【第14話】 集落をつなぐ仕事の伝言
朝の風待ち小屋には、削った木と乾いた紙の匂いが混じっていた。
ユウトは作業机に薄い布包みを置き、ミルネル丘の羊飼いから預かった木札をもう一度読み返した。表には簡単な寸法が並び、裏には短い言葉で修理の希望が刻まれている。
羊柵に使う交換用の板。下側の二枚には割れがあり、上側の一枚は湿気で反っている。留め具は、木札を包む紐と同じ太さに合わせたい。次の毛刈りの準備が始まる前までに直してほしい。
「傷んでいる場所は二つですね」
向かいの椅子に座ったリーネが、手帳へ書き写しながら言った。
「下側の割れた板と、上側の反った板。修理してほしい時期は、すぐではないけれど、次の作業が始まる前」
「はい。急ぎではない、という言葉だけ伝えると、後回しにしていいようにも聞こえますから」
ユウトは木札を布へ戻し、紐を結び直した。
仕事の伝言は、荷物より軽い。それでも、言葉が一つ抜ければ、届いた先で別の仕事になってしまう。
リーネは机に地図を広げた。ミルネル丘から伸びた新しい線と、枝音の集落までの道を指先で結ぶ。
「風待ち小屋から枝音の集落へ行くなら、風見鶏亭を通れます。行きに一度休んで、帰りにも立ち寄る順路がいいと思います」
「一息で歩くより安全ですね」
「昨日の丘道の疲れも残っているでしょうし」
ユウトが返事に詰まると、リーネは地図から顔を上げた。
「私もですよ。今日は無理をしない順路にしましょう」
足元では、ポルカが小さな配達鞄の周りを落ち着かなく回っていた。ユウトが見本の紐を持ち上げると、耳をぴんと立てる。
「これを運んでみるか」
「ぷい」
返事だけは立派だった。
ユウトは紐を小さく巻き、鞄へ収めた。首元と脇へ指を差し込み、食い込みがないことを確かめる。羽を片方ずつ持ち上げても、留め紐には触れていない。
「歩きにくくないか」
ポルカは身体を振り、小さく跳ねた。嫌がって外そうとする様子はない。
「疲れたら、すぐ俺が持つからな」
「きゅ」
胸を張るポルカを見て、リーネが笑った。
「今日は大事な見本係だね」
「ぽるる」
風見鶏亭に着く頃には、空の高いところへ薄い雲が広がっていた。
セラは三人の姿を見るなり、湯気の立つ椀をカウンターへ並べた。
「枝音まで行くんだろ。まず食べな」
豆と根菜のスープには、細かく刻んだ干し肉が入っていた。歩いて冷えた身体へ、香草の匂いと塩気がゆっくり染み込んでくる。
「帰りも寄ってください、という顔ですね」
ユウトが言うと、セラは腕を組んだ。
「顔だけじゃなくて、言葉でも言うよ。行きに休んだからって、帰りまで元気とは限らない。枝音からここまで戻ったら、もう一度休むこと」
「分かりました」
「特に仕事の伝言を抱えてる日はね。疲れると、言ったつもりと聞いたつもりが増えるから」
ユウトは木札を取り出さず、配達鞄の上から位置だけを確かめた。
「用途、傷んだ箇所、希望する時期。それから見本の紐ですね」
「そう。一つ抜けただけで、作る物が変わることもあるよ」
リーネも手帳を開き、記録を見直した。
「届け先だけじゃなくて、どこから預かったかも残しておいたほうがよさそうですね」
「そういうのは、後で効いてくるよ」
セラはそう言って、ポルカの前へ何も塗っていない硬焼きパンの欠片を置いた。ポルカは一度匂いを嗅いだが、鞄を背負ったままでは食べにくいと気づいたらしく、ユウトを見上げた。
「今は休憩だから外そう」
鞄を外し、首元と羽を確認する。擦れも疲れも見えない。ポルカは安心したようにパンを抱え込んだ。
枝音の集落へ入ると、木槌の乾いた音が森の近くまで響いていた。
トマの工房の戸は半分開いていた。中では細かな木屑が陽の光を受け、薄い埃のように舞っている。
「トマさん、配達です」
作業台の向こうで鉋を動かしていたトマが、手を止めた。
「誰からだ」
「ミルネル丘の羊飼いからです。羊柵に使う板の修理相談を預かりました」
ユウトは木札を渡し、順番を崩さないように説明した。
「下側の板二枚が割れていて、上側の一枚は湿気で反っているそうです。留め具を付け直すなら、この見本と同じ太さの紐を使いたいとのことです」
「傷んだ板は今どこだ」
「ミルネル丘です。急ぎではありませんが、次の毛刈りの準備が始まる前には使えるようにしたいそうです」
トマは木札の寸法へ目を落とし、親指で刻みをなぞった。
「下の二枚は交換だ。上の板は反り方を見ないと、削って済むか作り直しか分からん」
「傷んだ板をこちらへ運び込む必要がありますか」
「当然だ。寸法だけで直せるなら職人はいらん」
言葉は荒いが、トマの視線はすでに材料棚へ向いていた。
「乾いた板は三日後に使える分がある。傷んだ板を四日後から六日後の間に持ってこい。状態を見て、下の二枚の交換だけなら二日。上の板まで作り直すなら、さらに三日は見ろ」
ユウトは一つずつ復唱し、リーネが手帳へ書き留めた。
「四日後から六日後に持ち込み。下の二枚の交換だけなら二日、上の板の作り直しが必要なら追加で三日ですね」
「紐を見せろ」
「ポルカ」
ユウトが呼ぶと、ポルカは背中の鞄を意識するように振り返った。それから作業台の前まで続く床を、小さな足で進んでいく。
ところが途中で、鉋屑の丸まった一片が風に押されて転がった。
ポルカの耳が動く。
「ポルカ、届けて」
「きゅ」
返事をした直後、また別の木屑がころころと床を走った。
ポルカはそちらへ飛びつき、そのまま積まれた端材の隙間へ頭を突っ込んだ。背中の鞄が木片へ引っかかり、慌てて尻尾を振る。
「工房で遊ぶな、毛玉」
トマの低い声に、ポルカは動きを止めた。
ユウトがすぐに近づき、端材へ触れないよう鞄を外す。紐のずれはなく、羽にも木屑は絡んでいなかった。
「ポルカ、戻れ」
耳を伏せたまま、ポルカはユウトの足元へ戻ってきた。
「見本は俺が出します」
ユウトが鞄から紐を取り出すと、トマは太さを確かめ、作業台の端に置かれた小さな木製の留め具を一つ指した。
「その紐なら、あれくらいの穴でいい。毛玉、持ってこい」
ポルカは一度トマを見上げた。ユウトが留め具を指差すと、慎重に近づき、前歯で軽くくわえる。
今度は木屑へ目を向けながらも立ち止まらず、作業台の前まで運んだ。
トマが手のひらを低く差し出す。ポルカはすぐには近寄らず、ユウトを振り返ってから、留め具を作業台へ置いた。
「それでいい」
「ぷい」
伏せていた耳が上がり、胸が小さく膨らんだ。
工房を出たあとも、リーネは歩きながら手帳を何度か見返していた。
「今までは、誰に何を届けたかを中心に書いていました」
「今回は、それだけでは足りませんでしたね」
「はい。ミルネル丘から預かった日、枝音の集落へ届けた日、トマさんの返答、それをいつ戻すか。連絡の道筋が一本増えています」
リーネは立ち止まり、手帳の空いた頁へ線を引いた。
「風待ち小屋に戻ったら、別の集落への頼みごとを分けて書く欄を作りませんか」
「依頼元と届け先が見えるように?」
「それと、返答があるかどうかも。今の記録だと、届けた時点で終わったように見えてしまいます」
ユウトは配達鞄の中にある木札と、自分たちが持ち帰る言葉の重さを思った。
物を運ばなくても、仕事は道を渡る。
「作りましょう。一つずつ片づけられる形にしたいです」
帰りも風見鶏亭で休み、風待ち小屋へ戻った頃には、窓の外が茜色に染まっていた。
ユウトはトマからの返答を配達記録へ書き、次にミルネル丘へ向かう便で届ける印を付けた。隣ではリーネが新しい頁の上部へ、はっきりと文字を書いている。
「名前はどうしますか」
「集落から別の集落へ渡す仕事ですから……集落間依頼、ではどうでしょう」
ユウトはその言葉を声に出して確かめた。
「集落間依頼。分かりやすいですね」
新しく作った欄には、依頼元、届け先、内容、返答の有無を書き込んだ。
最初の一行は、ミルネル丘から枝音の集落へ。羊柵に使う板の修理相談。返答あり。次の便で伝達予定。
書き終えた紙を仕分け棚へ入れようとすると、棚全体が小さく軋んだ。傾いた板の隙間には、これまでの手紙や記録が窮屈そうに並んでいる。
「これ以上増えたら、分類しても収まりませんね」
リーネが棚の端を押さえた。
「本格的に直す必要があります」
ユウトは棚を支える歪んだ脚を見下ろした。羊柵の修理も、仕分け棚の修理も、頼んだその日に終わるものではない。材料と時間を確かめ、順番を決めて進める必要がある。
足元では、役目を終えたポルカが乾いた布の上へ丸くなっていた。けれど木屑の匂いが残っているのか、ときどき鼻を動かしている。
ユウトは新しい記録欄を、棚の比較的まっすぐな段へ慎重に置いた。
一つの集落で生まれた頼みごとが、道を越えて職人の手へ届き、返事となって戻っていく。
郵便屋が届けるものは、手紙や小包だけではなかった。
離れた場所で暮らす人たちの仕事を、次に動かすための言葉もまた、確かに預かるものだった。




