【第12話】 小さな鞄の居場所
翌朝、ユウトは乾いた練習袋を畳み、配達鞄の上へ載せた。
右側の紐には、歩くたびに擦れた跡が残っている。前日に結び直した部分もわずかに伸びており、このまま使い続ければ、また包みが片側へ寄るのは明らかだった。
足元では、ポルカが袋から垂れた紐を見上げている。
「今日は運ぶ練習じゃないぞ」
あらかじめ釘を刺すと、ポルカは耳を動かし、「ぷい」と鳴いた。理解したというより、声をかけられたことに返事をしただけらしい。
リーネは地図鞄を肩へ掛け、作業机に残した記録を確かめた。
「紐がずれた位置と歩いた距離は書きました。トマさんには、羽の付け根に当たりやすかったことも伝えましょう」
「はい。運ばせる重さも、先に決めておきます」
三人は風待ち小屋を出て、枝音の集落にあるトマの工房へ向かった。
工房へ近づくにつれ、乾いた木の香りが風に混じり始めた。開いた戸口の奥から、一定の間隔で槌を打つ音が聞こえる。
ユウトが声をかけると、作業台に向かっていたトマが顔だけを上げた。
「何だ」
「ポルカの鞄について相談に来ました」
ユウトは乾かした練習袋を広げ、紐の擦れた部分を見せた。
「短い距離を歩かせたんですが、右の紐が少しずつ緩んで、包みが片側へ寄りました。背中の羽を避けて結んだつもりでも、歩くと脇へずれてきます」
トマは袋を受け取り、縫い目と紐を指で引いた。
「布が柔らかすぎる。丸い身体に締めりゃ、細いほうへ逃げるに決まってる」
低い声がした途端、ポルカはユウトの踵の後ろへ半分隠れた。
トマは視線を落とす。
「それが毛玉か」
「ポルカです」
「どっちでもいい。実際に歩かせろ。止まってる毛玉を見ても分からん」
工房の床は掃かれていたが、壁際には木材や道具が積まれている。ユウトは刃物や重い板から離れた場所を選び、練習袋を空のままポルカへ着けた。
ポルカは背中を振り返り、紐を鼻先で押す。
「嫌なら外すからな」
ユウトは指一本が入る隙間を確かめてから、ゆっくり手を放した。
「ポルカ、こっちだ」
少し離れて呼ぶと、ポルカはためらいながら歩き出した。
一歩ごとに袋が左右へ揺れる。右へ曲がったところで胸元の紐が首側へ上がり、脇を通る紐は羽の付け根へ近づいた。
「止めろ」
トマの声に、ユウトはすぐポルカを止めた。
首元へ指を差し込み、締めつけを確かめる。息苦しそうではないが、白い毛が細い紐に押されていた。脇の紐も、もう少し歩けば羽へ触れそうだった。
「ここが上がります」
「細い紐で吊ってるからだ。重さが動けば、全部そこへ集まる」
トマはしゃがみ込み、ポルカへ手を伸ばしかけた。
ポルカは羽を膨らませ、ユウトの脚へ身体を寄せる。
トマは無理に触れず、手を止めた。
「お前が押さえろ、ユウト」
「分かりました」
ユウトがポルカの身体を支える間に、トマは指先で紐の位置だけを測った。首元、胸、脇、羽の付け根の位置を順に確かめ、短い木片へ寸法を書きつけていく。
「何を入れる」
「軽い手紙か、小さな包みだけです。持たせるとしても一つずつにします」
「どのくらいまでだ」
「今は紐束くらいから試します。鞄ができても、すぐ重くするつもりはありません。長い距離も歩かせません」
トマは一度だけユウトを見た。
「鞄を作れば運べる量が増えると思って来たんじゃないのか」
「運ばせるために怪我をさせたら意味がありません。嫌がるなら外しますし、疲れたらそこで終わりです」
トマは返事をせず、練習袋の紐を作業台へ置いた。
リーネが地図帳を開き、余白へ小さな形を描き始める。
「鞄の向きが遠くから分かるように、目印も付けられませんか」
「飾りならいらん」
「飾りではなくて、見分けるためです」
リーネは三角形と細長い四角を並べて描いた。
「地図でも、小さい丸より角のある印のほうが遠目で区別しやすいんです。布を長く垂らすと枝に引っかかるので、短い三角形ならどうでしょう。左右どちらかに寄っていれば、鞄が回っていないかも分かります」
トマは図を覗き込み、鼻を鳴らした。
「羽の後ろは駄目だ。揺れれば気にする。横の留め具につける」
「そこなら歩く邪魔にもなりにくいですね」
「布は厚くするな。濡れたら重くなる」
リーネは頷き、地図鞄から小さな布片を取り出した。道の印を書き分けるために持ち歩いていた端切れらしい。
トマが材料を選び始めると、工房に小刀の削る音が戻った。
薄い木を身体に沿う形へ加工し、ポルカの身体へ沿う小さな枠を作る。角は丸く削られ、羽のある部分だけが浅く開けられていく。幅のある紐には柔らかな革が重ねられ、首元ではなく胸の下で留まるよう位置が変えられた。
作業を見ていたポルカは、やがて床に落ちた細い木屑へ気づいた。
前脚で押すと、木屑はくるりと回る。
ポルカはすぐに追いかけた。もう一度押し、今度は尻尾を立てて跳びつく。木屑が作業台の下へ入ると、鼻先を差し込んで探し始めた。
「工房を荒らすな、毛玉」
トマの低い声が落ちる。
ポルカは飛び上がり、羽を大きく膨らませた。そのままリーネの地図鞄の陰へ走り込み、半分だけ顔を出す。
「驚かせましたね」
「道具の下へ潜られるよりましだ」
トマは追い払おうとはせず、床に落ちた木屑を拾った。その中から角のない短い木片を一つ選び、ポルカから離れた壁際へ置く。
「遊ぶならそっちでやれ」
ポルカはすぐには出てこなかった。
地図鞄の陰から木片を見つめ、トマの手が離れたことを確かめる。しばらくしてから一歩だけ出ると、身体を低くしたまま木片へ近づいた。
鼻先で触れ、危険がないと分かると、前脚で小さく転がす。
トマは見ていないふりをして作業へ戻った。
しかし今度は、作業台から垂れていた細い紐へポルカの目が向いた。
素早く駆け寄り、端をくわえて引く。
「それは駄目だ」
トマが紐の反対側を押さえると、ポルカは一度だけ引っ張り合った。勝てないと分かると口を放し、耳を伏せて木片のほうへ戻る。
「手伝いたいのかもしれません」
「邪魔と手伝いは別だ」
そう言いながらも、トマは紐をポルカの届かない高さへ掛け直した。
昼を少し過ぎたころ、小さな革鞄の形が整った。
薄い木枠が革の内側を支え、荷物が片側へ寄りにくくなっている。幅の広い紐は首元を避けて胸と腹の脇を通り、羽の付け根には空間が残されていた。横の留め具には、リーネが考えた短い三角形の布片が縫いつけられている。
「まず空で着けろ」
トマに言われ、ユウトはポルカを呼んだ。
ポルカは木片を置き、警戒しながら近づいてくる。革の匂いを嗅ぎ、留め具を前脚で押したあと、すぐには逃げなかった。
ユウトは小さな革鞄を背へ載せた。
紐を留め、首元へ指を入れる。白い毛は押し潰されず、胸にも余裕がある。脇へ指を滑らせても、羽の付け根には触れていない。
「歩いてみよう、ポルカ」
荷物は入れず、工房の安全な範囲だけを歩かせる。
ポルカは背中を気にして二度回った。だが以前のように袋が大きく揺れることはなく、木枠が身体の動きに合わせて小さく動くだけだった。
ユウトは途中で一度止め、紐の位置を確かめた。
「ずれていません」
「だからといって詰め込むなよ」
「はい。今日は空の確認だけでもいいと思っています」
トマは眉を寄せた。
「試さなきゃ調整できん。だが、いきなり包みは入れるな」
ユウトは頷き、持ってきた軽い紐束を一つだけ鞄へ入れた。
蓋を閉じ、もう一度ポルカを歩かせる。
ポルカは最初、鞄の中で小さく動く紐束が気になるのか、その場を回った。やがて背中を振り返っても鞄が傾かないと分かると、ユウトの呼ぶ声へ耳を向ける。
「ポルカ、こっちだ」
短い距離を、跳ねずに歩いてくる。
ユウトの足元まで着くと、ポルカは顔を上げた。
「よく運べたな」
鞄を外す前に首元と脇を確かめる。赤くなった場所も、擦れた毛もない。
ユウトが鼻先の前へ手を差し出すと、ポルカは逃げず、鼻先で指へ触れた。それから褒められたことを理解したように胸を張る。
「ぷい」
横の三角形が小さく揺れた。
完成したそれは、もう練習袋ではなかった。
軽い手紙や小さな包みを、安全を確かめながら運ぶための、ポルカ用配達鞄だった。
「調整が必要になったら、また持ってきます」
ユウトが丁寧に鞄を両手で持つと、トマは作業台の端へ小さな革片と留め具を置いた。
「毎回持ち込まれたら仕事にならん。次は直し方を教える」
「俺にですか?」
「道具の状態を見てから使う奴なら、教えても壊し方はせんだろう」
ぶっきらぼうな言い方だったが、追い返す声ではなかった。
「ありがとうございます、トマさん。雑に扱わないようにします」
「当たり前だ」
ポルカが床の木片をくわえたままトマを見る。
トマも一瞬だけ視線を返した。
「それは持っていけ、毛玉。紐は駄目だ」
意味をどこまで理解したのか、ポルカは木片をくわえたまま「きゅ」と鳴いた。
風待ち小屋へ戻ると、ユウトは道具棚の低い段を整理した。
使っていない布と予備紐を別の籠へ移し、乾いた板を敷く。その上へポルカ用配達鞄を置くと、三角形の目印が棚の端から少しだけ見えた。
ポルカは床から棚を見上げ、前脚を掛けようとしたが、まだ届かない。
「勝手に紐を出さないように、ここに置きます」
「ポルカの寝床からも見えますね」
リーネは作業机へ地図を広げた。
ミルネル丘へ向かう道筋と、次に運ぶ物の一覧を確かめ、余白へ新しい記録を書き足す。
「次も、ポルカに任せるのは短い区間だけ。鞄がずれないか、途中で必ず確認。運ぶのは軽い物を一つずつ」
「長い坂は俺が持ちます。風が強い場所でも外しましょう」
「はい。できることが増えても、急に距離は伸ばさないようにします」
ポルカは二人の間を歩き、棚の下で胸を張った。
鞄が完成したからといって、すぐ遠くまで手紙を運べるわけではない。木の実へ寄り道することもあれば、大きな音に怯えて隠れることもある。
それでも、身体に合う道具と、戻る場所が一つ増えた。
ユウトは棚の上の小さな鞄と、机に広げられたミルネル丘への地図を見比べた。
遠くへ進む前に、まず短い道を確かめる。
ポルカ用配達鞄の三角形が、窓から入る風にわずかに揺れていた。




