【第8話】 雨を防ぐ鞄
翌朝、風待ち小屋の作業机には、乾いた包み布と配達鞄が広げられていた。
昨日の雨は上がっていたが、布にはまだ湿った土と油煙の匂いが残っている。ユウトは鞄の表面を指でなぞり、色の濃くなった箇所を帳面へ書き留めた。
鞄の口に近いところは特に染みが深い。外套で覆っていたつもりでも、開け閉めのたびに雨が吹き込み、包み布へ触れていたらしい。底には小さな水跡も残っている。
「ここで一度引っかかりました」
ユウトは鞄へ手を入れ、昨日と同じように包みを取り出してみせた。
「雨を避けながら片手で開けると、口の布が内側へ折れます。そのせいで手紙の角が引っかかるんです」
向かい側で地図帳を開いていたリーネが、鞄の中をのぞき込んだ。
「それに、途中で配達順を変えると全部探し直しですね。ルミナ村宛てと別の届け先が重なったら、濡れた場所で長く開けることになります」
「前の仕事では、届ける順に荷物を分けていました。でも、この鞄に硬い箱をいくつも入れたら重すぎます」
「じゃあ、箱じゃなくて袋で分ける?」
「はい。雨を防げて、出し入れしやすいものが作れれば」
机の端では、風羽リスが乾いた布の上から二人を見ていた。鞄を持ち上げるたびに耳を立てるが、近づいてくる様子はない。
ユウトは帳面へ、口、底、仕切り、と三つの項目を書いた。
「一つずつ片づけましょう。まずは油紙を分けてもらえるか、セラさんに聞いてみます」
風見鶏亭へ着くと、軒先には昨日濡れた薪が並べ直されていた。扉を開けるなり、香草を混ぜた焼きパンの匂いが漂ってくる。
「今日はずいぶん乾いた顔をしてるじゃないか」
鍋の蓋を閉じながら、セラが笑った。
「昨日は助かりました。風待ち小屋まで無事に戻れました」
「それなら何よりだよ。で、その鞄を抱えてきたってことは、雨の続きをしに来たね」
ユウトは配達鞄を卓上へ置き、油紙をどのように使いたいか説明した。手紙を一通ずつ包むのではなく、届け先ごとにまとめること。使い終えたあとは広げて乾かし、傷んだ部分だけ取り替えたいこと。油を多く含みすぎるものは紙へ匂いが移らないかも尋ねる。
セラは棚から数枚の油紙を取り出し、表と裏を見せた。
「こっちは香草を包む紙だから匂いが残ってる。手紙に使うなら、乾いた豆や粉袋に使ってるほうがいいね。油も薄い」
「水気を拭いたあとは、畳んだままにしないほうがいいですか?」
「ああ。広げて風を通しな。暖炉のそばへ寄せすぎると、油が浮いて紙が硬くなるよ」
必要な大きさを測るユウトを、セラはしばらく黙って見ていた。
「余ったからって何重にもするんじゃないよ。使いにくけりゃ、結局開けっぱなしになる」
「気をつけます」
「今度から、匂いの薄い油紙を少し取り置いておくよ。郵便に使う分なら、他の包みと分けておける」
昨日は様子を見るような響きだった声に、今日は仕事の続きを前提とした調子が混じっていた。
「ありがとうございます。使った量は記録して、必要な分をお願いするようにします」
「そうしな。それと、昼までかかるならこれを持っていきな」
差し出された包みには、根菜と干し肉を挟んだ硬焼きパンが入っていた。
「まず食べな、と言いたいところだけど、今日は作業が先みたいだね」
風待ち小屋へ戻ると、戸口の前に長い影が落ちていた。
トマが、細い木材を束ねて立っている。
「棚を見るつもりで来たが、その前に妙な鞄を直すそうだな」
「棚の修理もお願いしたいのですが、今日はこの配達鞄について相談があります」
ユウトは鞄を作業机へ置き、口が内側へ折れる様子を再現した。片手で外套を押さえ、もう片方で手紙を探す。取り出す途中で包みが引っかかるところまで、何度か同じ動きを繰り返す。
「口を木で囲めば開きやすくなると思います。ただ、重くなると長い道では負担です」
「厚い枠なんぞ付けたら肩が死ぬ」
トマは即座に言い切り、鞄の縫い目を指で押した。
「底も柔らかすぎる。中身が少ないと折れて、重なる。だが板を一枚入れりゃ重い」
「細い木を組むだけでは駄目ですか?」
「力が逃げる。角だけ残して、間を薄くする」
トマは木材を机へ並べ、節の少ないものを二本選んだ。削り始める前に、ユウトの肩へ鞄を掛けさせ、歩いたときの揺れ方まで確かめる。
「枠は上だけ。底は細い桟を二本だ。濡れたら外して乾かせるようにする。縫いつけるな」
「外せるなら、布の傷みも確認できます」
「確認するなら、雑に戻すな」
ぶっきらぼうな言葉とともに、鉋の薄い音が小屋へ響いた。
その隣で、リーネは地図帳と油紙を交互に見比べていた。
「袋を分けても、開けないと中身が分からないですよね」
彼女は地図の余白へ、丸、二本線、三角の簡単な印を描いた。
「届け先ごとに印を決めて、地図と袋へ同じ印を付けるのはどうでしょう。雨の中でも文字を読まずに選べます」
「細かすぎる印は削れんぞ」
トマが手を止めずに言う。
「では、指で触っても分かる形にしたいです。丸い札と、端を一つ切った札と、二つ切った札なら?」
「穴の位置も変えろ。暗くても紐をたどれば分かる」
リーネはすぐに描き直した。
「この形なら、地図側の印も単純にできます。トマさん、厚さはこれくらいで足りますか?」
「薄すぎる。濡れたら反る。だが、その半分の大きさなら今の厚みでいい」
「分かりました。次はもっと上手く描きます」
「次じゃなく今直せ」
リーネは一瞬だけ口を尖らせたが、すぐに新しい線を引いた。そのやり取りには遠慮よりも、作業を進めるための具体的な言葉が増えていた。
ユウトは油紙を折り、両端を紐で留めて小さな袋を作った。最初の試作品は手紙を守ることを考えすぎて、油紙を三重にしていた。
紐を切ろうと手を伸ばしたところで、机の端から細い束が消えた。
「小さいの」
風羽リスが紐をくわえ、床を走っていた。ユウトが立ち上がると、背中の羽を震わせて作業机の陰へ潜り込む。
「取らないから、そこへ置いてくれればいいんだが」
もちろん言葉が通じた様子はない。風羽リスは紐を前脚で押さえ、警戒した目を向けている。
リーネが木の実を少し離れた場所へ置くと、しばらくして紐だけが床に残された。
「手伝ったつもりではなさそうですね」
「紐が動くのが面白かっただけでしょう」
ユウトが拾い上げたとき、風羽リスは机の上に残された試作品へ鼻を寄せた。だが、すぐに顔を背け、耳と羽を同時に震わせる。
「嫌がっていますね」
リーネが袋を持ち上げた。
「油の匂いでしょうか」
ユウトも鼻を近づけた。紙を重ねたぶん、薄い油の匂いがこもっている。折り目は硬く、手紙を入れようとすると口が勝手に閉じた。
「守ることばかり考えていました。これでは取り出すのに時間がかかります」
「重ねる枚数を減らして、口だけ折り返したらどうでしょう」
トマが削り終えた木枠を鞄へ当てる。
「厚けりゃ仕切りに収まらん。袋も道具だ。使えなきゃ意味がない」
三人で寸法を調整し、油紙は一枚にした。口元だけを二重に折り、紐を強く締めなくても開かない形へ変える。リーネの印を付けた木札は、袋の紐へ一つずつ通した。
完成した袋へ乾いた紙を入れ、外側から濡らした布を当てる。
ユウトはすぐには開かず、しばらく待った。表面の水気を乾いた布へ移し、それから紐をほどく。
中の紙は乾いたままだった。
「これなら使えそうです」
指先で紙の端まで確かめ、ユウトは帳面へ名称を書き込んだ。
「届け先ごとに分けて使う、防水袋。濡れたら中身を出して、広げて乾かす」
「地図の印と同じ札を付ければ、順番を変えても探せますね」
木枠と底の桟を入れ、仕切り紐を取り付けた配達鞄へ防水袋を収めると、口は片手でも形を保った。袋同士は仕切り紐に支えられて倒れず、必要なものだけを引き出せる。
ユウトは肩へ掛け、小屋の中を何度か歩いた。以前よりわずかに重いが、底が折れないぶん荷物は安定している。
「紐の緩みは?」
「今のところありません。帰ったら毎回確認します」
「木枠も外して乾かせ。濡れたまま放れば腐る」
トマは壁際の空いた場所へ平たい作業板を取り付けた。下には紐を掛ける木釘があり、横には木枠を立てて風を通せる細い溝が作られている。
「棚はまた別だ。今日はここまでだ」
「ありがとうございます、トマさん。道具を直して終わりではなく、使い続けられるようにします」
トマは返事の代わりに、配達鞄の口を一度だけ押して確かめた。
「雑に扱うな」
作業が終わる頃には、窓から差す光が傾いていた。
セラの硬焼きパンを分け、三人で作業机を囲む。風羽リスは少し離れた布の上から様子をうかがっていたが、空になった油紙の袋が床へ置かれると、鼻先を近づけた。
今度は匂いが薄いのか、嫌がって逃げることはない。前脚で口を押し広げ、そのまま半身を滑り込ませた。
「小さいの、それは寝床じゃないぞ」
袋の中から白い首元だけが見えた。
リーネが笑いをこらえながら、改良された配達鞄を持ち上げる。鞄がわずかに揺れると、風羽リスは袋から飛び出し、床を走ってその後を追った。
近づきすぎることはなく、一定の距離で止まり、鞄と空の袋を交互に見ている。
風待ち小屋の壁際には、新しい手入れ場所ができていた。木枠を乾かす溝、紐を点検する木釘、油紙を広げるための作業板。
昨日の雨で見つかった不便は、誰か一人の工夫だけでは直らなかった。
油紙を分ける人がいて、木を削る人がいて、道と袋を同じ印で結ぶ人がいる。その間を、小さな魔物が紐をくわえて走り回っている。
ユウトは配達鞄の口を閉じ、片手で開き直した。
今度は布が内側へ折れず、防水袋の札が一目で見えた。




