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おろかなひと  作者: K.Taka
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外伝

ルカリオ:アジャーニの総帥。かつてのマリアの恋人。

マリア :かつてのルカリオの恋人。身に覚えのない浮気疑惑をかけられルカリオに捨てられた。

マルセル:アジャーニ本家の執事。ルカリオにとっては教育係のようなもの。

サンドラ:ルカリオの恋人。のちに妻となる。



 屋敷の主が息を引き取った翌日から、執事であるマルセルは葬儀のための準備に奔走していた。後継者であるルカリオが取り仕切る中、細々とした事柄を片付け、差配する。それでもマルセルは安堵していた。

 アンジェロは、敬愛する主は安堵して逝けたのだ。彼の80年近くの人生の中で、あそこまで穏やかに過ごせた時間が、果たしてあっただろうか。アジャーニという大企業を先導し続けたアンジェロの日々は激動の嵐だった。

 総帥職を息子に譲り、これから悠々自適な生活を送るつもりだった彼は、その息子夫婦を事故で亡くした。唯一遺された孫を抱え、アンジェロは再び総帥の激務へとその老骨を投じたのだ。

 ルカリオがトップに立った頃には、すでにアンジェロは病魔によって倒れる寸前だった。それゆえに、マルセルはマリアが屋敷にくれた暖かで優しい時間に深い感謝を贈るのだ。

 彼女がルカリオの妻として、屋敷を取り仕切るようになってくれれば、きっとまたマルセルにとって往年の記憶以上の屋敷となるだろう。

 そう信じられた。

 だが、それが間違いであったと知るのは、すぐの事だった。


「――ルカリオ様。今、なんと」

「葬儀にはマリアは出席しない。あの女はもう帰国させた」

「なにを、仰っているのです。マリア様はルカリオ様の奥様ではありませんか」

「妻だと?」

 目の下に隈を作り疲労した顔のルカリオは、吐き捨てるように唇を曲げて、そう呟く。

「僕に妻など居ない」

 その言葉はマルセルにとって理解できない――自分の耳と頭がおかしくなったかと思わせる言葉だった。

「ジョシュア様とマリア様は」

「いいか、マルセル。僕には妻も子もいない」

 突きつけられた指先は、マルセルの胸元を貫くように押しつけられている。

「これ以上、僕を下らないことで煩わせるな! ただでさえお爺さまの葬儀で忙しいんだ!」

「で、ですが――!」

「うるさい! 良いからさっさと業者に手配を済ませろ!」

 かつてアンジェロが使っていた執務室から追い出されるように出てきたマルセルは、ルカリオの言葉が理解できないままに呆然としていた。


 妻も子もいない。彼はそう言っていた。だが、確かに居たはずだ。この一年近く、足繁く通い主を気遣ってくれた心優しい女性が。そして産まれたばかりの男の子が。

 祖父を亡くして錯乱しているのだろうか。そう思うほどに、ルカリオの言葉が理解できない。

 だがマルセルは、この時点で分かっていなかった。いや、分かるはずが無いだろう。ルカリオは確かにマリアを「妻」と紹介したのだから。それが全て偽りであったなどと、誰が分かるだろう。誰が想像するだろう。

「マルセルさん。あの、奥様は……?」

 他の使用人達も、この場にマリアがいない事を訝しく思い始めているようだった。そもそもマリアは屋敷を訪れれば誰彼ともなく親しげに話しかけていたし、実際、屋敷の使用人達からは好意的に受け入れられていたのだ。いつか、彼女が自分達の仕える『奥様』になるのだ、と。そう思っていたのだ。

 だというのに。

「……分かりません」

 マルセルは、ただそう呟く事しかできない。

「ともかく、まずは葬儀の準備を」

「は、はい」

 散らばる使用人達も不安げな顔を隠さない。

 なにかがおかしい。そう感じ取っているのだ。

 そもそも、あのマリアが、どれほどアンジェロの死に衝撃を受けているのだとしても、この屋敷にいないはずがない。そう思えるだけの繋がりが屋敷の使用人達とマリアの間にはあった。むしろ先陣を切って使用人達に指示を出してくれていただろう。

 だというのに、それがないのだ。

「……マリア様」

 どこか儚く、今にも消えてしまいそうな姿を思い浮かべる。

 満たされた笑みを浮かべた事は、ほとんどない。どこか寂しげに、いつもひっそりと微笑んでいた。アンジェロの冗談で笑う時、それが少しだけ彩りを増したのを覚えている。

 孫娘のような彼女を、マルセルは気に入っていた。いや、彼女を嫌っている人間など、この屋敷には居なかっただろう。

 だからこそ、皆が不審に思っている。仕事をこなしながら、ルカリオの様子を窺ってしまうのは、そのせいだ。

 ギクシャクした空気をそのままに、葬儀の準備だけが進んでいく。

 マルセルはそれでも、この空気も葬儀が終われば払拭できると、楽観視していた。

 それを後悔する日が来るなど、夢想だにせずに。



    ◆



「――我が偉大なる祖父、アンジェロ・アジャーニに最後の贈り物をしたいと思う」

 ルカリオは、葬儀に集まってくれた親類縁者や友人知人達を集めた広間で告げる。

「彼女――サンドラ・イルケ。彼女は僕と結婚する。祖父は生前、僕に結婚しろとせっついていた。きっと安堵してくれるだろうと思う」

 使用人達がギョッとした表情を必死で隠す。

 それはマルセル自身も同様だった。

 ルカリオが親しげにその腰に腕を回して抱き寄せた女性、サンドラ・イルケは艶然と微笑みルカリオに視線を向ける。

「ルカリオのお爺さまには、残念ながら生前お会いする機会はありませんでした。ですが、私とルカリオはもう数年来の付き合いです。……きっと、分かって頂けると思いますわ」

 集まった親族達は突然現れた総帥の妻となる女性に戸惑いながらも、拍手で迎え入れた。敏腕の総帥の唯一のネックが、その血を受け継ぐべき次代のアジャーニの不在である、と皆が理解していたからだ。

 だから、この発表は確かに喜ぶべきことだった。


 ――なにも知らなければ。


 マルセル達にとってみれば、なんの冗談だという気持ちだ。妻。奥様と呼ばれるべき女性は、すでにいる。マリア・アジャーニという美しく、優しく、そして誇るべき女性だ。

 だというのにルカリオの言葉は、そんなマリアの存在が無かったかのように語られる。


「ルカリオ様!」

 ようやく客のいなくなった屋敷で、マルセルが声を荒げて近づいてきても、ルカリオの機嫌の良さそうな表情は変わらなかった。

「なんだ」

「どういう事です! マリア様は一体どうなさったのですか!」

「マリアと僕は結婚はしていない」

「――は?」

「あの子供も、僕の子供ではない。あれはマリアがどこかの男との間に作った子供だ。ご丁寧に僕の子供だと偽ろうとしてくれたがね」

「……ルカリオ様?」

「そうとも。あの女は僕の恋人でありながら、違う男に股を開くような女だ。だからこそ、アジャーニの妻に相応しいはずがないだろう?」

 ククッと嗤うルカリオを、マルセルは呆然と見上げるしかできない。

「お爺さまを心安らかに逝かせるための役には立ったがね。だからもうあの女は用済みだ」

 踵を返したルカリオを呆然と見送り、マルセルは新しい主が告げた言葉を反芻する。


 マリアがルカリオを裏切った?

 違う男との間の子供?

 しかもそれをルカリオの子供と偽って結婚を迫る?


 馬鹿な。そんなこと、あるはずがない。

 否定は一瞬でなされた。

 マルセルの目から見ても、マリアのルカリオへの愛情に嘘などなかった。

 別の男との間に子供を作るなど――ましてや、その子供をルカリオとの子供だと偽ってアジャーニの花嫁に納まろうなどと、そんな人品の卑しい人間ではない。


 だがマルセルに出来る事は少ない。そもそも彼はマリアがかつてどこで暮らしていたかも知らないのだ。言葉の発音の癖で出身国の予想はつく。だが、それ以上ではない。連絡先も知らないのだから、これ以上彼女に向けて何かをする事も難しい。

 そしてそれ以上の面倒事が、マルセルには振ってかかったのだった。



    ◆



 サンドラが屋敷に現れたのは、葬儀が終わってすぐの事だった。

 彼女はすぐさま屋敷を自分の好みに改装したがった。

 重厚で歴史あるインテリアを好まず、流行物を好んだ。いっそ新築で自分好みの屋敷を建てろと思うほどに、それは繰り返された。

 いくつかはマルセルの権限で却下され、いくつかはルカリオにねだってゴリ押しされた。

 使用人にもサンドラの注文は多かった。

 少しでも気にくわなければクビにされたし、サンドラがルカリオに涙ながらに嘘八百で文句を訴えれば、例えマルセルが庇おうにも限界があった。

 かつてアジャーニが誇った屋敷は、少しずつ失われていった。

 だがルカリオはそれに気付く事はない。彼はそもそも屋敷にあまり居ないし、だからこそサンドラの横暴は目に余った。

 マルセルはここに至って、一つの決意をした。



「……なんだ。マルセル」

 久方ぶりに帰宅した主は、書類に視線を落としながら執事に問いかける。

 だからだろう。マルセルの決意した表情を、彼は見ていなかった。

「お屋敷を辞めさせていただきたいと思いまして」

 その言葉に、さすがにルカリオも驚いたのだろう。書類をめくる手を止め、顔を上げた。

「なぜだ」

「老骨には、これ以上仕事を続けるのは厳しくなりました。それに――お屋敷の時代はもう変わってしまいました」

「サンドラか」

「はい」

 首肯した執事に、ルカリオは厳しい視線を向ける。

 サンドラが原因であると認めるという事は、主に対する反抗とも受け取れたからだ。

「サンドラの何が気に入らない。最近、よく使用人が辞めている。それもお前の考えか?」

「……いいえ。確かに私が次の職場の紹介などはしましたが――辞める辞めないは、彼らの意思です」

「それで。辞めてお前はどうする」

「いい年です。隠居して孫達の面倒を見ようかと」

「……後任は」

「必要ありませんでしょう。奥様は執事のような者がいる事が、お気に召さないご様子ですし」

「……それは困る」

「正直に申し上げましょう。ルカリオ様」

 渋い顔をするルカリオ――息子や孫のようにも思っていた男に、視線を向ける。

「サンドラ様を、アジャーニ総帥の奥方として、私は認めることができません。ですが事実として今、サンドラ様はその座に就かれていらっしゃいます」

 ですから辞めさせていただくのです、と続けたマルセルを、ルカリオは呆然と見つめていた。

 これまでマルセルは、決してサンドラを否定してはこなかった。苦言を呈す事はあっても、認めないとまで言ったことは無かったのだ。

 これはつまり、明確なまでの主への反抗。

 だからこそ、マルセルは辞意を表していたのだった。

 古参の使用人たちのほとんどは、マルセルと同じ意見を持っていた。だからこそ屋敷を辞めていた。マルセルが知己を頼って、別の屋敷へ紹介したり、別の職に就いた者も多い。

 マルセルが最後だった。だからこそ、今日この場で告げるのだ。

「最後の苦言を申し上げさせていただきます。ルカリオ様。……あなたはマリア様を信じるべきでした」

「――ふざけるな!」

 激昂したルカリオは、傍にあった灰皿をマルセルへと向けて投げつけた。

 鈍い音を立てて床に転がる灰皿。マルセルは自分の肩が鈍く痛むのを無視して、こちらを睨み付けるルカリオに視線を向ける。

「もう良い。貴様がそうまで言うならば、職は今日この場で解く! どこへなりとも行くが良い! だが退職金などもらえると思うなよ!」

「もとより、頂けるとは思ってはおりません。では失礼いたします。……長きにわたってお世話になりました」

 深々と一礼し、マルセルは執務室を辞す。

 荷物はすでにまとめてあった。ルカリオが怒ることも、解雇されることも予想のうちだった。

 だからこそ、マルセルは嘆息しながら振り返って屋敷を見渡す。この屋敷は、マルセルにとっても多くの思い出が満ちた場所だった。十代の小僧の頃から下働きを始め、そして執事として勤め上げたのだ。その時間は、50年ほどにもなるだろう。

 その多くを共にすごしたアンジェロを失ってから、もう辞めるつもりではあったのだ。

 マリアがもしもいたならば、もっと安心して辞めることもできただろう。次代を担う執事にその座を譲ることもできただろう。

 だが目をかけていた執事は別の屋敷に移った。マルセルが持たせた紹介状には、その程度の信用度はあった。長年勤めた使用人達や、彼らに育てられた使用人たちもほとんどは別の屋敷へと移った。

 今、この屋敷にはほとんど古参の使用人は残っていない。だがサンドラはそれを不便になど思わないだろう。彼女は使用人など、金にあかせてかき集めればいいと思っているのだから。


 唯一つ、心残りがあるとするならば。マリアの居所を未だつかめないことだろう。

 どうか母子共に無事であって欲しいと願いながら、マルセルは彼女を探していた。探偵を雇い、彼女の足取りを追ってもらっていたのだ。だが他国での足取りを追うとなれば、極端に難しくなる。

 マルセルは、もう一度屋敷を見回す。

 だが、それだけだ。もうこの屋敷に、マルセルを引き止めるものは何も無い。

 彼は静かに屋敷を辞す。

 そして二度と帰ってはこなかった。









 マルセル・ロフラ。

 かつてアンジェロ・アジャーニの深い信任を得ていた老執事は、息子夫婦の住む町に隠居した。

 アジャーニを辞めた彼を執事として迎え入れたい、という誘いはいくつもあったが、彼はいずれも固辞した。その理由を問われ「守るべき方を守れなかった」と答えたマルセルの表情は、深い悔恨を示していたという。



end


完結後に「アンジェロの家の使用人達はどうしたのか」というご指摘をいただいていたのですが、こういった事情を当初から考えていました。

なんとなく、指が動いたので外伝という形にて公開いたします。

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