたのですか?」
「ははっ、確かに嬢ちゃんはいい女や思うわ。わいも好きやで、ああいう強い娘っ子は。あともうちょい育ってボッキュッボンなってくれるとベストやけどな。けど、そこやないねん」
ここまで明け透けだとこちらも困りますよ。
ここで嘘の一つでも感じ取れたのなら、信用ならないとテーレさんを強引にでも引っ張り出せたのですが。
「では、どうしてそんな、取り引きとも言えないような提案を? テーレさんを外に出さないというのも、外に出ればテーレさんがまた元に戻ってしまうからですよね。テーレさんの知識や能力がこの世界の運営に役立つのはわかりますが、あなたにはテーレさんに割くリソースに釣り合うほどの利益はない。何が目的なのですか? このまま、この結界を広げて世界征服でも目指すつもりですか?」
「損得とか、難しいことは苦手なんや。けどなあ……」
裏もなく、後ろめたさもなく、嘘もない。
荒野氏は、当たり前のことを言うように、堂々と言い放ちました。
「『困っとるやつがおったら助ける』それが漢らしく生きるってことじゃろが。わいは、異世界だろうがどこだろうが、漢らしく生きないかんのや。生まれ変わろうが超能力者になろうが、わいがわいであるためにはそこは曲げられん」
『目の前に困っている誰かがいて、自分はそれを助けられる力がある、だから助ける』。
それだけのこと。その信念を貫いて、目の前で呪いに苛まれていたテーレさんを呪いから救った……そうするだけの力があった。
そうですか……
「あなたが、力を持っただけの悪人だったのならどれだけよかったか」
ベンチから立ち上がり、階段へと歩きます。
まだ身体は重く動きにくいですが……そんなことよりも、胸の奥が重い。大きな穴が空いたような気がするのに、その分だけむしろ質量が増したかのように。
「おい、どこいくんじゃ?」
「自分の足で外へ出て行きますよ……今、テーレさんと会ったら、口を滑らしてしまいそうなので」
ああ……この世界に来て、初めてですよ。
心から、テーレさんに『命令』をしたいなんて思ったのは。
新鮮な浴衣&敬語テーレさん。
口調で狂信者と見分けにくいのが難点。




