廻る思考は理解不能
次の日、俺は完全に上の空だった。その事に気付いたのも、今この瞬間。エルの家に泊まった翌々日の朝の事だ。
「……」
何故あの時に答えられなかったのか、理由は自分でも分からない。ただ、頭が真っ白になって何も考えられなくなった事だけは鮮明に覚えている。
「あの、チコさん?大丈夫ですか?」
体を起こしてボーっとしていると、二段ベッドの上段から赤い髪が垂れて来て、寝起きらしいディオニシオさんが顔を出した。外はまだ暗いが、早起きのディオニシオさんは既に起きていたらしい。
チラリと覗く翡翠の瞳は、僅かな朝日の光を受けてうるうると揺らいでいる。眉も八の字になっており「私、心配してますっ」という空気を醸し出している。どうやら、かのz……彼には昨日に相当な心配を掛けたようだ。
「あぁ……何とか、大丈夫です」
「そうですか……それなら良いんですけど……あの!あっ、ふきゃっ!!」
ディオニシオさんが上段から落ちた。初めて寮に来た日のようにすぐに立ち上がったディオニシオさんは、相変わらず男性に見えない。感覚的に言えば、寝起きの姉だろうか。
「あの、エルネスタさんも心配してましたから……」
「……うん、ありがとう」
「あの、いえ、大丈夫です。あの、ボク着替えて来ますね」
礼を言うと、ディオニシオさんははにかんでから風呂の脱衣所へと入っていった。目の前で脱がれては色々と危ない気がした為、着替える時にはどちらかが席を外す事にしているのだ。
必然的に、部屋の中は俺だけになる。薄壁一枚とは言え、魔法を使う学園生が壁をぶち抜いたりしないように対策された壁だ。衣擦れの音ひとつ、此方の方へ漏れて来てはいない。
「はぁぁぁ~~~……」
額に手を当て、体をくの字に折って顔を布団に埋める。幾ら考えても、あの時のエルの問いに答えられなかった理由が浮かんで来ない。自分の欲望に従って『戦いたい』と答えていれば良かったのに、その言葉は喉の奥に引っ掛かって口に出す事が出来なかった。
何故、何故常に戦闘欲に忠実だった俺が、最も強い筈のエルの本気を見たいと言えなかったのか。そして、何故拒否もせずに頭が真っ白になってしまったのか。
……本当に何も分からない。
「……着替えるか」
自分でも理解出来ない理由がどんな物であろうと、学園には行かなければならない。俺はベッドから抜け出すと、物干し竿に掛かっている制服を手に取った。
「――……こ?チコ?」
「ん?おぉ、エルか」
「大丈夫ですか?昨日と同じ状態になってますよ?」
「いや、昨日よりは大丈夫だ。うん、大丈夫」
「なら良いですが……」
何時も通りに自分の席で竜山脈を眺めていたが、また上の空になっていたらしい。耳元で声を掛けられるまでエルの接近に気付けなかった。記憶が無い昨日よりはマシだが、心が大きく揺らいでいて注意力が散漫になっている。
前の席に座ったエルは、珍しく表情を心配そうな物にして俺の方に体を向けて来る。その様子を眺めていると、頬を突かれたような感触を覚えた。
「……やっぱり、おかしいです」
「……そうだな」
俺の頬から指を引いたエルは、一言呟いて目を伏せた。俺自身おかしい事は承知しているのだが、何故おかしいのかが分かっていない以上説明の仕様も無く、同意の言葉を搾り出すだけで精一杯だった。
「私が魔闘大会に出ると言ったからですか?」
「いや、それは違う。本気を出すかどうかの所……だと思うんだが……」
「自分でも分かっていないんですか?」
「そう……だな。うん、そうだ」
俺が質問に答えると、エルは手を顎に当てて考え事を始める。エルはある意味俺よりも俺の事を知っている。彼女ならこの原因を突き止められるかも知れない……と思ったが、暫くしてからエルは首を振った。
「私にも分かりません。そもそも、本気を出すのもチコが喜ぶと思ったからですし……」
「そうか……」
エルにも俺にも分からないのなら、恐らく他の人にも分からないだろう。このままでは何も手に付かない。ディオニシオさんに話を聞く限り、昨日はずっとぼんやりしていて動こうとすらしなかったらしいが、今日も似たような状態になってしまう気がする。
俺は深々と溜息を吐くと、机の上に身を投げ出した。エルも小さく息を吐き、肘を突いて顎を手に乗せている。俺達の上にだけどんよりと黒雲が掛かっているような雰囲気が辺りに充満した。
「おはようなのである!!」
そこに現れたのは、貴族避けとして利用させてもらっているエウヘニオさんだった。何時も通りに喧しい挨拶をしたエウヘニオさんは、何時も通りに俺の隣の生徒の席に座る。
「チコ殿、今日は復活したのであるか?」
「……一応」
「ならば良かったのである。昨日は完全に無反応だった故」
ホッとしたように息を吐くエウヘニオさん。完全に無反応だったのは初耳だ。原因不明のショックの影響は、思った以上に根が深いらしい。
「それと、チコ殿とエルネスタ殿は魔闘大会には参加するのであるか?」
「……一応」
「はい、そうです」
「おぉ、それは良かったのである。お蔭で賭けで簡単に稼げそうなのである!」
俺は無言で立ち上がると、エウヘニオさんのこめかみに拳を当ててグリグリと抉った。悶絶するエウヘニオさんが限界を迎えるギリギリの所まで攻め、その場にへたり込ませる。これは虐めでは無い、お仕置きだ。
「何やってるのよ、あんた達……」
隣から聞こえて来た声の方へ目を向ければ、そこには学園の制服を着たリディアさんがいた。地味に男子に所以のある物から距離を取りつつ、呆れたような目で俺を見ていた。
「何時も通りです。で、リディアさんは何をしに?」
「あぁ、本当に重症ね。私、昨日に黒板の前で挨拶をしていたんだけど」
「そうなのか」
言われても何も覚えていない為、どんな挨拶をしていたのかすらも分からない。そう伝えると、リディアさんは深く溜息を吐いて何故学園に来たのかを説明してくれた。男嫌いの割りには、男にも結構優しい。
「他国から体験入学に来たって設定でゴリ押ししたのよ。勿論あんたの名前を使って」
「そうか……」
「……ねぇお姉ちゃん、本当にコイツ大丈夫なの?」
「今は駄目かも知れませんね……」
目の前の机の模様をぼんやりと眺める。視界がフィルターを掛けたように白み掛かっていて、まるで今が現実では無いかのような錯覚を覚えさせる。首を動かして窓の外を見ても、白いフィルターは外れなかった。
暫くして担任のベルナベさんが入って来たようだが、俺は話を聞く気力すら持っていなかった。ぼんやりと聞こえる声を右から左へと流しつつ、前世の安い画像編集ソフトで明るさを上げたような景色を眺め続ける。しかし、明るく見える視界とは裏腹に考えは一切纏まる事は無く、迷宮入り事件の前夜の嵐に突入したかのようだった。
「チコ、授業が始まりますよ」
「ん、ごめん。ありがと」
「いえいえ」
何時の間にかホームルームが終わり、エルが魂の抜けている俺を起こしてくれた。普段よりもゆっくりと次の授業の準備をして、俺は再び竜山脈の方を向く。後ろからエルとリディアの声がしたが、振り向いてしっかりと聞く気にすらなれなかった。
授業にも身が入らない。聞いた言葉が片っ端から考え事に変換されて、きっと左耳にあるであろう出口へと消えて行く。きっと質問には曖昧に「んー」と答えているに違いない。
暫く考え事を続けていると、本日何度目かのチャイムが鳴った。最初の授業が終わったのだろう。
「チコ、お昼ですよ」
……昨日の俺も、こんな感じだったのだろうか……?
「今日も上の空ですね……」
「考え事に脳のリソースを全て裂いてるから……」
考え事を振り払って食堂に移動し、何時もの席に座る。俺とエルは並んで座り、対面にエウヘニオさん、途中で合流したディオニシオさん、リディアさんが座った。
「あの、本当に大丈夫ですか?辛いのなら、医務室で休んだ方が……」
「大丈夫大丈夫」
「全然大丈夫そうじゃないのである……」
味のしないエルの弁当を食べながら、時折飛んで来る質問や気遣いに答える。「食べている」「答えている」と認識出来る分だけ、昨日よりは遥かにマシだろう。一応、周辺にいる人間も把握出来ている。
「そう言えばリディア、あなたは大丈夫なんですか?」
「え?何が?」
俺の隣に座っているエルが、向かいに座っているリディアさんに問い掛ける。何となくリディアさんの方へ意識を向ければ、彼女はディオニシオさんの隣に座っていた。美少女と美少z……年が並ぶ姿は、周辺の注目を集めている。
「いえ、男性が」
「男って……そりゃ不愉快だけど、我慢出来ないほどじゃないわよ」
「隣に座っていても?」
「あの……」
なるほど、と俺が理解すると同時に、リディアさんはバツが悪そうな表情をするディオニシオさんの方を見た。顔を覗き込んだ。ぺたぺたと体を触った。そしてディオニシオさんの股間に手を伸ばし、うんうんと頷いた後、顔を引き攣らせた。
「あの、えっと……あの……」
「男……女にしか見えないけど、男だったわ……まぁでも、他の男よりは遥かにマシね。密着されない限り大丈夫そう」
「そうですか」
「それと、結構大きかったわ」
「あの!?まだお昼です!?」
どうやらリディアさんは、見目麗しい女性にしか見えないディオニシオさんなら大丈夫なようだ。この子がこの娘に聞こえたのは錯覚だし、ディオニシオさんが俺とエルの二の舞になったのも錯覚だろう。俺は黙って目を逸らした。
「うわぁぁぁ!チコさん、忘れて下さい!」
顔を真っ赤にしたディオニシオさんが叫ぶが、俺は知らん振りを決め込む。ディオニシオさんも俺と同じ地獄を味わえば良いと思うのだ。同室の好として。
「あ、チコが話を理解していますね」
「大きな進歩なのである!」
隣のエルと正面のエウヘニオさんが嬉しそうに声を上げる。大袈裟な気もするが、昨日の事を考えれば強ち大袈裟で無い事が悔しい。どれもこれも俺の心と思考が不安定になっているからだ。
「ですが、まだまだダメですね……チコ、それはお箸です。きゅうりではありませんよ」
「ん?あ……すまん」
「こんなボロボロになるまで噛み砕いて……美味しかったですか?」
「美味しくないと思う」
また気が抜けていたらしく、俺は箸を食べてしまっていた。ボロボロになった箸をエルが回収し、上目遣いでボケて来る。しかしツッコミを入れる気力も無かった為、俺はボケに対して真面目に返した。
「キレが無いですねぇ」
エルはつまらなさそうにぼやくと、空になった弁当箱を回収した。俺はコップの中の水を飲み干し、今まで男に触れていなかった所為か、男の体に興味津々のリディアさんに悪戯をされて、真っ赤になりながらぴくんぴくんしているディオニシオさんを観察する。
「うーん、此処かな?」
「あの……ぁっ……止めて下さ……」
「それとも此処かな?あ、こっちかも」
「んっ……その……」
俺は目を逸らし、精神統一の為に素振りでもしようと立ち上がる。良妻賢母の鑑と有名になっているエルがそれに続き、普段は俺と一緒に素振りをするディオニシオさんも立ち上がろうとした。
「あ、何処に行くのよ。逃がさないわよ」
「ひゃぁぁぁっ!チコさん、助けて!!」
ズボンに手を掛けられて逃げられなくなったディオニシオさんを見捨て、俺は中庭に出て剣を抜く。ゆったりと構えた後、振り上げて下ろす。単調な作業の繰り返しだが、揺らぐ精神を沈めるのには最適だ。
最初は鈍かった振りも、繰り返す毎に普段の精細さを取り戻して行く。それに伴って視界も鮮やかさを取り戻し、波打っていた感情は鎮まり、常に回転していた脳が思考を停止する。気配も細かい所まで読めるようになった。
浮かんだ疑問も廻る思考も、何もかも後回しで良い。今はただ、ひたすら剣を振る悦びに身を任せていられればそれで良い。
上げて下ろす。上げて下ろす。上げて下ろす。
何時までも続けたくなるような素振りに時間を忘れた頃、肩に置かれた手の感触に素振りを止める。恐らく、エルが時間を教えてくれるのだろう。
剣を下ろして振り返った先にいたのは、満面の笑みを浮かべた上半身裸のメブゲジホさんだった。
「チコ殿!そろそろ時間なのである!」
「何でお前なんだよ!」
堪らず大声でツッコミを入れる。普段の調子に安心したからか、大声に仰け反るベブベシオさんの後ろで、エルがホッと息を吐いていた。
その後、俺は出口の見えない思考の迷宮に挑むのを止め、魔闘大会に意識を集中する事に決めた。




