【第13話】 風を避ける丘道
朝のルミナ村には、刈り残された麦の匂いが薄く漂っていた。
ユウトが村長の家を訪ねると、バルドは戸口脇の長椅子に、小さな包みを置いて待っていた。厚手の布で二重に包まれ、麻紐が十字に掛けられている。持ち上げてみれば見た目ほど重くはないが、中身が動かないよう固く詰められていた。
「羊飼いの丘へ届ける物だ」
バルドは包みを指で示した。
「干した薬草と、羊の爪を手入れする道具が入っている。急ぎではないが、長く置く物でもない」
「届け先の方のお名前は分かりますか」
「丘にいる羊飼いへ渡せば通じる。あそこはミルネル丘と呼ばれている」
ユウトはその名を繰り返し、配達記録へ書き留めた。
「ミルネル丘ですね」
「風が強い。空が晴れていても、開けた斜面では立っていられん日がある。無理だと思ったら戻れ」
バルドの声はいつも通り短かったが、試すような響きだけではなかった。
「期限より、無事に持ち帰るほうを優先してください、ということですね」
「そうだ。道の状態も見てこい。古い地図はあるが、丘の風までは紙に残らん」
隣で地図帳を抱えていたリーネが頷く。
「風向きと通りやすい場所を記録します。前に聞いた話では、斜面の下に石垣があるそうですが、位置が曖昧で」
「見つからなければ探し回るな」
「はい。歩いた範囲だけ描きます」
包みを配達鞄へ収め、留め具を確かめる。ポルカはユウトの足元で、小さな自分の鞄を気にするように背中を振り返っていた。
今日は空のままだ。風や坂の様子が分からないうちから、荷物を持たせるつもりはなかった。
ルミナ村を出てしばらくは、道の両側に低い草地が続いていた。
丘へ続く道はゆるやかに上り、振り返るたび麦畑の向こうの屋根が小さくなる。風待ち小屋の周辺より木が少なく、遠くの斜面まで見渡せた。
「地図では、この先で道が二つに分かれています」
リーネが古い線を指でなぞる。
「右は距離が短いですが、尾根に近いですね。左は斜面を回り込んでいます」
「今のところ、右へ通った跡のほうが新しいです」
ユウトは足元の土を見た。羊の細い蹄跡が重なり、その脇に杖の先らしい丸い跡がある。
ただし、通る人が多いことと、安全であることは同じではない。
分岐を越え、右の道へ数歩踏み出したところで、横から風がぶつかった。
配達鞄が身体から離れ、肩紐が強く引かれる。ユウトはすぐに腰を落とし、鞄を体側へ抱え込んだ。リーネも地図帳を胸へ押さえ、風に背を向ける。
ポルカの背中の三角形が激しくはためいた。
「きゅっ」
羽を膨らませたポルカが地面へ伏せる。
「ポルカ、こっちだ」
ユウトは身を低くして近づき、まず鞄の紐へ指を入れた。首元や脇に食い込みはない。だが、広げかけた羽が風に押され、身体が小さく揺れていた。
「今日はここで運ばなくていい」
留め具を外してポルカ用配達鞄を回収すると、ポルカは待っていたようにユウトの腕をよじ登り、襟元へ潜り込んだ。白い毛先だけが外に見える。
配達鞄の肩紐も短く調整し、包みが背中側へ振られないよう、補助紐を身体の前で留め直した。
「ポルカ、怖がっていますか」
「はい。羽を開こうとしても、風に押されています。ここを歩かせるのはやめます」
「そのほうがいいですね。地図も開けません」
二人は分岐まで戻り、風の弱い草陰で立ち止まった。
ユウトは風路読みに意識を向けた。高い場所では草が一方向へ強く倒れている。反対に、斜面の下には揺れの小さい帯があり、その先へ灰色の石が細く連なっていた。
「下のほうは、風が少し弱いかもしれません」
「石垣らしいものも見えます」
「ただ、ここからでは道が続いているか分かりません。左の道を少し確かめましょう」
斜面を回り込む道へ入ると、風は背の高い草に遮られた。土は湿っていたが、深く沈むほどではない。ユウトが足場を確かめ、リーネが古い地図の線と曲がり方を照らし合わせる。
やがて羊の鈴が聞こえた。
杖を持った羊飼いが、数頭の羊を連れて石垣の向こうから現れる。
「丘へ行くのか」
「はい。ミルネル丘への配達です」
ユウトが名乗り、包みの届け先を尋ねると、羊飼いは配達鞄を見て頷いた。
「なら、この道を行けばいい。俺たちは丘道と呼んでる」
「丘道……この石垣沿いの道ですか」
「今の季節はな。春先は下がぬかるむから、もう少し上を通る。秋の終わりは北から風が来る。尾根側へ出ると羊まで転びそうになる」
リーネはすぐに地図帳を開いた。石を重しにして端を押さえると、ポルカが襟元から顔を出し、地図を覗き込む。
「今いる位置を教えていただけますか。分岐からどのくらい下った辺りでしょう」
羊飼いは周囲を見回し、遠くに立つ白い岩と、浅い窪みを順に指した。
「白い岩を過ぎて、雨水の溝が二本に分かれる場所だ。石垣が低くなるところは風が回り込む。休むなら、その先まで行け」
三人は羊飼いと共に丘道を進んだ。
石垣が腰ほどの高さになる場所では、さきほどまで衣服を叩いていた風が、頭上を流れる音へ変わった。羊たちも慣れた様子で石のそばへ集まり、草を食んでいる。
「ここが風よけの石垣だ」
羊飼いが杖で石を軽く叩いた。
「人も羊も、風が荒れたらここで休む。古いが、まだ役に立つ」
用途を知ると、ただ積まれた石ではなく、丘で暮らす者のための設備に見えた。
ユウトは配達鞄を下ろし、留め直した紐に緩みがないか確かめる。包みも濡れず、形を保っていた。
リーネは地図へ風向きの矢印を描き、石垣の高さが変わる場所に印を付けた。
「春は下がぬかるむ。秋の終わりは北風。休むなら石垣が高い区間……」
「夏でも昼過ぎは風が変わることがある」
「どちらからですか」
「谷の奥からだ。草の穂が一度止まって、それから逆へ倒れる」
リーネが書き加える横で、ポルカの耳と羽が同時に震えた。
少し遅れて、石垣の上を流れる風音が弱まる。
「今、変わりましたね」
「ぽるる」
ポルカは襟元から出ると、石の上へ前脚を掛けた。もう羽は膨らんでいない。
ユウトは周囲とポルカの様子をしばらく見た。進む先は石垣に守られた短い平坦路で、羊飼いの小屋も見えている。
「嫌ならすぐ外すぞ」
ポルカ用配達鞄を背へ載せ、首元と脇へ指を入れる。問題がないことを確かめてから、届け物の中に分けて入れられていた軽い薬草包みを一つだけ移した。
残りはユウトが持つ。
「ポルカ、あの人のところまでだ」
指を差すと、ポルカは一度ユウトを見上げた。それから短い脚で丘道を進む。
途中で風が横切ると、足を止め、羽を震わせた。
「大丈夫、まだ間に合う。ゆっくりでいい」
ポルカは石垣へ身体を寄せ、風が弱まってから再び歩き出した。
羊飼いの足元へ着くと、耳を伏せて一歩下がる。見知らぬ手が伸びてくるのを警戒したらしい。
「俺が外します」
ユウトが鞄を外し、薬草包みを羊飼いへ渡した。
「小さいのも運んできたのか」
「短い距離だけです。風が強い場所では、俺が持ちました」
羊飼いはポルカへ直接触れず、目を細めた。
「よく歩いたな」
ポルカは耳を起こし、胸を張った。
「ぷい」
残りの道具も無事に渡すと、羊飼いは包みの中身を確かめ、安堵したように息をついた。
その後もリーネは、小屋の位置や季節ごとの通り道を聞き取った。古い地図の一本線は、風向き、休憩地点、ぬかるみやすい場所を持つ道へ変わっていく。
帰り支度を始めたところで、羊飼いが小さな木札を差し出した。薄い布に包まれ、紐で留められている。
「枝音の集落へ行くなら、これを木工職人に届けてほしい。羊柵に使う板の寸法を書いた。急ぎではない」
「宛先は、枝音の集落の木工職人ですね。内容は板の注文で、急ぎではない、と」
「ああ」
ユウトは紐の緩みを確かめ、配達鞄の内側へ丁寧に収めた。
その日の夕方、ルミナ村へ戻ると、バルドは村の入口近くで道具を片づけていた。
「戻ったか」
「はい。ミルネル丘への配達は完了しました」
ユウトは丘道の分岐、強風の吹く斜面、風よけの石垣の位置を順に報告した。リーネも地図を開き、季節によって道を変える必要があることを説明する。
「最初は尾根側へ進みましたが、横風が強く、いったん戻りました。ポルカにも荷物は持たせず、鞄を外しています」
「時間はかかったな」
「はい。ただ、今後も使える道と休める場所を確認できました。次からも風向きを見て、危険なら引き返します」
バルドは地図とユウトの配達鞄を交互に見た。
「期限を守るために、尾根を押し通すと思っていた」
「届けられなくなるほうが困ります。荷物も、俺たちも」
しばらく黙ったあと、バルドは低く言った。
「今後、ミルネル丘への便はお前に任せる。向こうから預かる物も、急ぎかどうかを確かめて持ち帰れ」
それは試しの一件ではなく、これからも続く仕事を任せる言葉だった。
「分かりました、バルドさん。道の変化も、その都度記録します」
「約束は軽くない」
「はい」
足元でポルカが「きゅ」と鳴いた。
バルドは小さな配達鞄を見下ろしたが、褒めも叱りもしなかった。ただ、ユウトへ向けて一度だけ頷いた。
リーネの地図には、ルミナ村からミルネル丘へ伸びる線に、新しい情報が増えていた。
その先にはミルネル丘があり、丘道と風よけの石垣が記されている。配達鞄の中には、枝音の集落へ届ける小さな依頼が一つ。
一つの道を歩き終えたことで、次につながる便りが、静かに増えていた。




