2. 罠は、白いのに教わって避けるものである
その日の昼、騎士団の詰所――――。
ライナルトは机いっぱいに王都の図を広げ、屋根の並びへ次々と印を打つ。手つきには迷いがない。
「この二軒のあいだが狭い。ここに縄を張る」
「はあ」
「上から三人。下に二人」
「はぁ、完璧ですね」
「完璧だ」
副長のギードが、妙に熱心に覗き込む。他の隊員も肩越しに首を伸ばし、息がかかるほど近い。全員、図ではなく隊長の顔を見ていた。
「隊長。その縄、何時に張ります」
「日が落ちてすぐだ」
「ふむ。三対一で隊長が負けです」
「何の話だ」
「こっちの話です」
ギードが帳面をぱたんと閉じ、口笛を吹きながら消える。
残された隊員たちは、縄の束を抱えて顔を見合わせる。
「隊長。ゆうべの縄、まだ屋根に残ってます」
「回収しろ」
「それが、外そうとしたやつが自分で引っかかって、逆さに吊られまして」
「降ろせ」
隊員は口をへの字にして、指を二本立てる。
「降ろそうとしたやつも引っかかりまして」
「……何人だ」
「今のところ、二人です」
ライナルトは何も言わない。窓の外、屋根の上には足が四本。風に吹かれ、ゆらゆらと仲よく揺れていた。
◇
同じ日の昼、神殿の裏庭――――。
洗濯女が盥の縁を撫でる。木は、きれいに真っ二つに割れている。
「これでは、もう水が張れませんで」
割れ目へ指を入れると、向こうの土まで見える。
「新しいものは」
「店で見ましたけど、あたしのひと冬ぶんですわ」
「……」
「いえ、愚痴です。忘れてくださいまし」
アニエスは帳に手を置く。祈りの欄は、もう端まで埋まっている。
「忘れません」
「え」
「覚えます。お顔も、お名前も」
帳をめくる。洗濯女の順番は、まだ、ずっと先にある。
「順番が来ましたら、必ずお祈りします」
「……はい。ありがとうございます」
洗濯女はぽかんと目を丸くし、それから頬をゆるめて帰っていく。
名前を覚えても、盥の割れ目はふさがらない。神殿にできるのは、祈ることだけだ。
ほんとうは、いますぐ買ってあげたい。
アニエスはその言葉を、そっと飲み込む。一人だけ特別待遇はとてもできない。
◇
その夜、下町の屋根――――。
縄は隙なく張られている。三人が屋根に伏せ、二人が路地で息を殺す。
ところが黒い外套は、手前の屋根から大きく回り込んでいく。
白い獣がその先で待ち、干し肉を一枚くわえている。
「あっち、ひとがいる」
「ありがとちゃん」
「にく」
「もうあげたでしょ!」
白い獣がころんと仰向けになり、腹を見せる。そのまま前足で、ぽこぽこと自分の腹を叩いてみせる。
「もういっこ!」
「ふぅ、明日ね」
「あした、にまい」
「……上がってる」
女は金物問屋の蔵の窓をそっと押し開ける。
中には同じ盥が、天井までぎっしり積まれている。奥は埃をかぶり、動かされた跡もない。その厚みが、置き去りにされた長さを語っていた。
「こんなに持ってて、なんで一つ売れないんだか」
「まぁいいわ。いっただきぃ」
きゃはは、と高い声が弾む。女は盥を頭に載せ、月明かりの庇を駆けていく。
◇
「あっ! あいつだ!」
ライナルトは縄を放り出し、追いかける。盥が邪魔で、相手の足は遅い。頭に載せた大きな丸が、屋根の上をぴょこぴょこ跳ねる。それでも距離は、なぜか縮まらない。
細い路地の突き当たりで、ついに追い詰める。
「そこまでだ」
「あら」
「盥を置け!」
「やーだね。置いたら、あの人が困るの」
女は盥を抱え直す。足は止めたまま、口元だけを、くいと持ち上げる。
「窃盗は犯罪だ!」
「そんなの知ってるわよ。バカなの?」
「し、知っていて盗るのか」
彼は言葉に詰まる。筋が通る気がして、やはり通っていない。
「はっ! 知らないで盗るほうが、たちが悪いでしょ」
「まぁいい。詰所まで来てもらおう」
彼が一歩踏み込む。
しかし、フードの中の目は笑っている。
そのとき、耳のすぐ後ろで声がした。
「後ろだよ」
「なにっ!?」
慌てて振り向くが――――夜風だけだ。
向き直ったときには、盥も黒い外套も消えていた。
「——今夜は、ここまで」
どこかで声が響いた。
◇
夜更け、川手の長屋――――。
戸の隙間から、細い灯りが漏れている。中はまだ起きているらしい。庇の上では、白いのが大欠伸をする。
「開けな」
「え、どちらさ……ま」
「どっこいしょっ! とぉ……」
女は盥を土間に置き、洗濯女の両手をその縁へ載せる。
「これで仕事に戻りな」
「……あの」
「明日から張れる。もう割れてない」
洗濯女が盥の底を指の腹でなぞる。新しい木が白く光る。
「あの、うち、お金は」
「いらない」
「そんな、あの、だって」
「腕が二本あるんだから、使いな」
洗濯女はその場にへたり込み、震える膝を抱える。手だけが、何度も盥の縁を撫でつづける。こぼれた涙が、木の底で小さな音を立てる。
「タダではやらない。おまえの持ち物で、いちばんいいものを、一つ出せ」
「……あたしのなんか」
「一つだ。いちばんいいもの」
洗濯女が奥から差し出したのは、洗い上げた真っ白な布だった。染み一つなく、灯りを返す。
「これしか、ありません」
「それでいい」
女は満足そうにうなずいた。
◇
翌朝、神殿――――。
神官が澄んだ水盤を運んでくる。アニエスは目を閉じ、〈浄めの儀〉を受ける。
アニエスは目を開け、一度だけこてんと首をかしげる。
「……いえ。なんでもありません」
鏡の前に座ると、ハンナが櫛を手に待っている。
「あのですね、これは内緒の話なんですけど」
「なあに」
「洗濯女さんとこに、真っ新な盥があるそうですよ。どこで手に入れたか言わんそうで」
「まあ」
ハンナが櫛を持ち替え、鏡越しに声をひそめる。
「ほんで、洗い上げた真っ白な布を一枚、誰かに渡したそうですけえ。……内緒ですよ」
「……まあ、大変ですね」
廊下へ出ると、朝の光の中にライナルトが立っていた。手には縄を握ったままだ。
「昨夜はお勤め、ご苦労さまでした」
「……見回りです」
彼が一拍置いて、そう答える。
◇
同じ朝、騎士団の詰所――――。
ライナルトが報告書に一行だけ書く。
「二件目。罠は回避された。内通を疑う」
筆先が止まる。窓の外では、足がまだ揺れている。
「ギード」
「はい」
「団の中に、賊と通じている者がいると思うか」
ギードが即答する。考える間もない。
「いませんね」
「なぜ言い切れる」
「うちの連中、そんな器用じゃないです」
ライナルトは報告書をぱたりと伏せる。
ギードは正しい。バラしているのは白くて、丸くて、今も腹を空かせている。




