【第10話】 名前のある小さな助手
朝の風待ち小屋には、昨夜の火が残した木灰の匂いと、窓から差し込む冷たい風が混じっていた。
ユウトは作業机の上に、小さな包み用の練習袋を置いていた。余り布を折って作った袋は、風羽リスがくわえても引きずりにくい大きさにしてある。口へ通した細い紐を指で引き、結び目が固すぎないかを確かめる。
「少し長いでしょうか」
地図帳へ前日の経路を書き写していたリーネが、机越しに袋を覗き込んだ。
「今のままだと、走ったときに前脚へ絡むかもしれませんね。持つなら、ここの輪だけで十分だと思います」
「やっぱり切ったほうがよさそうですね」
ユウトは紐の余りを測り、すぐには切らずに端を折り返した。実際に使わせてもいない段階で形を決めすぎるのは早い。まずは近くへ置き、興味を示すかどうかを見るつもりだった。
机の反対側では、風羽リスが前脚をそろえて座っている。
昨日、小屋の周りを回って戻ってきたときよりも毛は落ち着き、白い首元もよく乾いていた。それでもユウトが練習袋へ触れるたび、耳と薄い羽が同時に動く。
「気になっているみたいです」
「袋より紐かもしれません」
リーネの地図帳には、風待ち小屋の壁、物置跡、井戸、戸口が簡単な線で結ばれていた。人の歩く配達路とは別に、小さな生き物が身を隠しながら戻れる道として、目印の形まで書き加えられている。
「井戸は丸、戸口は四角。壁際は長い線で描いておきます。これなら見返したときにも分かりやすいですね」
「風羽リスが地図を見るわけではありませんけど、俺たちが動きを確かめるには役立ちそうです」
「それ、地図に残したいって思ったんです。人がどこを歩くかだけじゃなくて、この子が何を目印にしているかも」
リーネはそう言って、地図鞄から細い定規と紐巻きを取り出した。
その拍子に、小さな紐束が机の端から落ちた。
乾いた床へ、かすかな音を立てて転がる。
風羽リスの耳がぴんと立った。
ユウトが拾うより先に、小さな身体が机から飛び降りた。羽を一度だけ広げ、床すれすれに滑る。紐束へ鼻先を寄せると、輪になった部分をくわえ、そのまま戸口へ向かって走り出した。
「また持っていきましたね」
リーネが声を抑える。
ユウトは椅子から立ったが、前日のように追いかけなかった。
風羽リスは敷居の前で一度振り返る。ユウトが動かないと分かると、紐束を引きずりながら外へ出た。
「こっちだ、小さいの」
低く、急かさない声で呼ぶ。
風羽リスは立ち止まり、片方の耳だけをこちらへ向けた。
言葉が分かったのか、声に反応しただけなのかは判断できない。それでも、昨日より逃げ方が慌ただしくない。
風羽リスは壁沿いを走り、井戸の石積みの陰へ隠れた。紐の端だけが石の脇から見えている。
ユウトは戸口の内側に腰を落とした。
「無理に戻さなくてもいいんですよね」
「はい。持っていったなら、離すまで待ちます」
「昨日と同じ場所を選びましたね」
リーネは地図帳を抱えたまま、ユウトの少し後ろへ立った。
風羽リスの鼻先が、井戸の陰から覗く。
ユウトを見る。次に戸口を見る。それから紐束をくわえ直し、石積みの周りを半分だけ回った。
「こっちだ」
もう一度、手招きはせずに声だけをかける。
風羽リスは耳を震わせた。
しばらく迷うように地面の匂いを嗅いでいたが、やがて昨日たどった壁際の道へ戻った。草の低い場所を選び、紐束を引きずりながら小屋へ近づいてくる。
敷居の前で止まり、今度は外へ逃げなかった。
ユウトの足元まで歩いてくると、紐束を床へ置く。その上に前脚を乗せ、顔を上げた。
「持ってきたんですかね」
「分かりません。ただ、俺のところへ戻ってきたのは確かです」
ユウトはすぐに紐束を取らず、風羽リスと同じ高さまで腰を落とした。
名前を付けることを、昨夜から何度も考えていた。
呼びやすくするためだけなら、もっと早く決められた。だが名前を付ければ、この小さな命を風待ち小屋にいる一匹として認めることになる。仕事を手伝うときだけ呼び、怖がれば役に立たないと片づけるような扱いはできない。
ここへ帰り、ここで眠り、二人の作業を眺めている。
それなら、役目より先に居場所を認めるべきだった。
風羽リスが小さく跳ねた。紐束から前脚を外し、喉の奥で「ぽるる」と鳴く。
ユウトはその音を聞き、わずかに目を細めた。
「ポルカ」
風羽リスの耳が動いた。
「お前の名前だ。ポルカ」
薄い羽が細かく震える。
名前を理解したとは限らない。けれど、ユウトの声を確かめるように鼻先を上げ、それから一歩、こちらへ近づいた。
ユウトは手のひらを床へ置いた。
ポルカは触れずにその横まで来ると、紐束を押すようにしてユウトの指先へ寄せた。
「よく持ってきたな、ポルカ」
静かに褒めると、ポルカは白い胸元を張った。背中の羽まで少し持ち上がり、得意げに見える。
リーネが口元をほころばせた。
「ポルカ。いい名前ですね」
呼ばれたポルカは、今度はリーネのほうへ顔を向けた。
「私のことも覚えてね、ポルカ」
リーネが地図帳を床へ広げると、ポルカは紐束を残して紙の上へ乗った。昨日描いた井戸の印を踏み、端まで歩いていく。
「あ、そこはまだ乾いて――」
言いかけたリーネは、ポルカが地図の端へ前脚を置いたのを見て止まった。
窓から入った風で浮きかけていた紙が、その小さな重みで押さえられている。
「それなら、そこにいてくれますか」
ポルカは地図の上で首を傾げた。
「地図の端を押さえる係です。動かなくていいですよ」
言葉を理解した様子はなかったが、紙の感触が気に入ったのか、その場へ座り込んだ。
「小さな助手ですね」
「まだ助手見習いくらいです」
ユウトが答えた直後、外で大きな音が鳴った。
壁際に立てかけていた木板が、風に押されて倒れた音だった。
ポルカの身体が跳ねる。羽を膨らませ、地図を蹴るようにして走り出すと、リーネの地図鞄の陰へ潜り込んだ。
白い尻尾の先だけが、鞄の横から見えている。
ユウトは外へ木板を直しに行こうとしたが、すぐには立たなかった。
「大丈夫だ、ポルカ」
鞄へ手を伸ばさず、少し離れた場所から声をかける。
リーネも地図帳を静かに畳んだ。
「まだ大きな音は怖いですよね」
「今日はここまでにしましょう。紐を持ってきただけでも十分です」
しばらくすると、鞄の陰から片耳が現れた。ポルカは周囲を確かめ、ユウトたちが追い出そうとしていないと分かると、ようやく鼻先を出した。
昼前、三人は風見鶏亭へ向かった。
ポルカは外へ出ると一度戸口を振り返り、すぐには離れようとしなかった。そのためユウトは歩みを急がず、小屋の周りを確かめる時間を待った。道中も長く歩かせず、怖がったときにリーネの地図鞄の近くへ逃げ込めるよう、二人から離れすぎない距離を保った。
風見鶏亭では、セラが鍋をかき混ぜながら三人を迎えた。
「まず食べな。朝から何かやってた顔だね」
「その前に、知らせたいことがあります」
ユウトが足元を見ると、ポルカは戸口近くの椅子の陰へ隠れていた。
「名前を付けました。ポルカです」
「ポルカちゃん」
セラはすぐに呼んだが、近づきはしなかった。干し林檎を小さくちぎり、椅子から少し離れた床へ置く。
「ここは音が多いからね。静かな隅にも布を置いておこうか」
ポルカはしばらく様子を見ていたが、甘い匂いに鼻を動かし、椅子の陰から一歩だけ出た。
窓際の席では、バルドが湯気の立つ椀を前に座っていた。
「名を付けたか」
「はい。風待ち小屋へ戻る道を覚え始めています」
バルドは干し林檎へ近づくポルカをじっと見た。
「騒がせるな。荷を荒らさせるな」
「気をつけます」
「なら、ポルカでいい」
短い言葉だったが、追い出す声音ではなかった。
ポルカは干し林檎を前脚で押さえ、小さくかじった。セラが名前を呼ぶと耳を動かし、バルドの低い声には一度身を固くしたものの、椅子の下へ逃げ込まずにその場へ残った。
風待ち小屋へ戻るころには、午後の光が暖炉脇の床へ細く差し込んでいた。
ユウトはこれまでの布の寝床を、壁と棚の間へ少し移した。暖炉から離れすぎず、戸口から直接見えない場所だ。底には乾いた布を重ね、近くへ木片を置いて、小さな巣の形を整える。
その隣の低い棚へ、練習袋を置いた。
「次は軽い物を一つだけですね」
リーネが、袋の紐を指先で確かめる。
「はい。嫌がったら使わせません。怖がったときも、疲れているときもやめます」
「できたことを増やすより、戻ってこられるほうが大事ですから」
ポルカは二人の間をすり抜け、床に置かれていた紐束をくわえた。
練習袋へ運ぶのかと思ったが、向かった先は新しく整えた寝床だった。布の上へ紐束を置き、その隣へ身体を丸める。
「それは自分のものにするんですね」
リーネが笑う。
ポルカは紐束を前脚の下へ押し込み、満足そうに「ぽるる」と喉を鳴らした。
ユウトは練習袋を低い棚に残したまま、寝床の前へしゃがんだ。
「一つずつでいいからな、ポルカ」
名前を呼ぶと、閉じかけていた目が細く開く。
ポルカは胸を張る代わりに、紐束へ鼻先を埋めた。
傾いた仕分け棚はまだ直っていない。道標修理も残ったままだ。小さな助手が何をできるのかも、まだ分からないことのほうが多い。
それでも風待ち小屋には、帰る道を覚え、名前を呼ばれる小さな同居人の寝床ができた。
暖炉の火が静かにはぜる中、ユウトは棚の練習袋と、布の中で丸くなるポルカを交互に見た。
急ぐ必要はなかった。
ここへ戻ってくることから、始めればよかった。




