【第9話】 小さな帰り道
朝の風待ち小屋には、乾いた油紙のかすかな匂いと、削った木の香りが残っていた。
ユウトは作業机の上に三つの防水袋を並べ、木札の形を指先で確かめた。丸い札、角を一つ落とした札、二つ落とした札。それぞれを地図に描かれた記号と照らし合わせ、配達する順番に、改良した配達鞄へ収めていく。
最初の袋を入れ、内部の紐仕切りへ沿わせる。二つ目はその隣。三つ目を差し込んだところで、木札の端が仕切りの紐に軽く引っかかった。
「ここですね」
向かいで地図帳を開いていたリーネが、身を乗り出した。
「札の向きが逆だと、取り出すときに紐へ当たります」
「全部、印を外側へ向けたほうがよさそうです」
ユウトは袋を一度すべて出し、入れ直した。鞄の口を片手で開き、丸い札の袋だけを引き上げる。今度は引っかからない。
肩へ掛けて二、三歩歩くと、底に入れた二本の桟が中身を支え、袋同士が重ならずに済んだ。ただ、以前よりわずかに木枠の重みがある。紐を強く締めすぎると肩へ食い込むため、指二本ぶん緩め、結び目を作り直した。
「長く歩くなら、そのくらいがよさそうですね」
「はい。ただ、途中で緩むかもしれません。今日は出る前に、もう一度確かめます」
「地図の印も、鞄を開いた向きに合わせておきます。上下が逆だと、急いでいるときに迷いそうなので」
リーネは地図の余白へ小さな鞄の形を描き、その横に丸と二本線と三角を並べた。
机の端では、風羽リスが前脚をそろえ、落ち着きなくこちらを見ていた。
正確には、ユウトたちではない。
三つの防水袋の脇に置かれた、小さな包みを見ている。
中身は予備の紐と、配達先で封を結び直すための薄い布片だけだ。油紙で覆うほどでもないため、布で軽く巻き、紐を一周させてある。手のひらに収まる程度で、持ち上げてもほとんど重さを感じない。
風羽リスは包みを見つめ、鼻先を動かした。昨日、空の油紙袋へ潜り込んでいたときと同じように、興味はあるらしい。だが、近づこうとすると耳を伏せるため、ユウトは手を伸ばさなかった。
「また紐が気になるみたいですね」
「動くものなら、何でも気になるのかもしれません」
ユウトは配達鞄を机へ戻し、肩紐の結び目をほどいた。紐の端が木枠へ触れていたため、擦れない位置へずらして結び直す。
そのわずかな間だった。
机の上で、布がこすれる音がした。
顔を上げると、風羽リスが小さな包みをくわえていた。
「小さいの」
呼びかけたときには、薄い羽が一度だけ震えていた。
風羽リスは包みを引きずるように机の端まで運び、そのまま床へ飛び降りた。包みの重さに身体が傾き、着地した拍子に前脚が滑る。それでも離さず、開いた戸口へ向かって走った。
ユウトは反射的に立ち上がった。
椅子の脚が床を鳴らす。
風羽リスの背中の羽が膨らみ、動きが一瞬止まった。
ここで駆け寄れば、怖がって包みを落とすかもしれない。あるいは、そのまま敷地の外へ逃げてしまう。
ユウトは戸口へ向かいかけた足を止めた。
「追わないんですか?」
リーネも立ち上がったが、声は抑えていた。
「近づいたら、余計に逃げるかもしれません」
戸口の外では、風羽リスが包みをくわえ直していた。こちらを振り返り、耳を立てる。ユウトが動かないと分かると、草の低い場所を選ぶようにして、小屋の壁沿いへ走り出した。
遠くへ向かう足取りではなかった。
それでも、仕事に使うものを持ち出されたことに変わりはなく、自分の手から離れている感覚に、胸の奥が落ち着かない。中身が予備紐と布片だと分かっていても、放っておくわけにはいかなかった。
「姿が見えるうちは、待ちます」
ユウトはゆっくりと戸口へ進み、敷居の内側で腰を落とした。
リーネは地図帳を抱えたまま、その隣に立った。
「壁際を通っていますね。草が短いところばかりです」
風羽リスは石壁の根元を走り、馬屋跡だった物置の陰へ入り込んだ。姿は見えなくなったが、草先がかすかに揺れている。
ユウトは風路読みでその動きを追った。
乾きかけた土に、小さな足跡が残っている。深さは浅く、乱れてはいない。慌てて逃げているというより、身を隠せる場所を選びながら進んでいるようだった。
だが、風路読みだけで決めつけるわけにはいかない。
ユウトは物置跡へ近づかず、耳を澄ませた。包みを引きずる乾いた音が一度し、その後、石の向こうから小さな鼻先が現れた。
「あそこです」
リーネが声を落とした。
彼女は地図帳の余白へ、風待ち小屋の簡単な形を描き始めた。壁、物置跡、井戸。風羽リスが通った場所を、細い線でつないでいく。
「敷地の外へ向かう道じゃないですね」
「はい。外の草は背が高い。あの小さい身体なら、見通しのいいところを選んでいるのかもしれません」
「壁をたどれば、小屋を見失いにくいですし」
風羽リスは物置跡から出ると、今度は井戸の石積みへ向かった。包みをくわえたまま、地面すれすれを走る。途中で布の端を踏み、前のめりに転びかけたが、すぐに起き上がった。
その姿に、ユウトの足が半歩だけ前へ出る。
しかし風羽リスは包みを離していない。
助けるために近づいたとしても、その意図が伝わるとは限らない。
「大丈夫、まだ間に合う」
誰に聞かせるでもなく、ユウトは呟いた。
井戸の陰へ入った直後、谷を抜ける風が急に強くなった。
白樺の葉が一斉に裏返り、小屋の軒下で吊るしていた乾燥布がはためく。風羽リスはびくりと身を縮めた。背中の羽を大きく膨らませ、包みの上へかがみ込む。
白い首元の毛が風に揺れた。
逃げるでもなく、包みを前脚の下に押さえている。
ユウトは息を詰めた。
風が弱まるまで、風羽リスはその姿勢を崩さなかった。やがて耳を動かし、周囲を確かめるように顔を上げる。それから包みの紐をくわえ直した。
「戻ってきます」
リーネの声に、ユウトは目を凝らした。
風羽リスは井戸からまっすぐ小屋へ来たわけではなかった。一度壁際へ戻り、先ほど通った草の低い場所を逆にたどっている。
物置跡の角で立ち止まり、こちらを見る。
ユウトは動かなかった。
リーネも地図帳へ炭筆を当てたまま、手を止めている。
風羽リスは短く「きゅ」と鳴き、包みを引きずりながら戸口の前まで戻ってきた。
敷居を越えることはせず、陽の当たる石の上へ包みを置く。その上へ前脚を乗せ、身体を低くした。耳は立っているが、いつでも逃げられるように後ろ足へ力が入っている。
ユウトは戸口の内側で腰を落とした。
手は膝の上に置いたままにする。
「戻ってきたんだな」
風羽リスの耳が、わずかにこちらへ向いた。
「よく守ったな、小さいの」
言葉の意味を理解したかは分からない。ただ、声の調子には反応したらしい。膨らんでいた羽が少しずつ元へ戻っていく。
ユウトは包みへ手を伸ばさなかった。
風羽リスはしばらく前脚を置いたままだったが、やがて鼻先を紐から離した。石の上を二歩下がり、それでも逃げずにユウトを見ている。
「取るぞ」
ゆっくり手を伸ばし、包みを持ち上げる。
布に土は付いていたが、紐はほどけていない。中の予備紐も濡れていなかった。
ユウトが包みを胸元へ置くと、風羽リスは小さく喉を鳴らした。褒められたことが分かったのか、包みが無事だったことに安心したのかは分からない。けれど、少なくとも取り上げられたことに怯えて逃げる様子はなかった。
「小屋の周りを回って戻ったみたいですね」
リーネが地図帳を見せた。
簡単に描かれた風待ち小屋の周囲に、細い線が巡っている。壁際から物置跡へ、そこから井戸へ。そして同じ場所をたどり、戸口へ戻る線。
「この子にとっては、壁と井戸と戸口が目印なのかもしれません。人の地図とは違いますけど、帰る道としては分かりやすいです」
「敷地の外へ出なかったのも、そのせいでしょうか」
「そうかもしれません。でも、一度だけでは決められませんね」
リーネは井戸の印を少し濃くし、戸口の前に小さな四角を加えた。
「それ、地図に残したいです。小さな生き物にも見分けやすい場所として」
「配達路とは別の記録になりそうですね」
「道は、人だけが使うものじゃありませんから」
風羽リスは二人の会話を聞くように首を傾げていたが、やがて小屋の中へ入った。机の下を通り、暖炉の横に置かれた乾いた布の寝床へ潜り込む。
ユウトは汚れた包み布をほどき、予備紐を元の場所へ戻した。包みを持ち出したことを叱るべきか少し迷ったが、そもそも手の届く場所へ置いていたのは自分だ。風羽リスが仕事として運んだとも限らない。ただ紐や布に興味を持ち、くわえて走っただけかもしれない。
それでも、遠くへ逃げずに戻ってきた。
包みを途中で捨てず、風が吹いたときには身体で押さえていた。
ユウトは余っていた薄い布を小さく切り、紐を通した。何かを入れるためというより、重さをほとんど持たせず、くわえても引きずりにくい大きさを確かめるためのものだった。
「小さな包み用の練習袋ですか?」
「はい。ただ、今日は使わせません」
ユウトは練習袋を机の端ではなく、風羽リスから少し離れた棚へ置いた。
「まだ、運んでくれたのか、持って遊んだのかも分かりませんから」
「急がないんですね」
「怖がらせてまで覚えさせることではないので」
寝床の布が少し動き、白い毛だけが覗いた。
ユウトはその様子を見ながら、棚に置かれた小さな練習袋へ目を戻した。
いつまでも小さいのと呼ぶのも、少し違う気がしてきた。
けれど、名前は呼びやすいだけで決めるものではない。少なくとも、今この場で急いで付ける理由はなかった。
リーネは何も尋ねず、地図帳へ最後の線を加えた。戸口から寝床までではなく、風待ち小屋の外を巡り、再び入口へ戻る小さな道だった。
壁際には、乾かした木枠と点検を終えた紐が並んでいる。傾いた仕分け棚はまだ直っておらず、道標修理も残ったままだ。
それでも、風待ち小屋の周りには、昨日までなかった帰り道が一つ増えていた。




