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1. 大聖女様は、今夜も何も覚えていない

 夜。オルセン侯爵家の武具蔵――――。


 棚には、手入れ用の砥石がきっちり積まれている。どれも上等だ。侯爵は刀を抜かない。だから、今日まで一つも減っていない。


 黒い外套の女が、いちばん上の一つをするりと抜き取る。


「いっただきぃ」


 きゃはは、と声が高く弾む。


 窓から屋根へ出たとたん、風がフードをさらう。月の下へ金の髪がこぼれ、女は笑いながら片手で押し戻す。


 屋根の縁では、白く丸い獣が大欠伸をしている。


「頑張るねぇ……。はらへったんだけど?」


「あとでね」


       ◇


 その朝、神殿――――。


 朝の光が、白い石の床を金色に滑っていく。


 ノヴァル王国の大聖女アニエスは祭壇の前で膝を折り、王都の結界を張り直す。かざした指先に淡い光が灯る。神官が水盤を運んでくる。〈浄めの儀〉である。神殿で毎朝行う、当たり前の儀式だ。


 水がひたいを伝い、顎から落ちる。ひやりと冷たい。目を開けば、世界はいつもどおり澄んでいる。


 鏡の前へ移ると、侍女のハンナが櫛を手に待っている。


「おはようございます。今朝もお早いですねえ」


「おはよう、ハンナ」


「井戸端で聞いたんですけどね?」


「はぁ?」


 ハンナは主人の髪を三つに分けながら、弾んだ声で切り出す。この娘は、黙って手を動かせない。手と口が、ぴたりと同じ速さで動く。


「ゆうべ、オルセン侯爵さまとこの武具蔵が破られたそうですよ」


「まあ」


「盗られたのが、砥石ひとつだけだそうで」


「砥石?」


 鏡越しに、ハンナが大きく頷く。編む手は止まらない。


「それとですね、これは別の話なんですけど」


「別の話」


「研ぎ屋のじいさまが、見たこともない上等な砥石を使い始めたって。あの人、ずうっとおんなじ石でしたのに」


「……え? それは……」


 アニエスは目を伏せ、そっと声を整える。


「どこで手に入れたんか、いくら訊いても言わんのですよ。ただ、お礼に研ぎ上げたばかりの小刀を一本、誰かに渡したらしいんです」


「どなたに?」


「それも言わんのです。あたし、思うんですけど」


「なあに」


 ハンナが櫛を持ち替える。鏡の中で、声だけがひそやかになる。


「きっと、屋根の上の人ですよね」


「屋根の……上?」


「お上に知れたら取り上げられますけえ。内緒ですよ」


「……まあ、大変ですね」


 アニエスは鏡の中で、ただ小さく首をかしげる。


       ◇


 昼には、〈願いの帳〉の前に長い列が伸びていた。


 これは祈りの順番を待つ帳だ。神殿にできるのは祈ることだけで、薬も金も出せない。アニエスは並ぶ人の名前と顔を、一人ずつ胸に刻む。それだけが、彼女の得意なことだ。


 列のいちばん後ろで、痩せた娘が肩をすぼめている。


「あの、大聖女さま」


「はい」


「母が、その、薬が」


 娘の手は、袖の裾をぎゅっと握っている。布まで絞りそうな強さだ。


「お薬の名は、ご存じですか」


「……いえ。高いものだとしか」


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「……リーゼと申します。オルセン侯爵さまのお屋敷で、下働きを」


 帳をめくる。薄い紙が鳴る。リーゼの順番は、まだずっと先だった。


「順番が来ましたら、必ずお祈りします」


「……はい。ありがとうございます」


 娘は深く頭を下げ、列を離れていく。細い背中が人波に沈む。


 祈っても、薬代にはならない。


 ほんとうは、いますぐ銀貨をその手に握らせてあげたい。


 アニエスはその言葉を、深く飲み込む。


       ◇


 その日の夕暮れ――――。


 見回りは、護衛騎士ライナルトの日課だ。


 六年、彼は日中はアニエスの三歩後ろを歩いてきた。三歩より近づかず、三歩より離れない。国でいちばん真面目な男だと、部下たちは言う。本人に自覚はない。決めたことを、ただ守り続けている。


 貴族街を回ると、オルセン侯爵が門前で待ち構えている。腕を組み、胸を張り、いかにも待ち構えている。


「騎士どの。見たまえ、これを」


「……錠前ですか」


「三つだ。どの蔵にも三つに増やした。ゆうべの今日で、もう入れまい」


「蔵の壁は、前のままですな」


「壁は関係ない。賊は扉から入るものだ」


 侯爵は胸を張る。錠が三つ、朝日みたいにきらきら光る。


「窓は」


「窓?」


 侯爵が首をひねり、自分の蔵を仰ぐ。二階に、四角く切り取られた明るさが一つ。


「開いておるのでは?」


「……あとで閉める」


「いま閉めては」


「……あとでだ」


 侯爵がまた胸を張る。ライナルトは黙って窓を見上げた。


       ◇


 その夜――――。


 オルセン侯爵家の蔵の屋根に、白い獣がぽつんと座っている。


 聖獣ムギである。丸くて、白くて、腹は空っぽだ。


 下では、黒い外套の女が錠前を指先で弾いている。ひとつ。ふたつ。みっつ。順に鳴らし、女は肩を揺らす。


「三つも増やして。ばかねえ」


 女は錠を無視する。壁の樋を伝って二階へ上がり、開いたままの窓から中へ滑り込む。


 こちらは奉納金を納めた蔵である。棚には、袋がずらりと並ぶ。女は端から二番目へ手を伸ばす。いちばん重いやつだ。


「いっただきぃ」


 きゃはは、と声が高い天井に跳ねる。袋を抱えて窓枠に足をかけ、女は夜風の中、屋根へ躍り出る。


「ねぇ、はらへった」


 ムギは不満げにねだる。


「あとでね」


「あとでっていつだ」


「朝」


「あさ」


       ◇


 その、すぐあと――――。


 鐘が鳴るより早く、ライナルトは同じ蔵の屋根へ上がっていた。


 窓の下に足跡が残る。まだ新しい。


「くっ! 賊めぇ!」


 走る。追いつく。腕を伸ばす。


 指が布に触れた瞬間、視界が闇に塞がれる。どこに巻いていたのか、細いマントを一枚、頭からかぶせられた。


「ぐわぁ!」


「捕まえたいなら、もっと上手にどうぞ」


 急いでマントを払いのけたが――――屋根にはもう誰もいない。星だけが冷たく瞬く。


「——今夜は、ここまで。」


 声だけが、下の暗い路地から響いた。


       ◇


 夜更け、下町の外れ――――。


 細い戸口の前に、黒い外套が立っている。屋根の縁では、白い獣が前足を揃えて見下ろしていた。


 女が拳で二度叩くと、痩せた娘がそっと顔を出す。


「あの、どなた」


「手を出しな」


「え」


 女は娘の両手へ袋を押しつける。娘の腕が、重みにずしりと沈む。


「これで薬を買え。朝いちばんに、薬屋へ行くの」


「え、あの、これ、え」


「聞いてる? 朝いちばん」


「……っ、なんで、なんでこんな」


 娘はその場に崩れ、袋を抱えたまま声を上げて泣きだす。女は最後まで動かずに見ている。腕を組んだまま。


「タダではやらない。おまえの持ち物で、いちばんいいものを、一つ出せ」


「え?」


「一つだ。いちばんいいもの」


 娘はしゃくり上げながら、髪から櫛を抜く。歯が二本、欠けている。


「これしか、ありません」


「それでいい」


 女はそれをそっと懐へしまう。


 明け方、神殿の裏口へ金髪の女が消えていく。ムギは屋根から眺めている。


 女は部屋へ戻ると外套を脱ぎ、鏡台をずらす。裏には小さな箱が隠れていて――欠けた櫛を、そっと納める。


 箱の中には、小刀が一本だけ収まっている。


「おまえ、ふえたな」


「……」


「ふえたら、ムギにもなんかくれ」


 女は答えない。頭がこくりと落ちる。


       ◇


 翌朝、神殿――――。


 目が覚めると、髪がほどけたままだ。


 なぜか体が重い。アニエスは首をかしげ、朝の務めへ向かう。結界を張り直し、〈浄めの儀〉を受け、鏡の前に座る。


「おはようございます。……あら、ほどけとる」


「そうなの。寝相が悪いのかしら」


「大聖女さまが寝相て」


「わたしにも寝相くらいございます」


「ございましょうねえ」


 ハンナが手早く髪を結い直し、また昨夜の話を始める。この娘の口から出るのは、いつも昨夜の話ばかりだ。


「ゆうべも出たそうですよ。オルセン侯爵さまとこから」


「まあ」


「下働きの娘さんが、欠けた櫛を渡したそうです。……内緒ですよ」


「……まあ、大変ですね」


 廊下には、ライナルトが立っている。目の下が黒い。


「昨夜はお勤め、ご苦労さまでした」


「……職務です」


 彼はいつもの一拍を置き、そう答える。アニエスは穏やかに微笑み、三歩先を歩き出す。


       ◇


 同じ朝、騎士団の詰所――――。


 その日の報告書へ、ライナルトは硬い字でこう記す。


「一件目。賊は屋根伝いに逃走。人相不明」


 筆を置き、彼はほんの少しだけ考える。


 どこかで見た気がする。けれど、どこだったのかは思い出せない。

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