【第11話】 雨の前の初仕事
朝の風待ち小屋では、薄い雲が窓の向こうをゆっくり流れていた。陽は差しているものの、谷を抜ける風には少し湿った匂いが混じっている。
ユウトは作業机の上へ、今日届ける手紙と小さな包みを並べた。
手紙は防水袋へ入れ、改良した配達鞄の内側へ収める。残った包みは、掌に載るほどの大きさしかない。中身が動かないよう布で包まれ、細い紐で丁寧に結ばれていた。
「これなら重くはなさそうです」
リーネが包みを持ち上げ、重さを確かめる。
「はい。今日はこれ一つだけにします」
ユウトは低い棚から練習袋を取り出した。
寝床で紐束を抱えていたポルカが、布の擦れる音に反応して顔を上げる。名前を呼ばれる前から耳を立て、ユウトの手元を見つめていた。
「ポルカ、少し試してみるか」
練習袋を床へ置くと、ポルカはすぐには近寄らなかった。鼻先を伸ばし、周囲を一度回ってから、袋の口に通された紐を前脚で押す。
ユウトは急かさず、包みを袋へ入れた。
包みが中で偏らないよう袋の底を整え、その袋をポルカの身体へ軽く当てる。背中の羽を避けるため、紐は胸元と腹の脇を通す形にした。
ポルカは身体を低くし、一歩だけ横へ逃げた。
「嫌そうなら外します」
「もう少し見てみましょう。羽は挟まっていません」
リーネが少し離れた位置から確かめる。
ユウトは指一本が入る隙間を残して紐を結び、手を放した。ポルカは背中を気にして二度振り返ったあと、床の上を数歩進む。
袋が左右へ揺れた。
「右の紐が少しずれますね」
「歩けないほどではないですけど、長くは無理そうです」
ポルカは小屋の中を半周し、寝床の前で止まった。それから胸を張るように首を伸ばし、「ぷい」と短く鳴く。
「外へ行くか、ポルカ」
ユウトが戸口を開けると、ポルカはすぐに飛び出さず、敷居の前から外の風を嗅いだ。
今日の届け先は風見鶏亭だった。急がず歩けば遠くはなく、途中には低い石垣と白樺の木陰がある。疲れた様子を見せれば、そこで袋を外すこともできる。
リーネは地図帳を開き、道順へ指を滑らせた。
「最初は川沿いの小道を使って、石垣のところで休みましょう。石垣の先の分かれ道から風見鶏亭へ向かえば、距離も短いです」
「分かりました。戻ろうとしたら、今日はそこで終わりにします」
三人は風待ち小屋を出た。
ポルカはユウトとリーネの間を、短く跳ねるように進んだ。練習袋が揺れるたびに足を止めるものの、怖がって隠れる様子はない。
ユウトは歩幅を小さくし、何度もポルカの背中を確かめた。紐が羽へ当たっていないか、包みが片側へ寄っていないか、息が荒くなっていないかを見る。
「今のところ、大丈夫そうですね」
「はい。でも、まだ半分も歩いていません」
石垣が見え始めたころ、ポルカが急に道端へ顔を向けた。
落ち葉の間に、殻のついた木の実が一つ転がっている。
ポルカの尻尾が持ち上がった。
「ポルカ」
ユウトが呼ぶより早く、小さな身体は配達路を外れた。袋を背負ったまま草をかき分け、木の実を追って茂みのほうへ走っていく。
紐の端が枝へ触れ、袋が大きく揺れた。
「待て、ポルカ」
声をかけたが、ポルカは止まらない。木の実へ追いつくと、前脚で押さえ、袋のことを忘れたように殻をかじり始めた。
ユウトは追いかけかけて、足を止めた。
無理に捕まえれば、袋ごと逃げようとするかもしれない。茂みは深くなく、姿も見えている。
「ここで待ちましょう」
リーネも道を外れず、その場へしゃがんだ。
「ポルカ。木の実は、仕事のあと」
口で言うだけでは伝わらないと思ったのか、リーネは包みを運ぶ仕草をしてから、両手を膝へ置いた。次に木の実を指し、首を横へ振る。
ポルカは耳だけをこちらへ向けた。
だが戻らない。
前脚の間に木の実を抱え、時折ユウトたちを見ながら、殻をかじり続けている。
「分かってはいませんね」
「たぶん、声をかけられていることだけです」
ユウトは低い声でもう一度名前を呼んだ。
「ポルカ。こっちだ」
それでも二人は先へ進まなかった。
しばらくして、ポルカは木の実から顔を上げた。ユウトたちが離れていないのを確かめると、耳を伏せる。
木の実を置くか迷うように鼻先で転がしたあと、結局その場へ残して茂みから出てきた。
歩き方は先ほどより遅い。
ユウトの足元まで戻ると、ポルカは顔を上げずに座った。
「戻ってきたな」
叱らずに声をかけ、ユウトは練習袋を確かめた。布に破れはない。紐の片側が少し緩み、包みが斜めになっていたが、中身に傷んだ様子はなかった。
ポルカの前脚と腹にも、枝で擦った跡は見当たらない。
「少し休もう」
包みを入れ直し、紐を結び直してから、石垣の陰で足を止めた。
ポルカは乾いた石の上へ腹をつけた。木の実を諦めたことが不満なのか、尻尾だけが小さく揺れている。
「初仕事より、木の実のほうが大事みたいですね」
「今のポルカには、そうでしょうね」
ユウトは苦笑しつつ、水を染み込ませた布を鼻先へ置いた。ポルカは少し舐めると、ようやく顔を上げた。
休憩を終え、小道の分かれ目へ着いたときだった。
ポルカが突然立ち止まった。
鼻先を風上へ向け、両耳をぴんと立てる。次の瞬間、耳と背中の羽が同時に細かく震えた。
「どうした?」
ポルカは進もうとせず、同じ方向を見つめている。
ユウトは周囲へ目を向けた。
道脇の草は、先ほどまで谷の奥へ倒れていた。それが今は反対側から押され、葉の裏を見せている。風には土と水を混ぜたような匂いが濃くなっていた。
空を見上げる。
丘の向こうで灰色の雲が低く流れ、薄い陽を隠し始めている。
ユウトは道の土へ指を触れた。表面は乾いているが、空気は急に冷えていた。このまま予定どおり川沿いを回れば、雨雲と同じ方向へ進むことになる。
「雨が来ます」
リーネも雲を見上げた。
「思ったより早いですね」
「先に風見鶏亭へ向かいます。川沿いは帰りに雨が弱まってから確認しましょう」
「分かりました。ここ、記録しておきます」
リーネは地図帳を開き、分かれ目の印の横へ短い線を書き加えた。風の向き、ポルカが反応した位置、丘と林の形を、急ぎながらも一つずつ記していく。
「偶然かもしれません。でも、次に同じ場所で同じ反応をしたら比べられます」
「はい。ポルカの反応だけで決めず、俺たちでも確かめられるようにしましょう」
ユウトは配達鞄の留め具を締め直し、防水袋の口が閉じていることを確認した。
「行こう、ポルカ。大丈夫、まだ間に合う」
三人は風見鶏亭へ向かう道を急いだ。
ポルカは先ほどより慎重に歩き、時折袋を気にして立ち止まる。ユウトはそのたびに待ち、残りの距離を見て無理がないことを確かめた。
風見鶏亭の屋根が見えたころ、最初の雨粒が配達鞄の蓋へ落ちた。
一粒、二粒と増え、石畳へ濃い点を作る。
戸口まで残り数歩のところで、ユウトはしゃがんだ。
「ポルカ、ここからだ」
袋の紐を直し、風見鶏亭の開いた戸口を指す。
意味を正確に理解したかは分からない。それでもポルカはセラの姿を見つけると、小さく跳ねた。
練習袋を背負ったまま敷居を越え、店内へ入る。途中で一度袋が傾いたが、足を止めて立て直し、セラの前まで進んだ。
「まあ、今日は背負ってきたのかい」
セラがしゃがむと、ポルカは袋をつけたまま胸を張った。
ユウトは紐を外し、中から乾いた包みを取り出してセラへ渡した。続けて防水袋から手紙を出す。封も紙も、雨に触れていなかった。
「手紙と包みです。雨が来そうだったので、順番を変えて先に届けました」
「ちょうど降り出したね。濡れてないなら上出来だよ」
屋根を叩く雨音が、急に強くなる。
セラは三人を奥の席へ案内し、香草を入れた温かい飲み物を出した。湯気に混じる甘い香りが、冷えた指先をゆるめていく。
ポルカには硬焼きパンを小さく割り、床の皿へ一欠片だけ置いた。
「初仕事の分だよ、ポルカちゃん」
ポルカは両前脚でパンを抱え、夢中でかじった。
食べ終えるとすぐ、皿の向こうへ身を乗り出す。セラの手元に残った欠片へ鼻を伸ばし、「きゅ」と鳴いた。
「もう一つ欲しいのかい?」
「だめです、ポルカ。食べすぎです」
リーネが皿を少し遠ざける。
「途中で木の実にも走ったでしょう。仕事のあとでも、一度にたくさんは食べません」
ポルカは意味が分からないまま、パンとリーネの顔を交互に見た。やがて耳を伏せ、空になった皿へ前脚を置く。
「反省しているように見えますね」
「たぶん、もらえないことに落ち込んでいるだけです」
雨が弱まるまで休み、三人は風待ち小屋へ戻った。
ユウトはすぐに練習袋を外し、乾いた布でポルカの腹と脚を拭いた。袋は暖炉から少し離れた場所へ広げ、紐の緩んだ位置を確かめる。
「ここが歩くたびにずれています」
リーネが紐の跡を指す。
「布だけだと身体の丸みに合わないんですね。このまま長く使うのは難しそうです」
「軽い包みでも、片側へ寄りました。もう少し形を固定できるものが必要です」
ユウトは配達記録へ、紐がずれた位置と歩いた距離を書き込んだ。
隣ではリーネが、新しい欄を作っている。
「雨の前兆も残します。空模様だけじゃなくて、風向き、草の動き、ポルカの反応も書けるように」
「次から比べられますね」
「はい。今日だけで決めつけないためにも必要です」
ポルカは寝床へ戻ると、前脚を舐めながら二人の作業を眺めていた。初仕事を終えた得意げな様子より、硬焼きパンが一欠片だけだった不満のほうが強そうだった。
ユウトは練習袋の紐を持ち上げた。
「トマさんに相談してみましょうか。ポルカの身体に合う、小さな革鞄が作れるかどうか」
「材料も形も、まず見てもらったほうがいいですね。羽を邪魔しないことも伝えないと」
「完成するまでは、この袋で短い練習だけにします」
名前を呼ばれたと思ったのか、ポルカが顔を上げる。
「今日は寄り道もしたけど、ちゃんと届けられたな」
ユウトがそう言うと、ポルカは耳を動かしたあと、小さく胸を張った。
その足元には、今朝持って出なかった紐束が残っている。
配達助手と呼ぶには、まだ寄り道も多く、運べるものも少ない。それでも雨の前の風を感じ、小さな包みを濡らさず戸口まで運んだ。
ユウトは乾かしている練習袋と、配達記録に増えた新しい欄を見比べた。
できたことも、できなかったことも、次に使える形で残していけばいい。
一つずつ試し、一つずつ直す。
暖炉のそばで、ポルカが満足そうに「ぽるる」と喉を鳴らした。




