【第7話】 雨宿りの風見鶏亭
朝、屋根を打つ雨音でユウトは目を覚ました。
昨夜から湿っていた風は、夜明け前には細かな雨を連れてきたらしい。窓板の隙間から見える空は一面の灰色で、風待ち小屋の前の道には浅い水たまりがいくつもできていた。
仕分け棚の下では、風羽リスが乾いた布へ鼻先を埋めて丸くなっている。雨粒が窓を叩くたび、耳と背中の羽が小さく震えた。
ユウトは机の上に手紙を並べ、包み布の傷みを一枚ずつ確かめた。布は昨日まで乾いていたが、薄く、織り目も粗い。二重にすれば少しは違うだろうと考え、手紙を内側へ寄せて包み直す。
「この雨で出るんですか?」
地図帳を抱えたリーネが、窓の外を見ながら尋ねた。
「遅れると困る手紙があります。雨が強くなりすぎる前に、行けるところまで届けたいです」
「でも、この布だけだと心配ですね」
「はい。だから今日は道を短くして、途中で状態を確認します。危ないと思ったら戻ります」
ユウトが包みを配達用の鞄へ収めると、リーネも地図帳を布で巻いた。こちらも雨への備えとしては心許ない。
「地図まで濡らしたら、案内役として困りますね」
「無理に開かなくてもいいよう、最初の分岐までは覚えています」
「そこから先を確認するために来たんです。私も行きます」
明るい口調だったが、リーネは布の端を念入りに結んでいた。
二人は風羽リスの寝床から離れたところへ木の実を置き、戸口で足を止めた。
「今日は留守番してろよ、小さいの」
風羽リスは顔を上げず、布の奥へさらに潜り込んだ。
雨の道は、晴れた日とは別の場所に見えた。土は靴の裏へまとわりつき、草は水を含んで道側へ垂れている。配達鞄へ直接雨が当たらないよう、ユウトは外套の前を寄せながら歩いた。
最初のうちは包み布も水を弾いていた。しかし雨脚が強まるにつれ、鞄の表面には濃い染みが広がった。
「ユウトさん、あの軒下を借りましょう」
道沿いに小さな物置小屋があり、片側だけ長く張り出した屋根が残っていた。二人はそこへ駆け込み、濡れた外套を払う。
ユウトが配達鞄を開くと、包み布の外側は冷たく湿っていた。内側まで完全に濡れてはいないが、指で押せば湿気が伝わってくる。
「思ったより早いですね」
「安い布ですから。重ねても、織り目から水気が入っています」
リーネも地図帳を開いた。頁の端に描かれた細い線が、わずかにぼやけている。
「ここ、滲んでる……」
声から明るさが消えた。
「まだ端だけです。乾かせば読めます」
「でも、このまま開いたらもっと広がりますね」
そのとき、配達鞄の奥で何かが動いた。
ユウトは手を止めた。包み布の陰から、白い毛に縁取られた小さな顔がのぞく。風羽リスは目を丸くし、雨音が強まるたびに羽を震わせていた。
「小さいの?」
「リスちゃん、どうして……」
鞄の底には、手紙を押さえるために入れていた乾いた布がある。その隙間へ、風羽リスはいつの間にか潜り込んでいたらしい。
「ついてくるつもりではなかったようですね」
「雨が来る前に、乾いた場所へ隠れたんでしょうか」
風羽リスは外へ出ようとせず、布へ爪を立てていた。ユウトは無理に引き出さず、濡れていない布を周囲へ寄せた。
「ここから戻るより、雨を避けられる場所を探したほうがいいですね」
「少し先に浅瀬があります。その向こうへ渡れば近いですが……」
軒下を出る頃には、道の低い部分へ細い水の筋ができていた。
浅瀬へ近づくと、川の音が普段より大きい。水面は茶色く濁り、上流から小枝が流れてくる。岸辺の草は根元まで濡れ、流れに沿うように倒れていた。
ユウトは道の端へしゃがみ、土へ指を触れた。足跡はすでに輪郭を失い、湿った風は谷の奥から冷たく吹き下ろしている。
風路読みで分かるのは、風と道に残った変化だけだ。それだけでは、川がどこまで増えるかは決められない。
ユウトは浅瀬へ落ちた小枝が流される速さを見てから、対岸の水跡へ目を凝らした。石の下半分まで新しい濡れ色が上がっている。
「渡らないほうがいいです」
「今なら、まだ足首くらいですよ」
「上流で雨が強くなっています。濁りが増えているし、岸の草も少し前まで水に浸かっていたようです。渡っている途中で深くなるかもしれません」
リーネは浅瀬と地図を見比べた。
「高い道なら、かなり回ります」
「濡れやすい手紙を先に届けましょう。近道を使って全部を危険にするより、そのほうがいいです」
ユウトは配達先を頭の中で組み直した。
「大丈夫、まだ間に合う。一つずつ片づけましょう」
高い道へ上がるころ、風向きが変わった。谷を横切る強い風が外套を膨らませ、配達鞄の口を覆っていた布をあおる。
ユウトが押さえようとした瞬間、一通の封筒が包みから滑り出た。
風羽リスが甲高く鳴いた。
小さな体が鞄の中で跳ね、湿った封筒の上へ覆いかぶさる。助けようとしたのではなく、吹き込んだ雨と風から逃げる場所を探しただけなのだろう。羽を膨らませ、封筒へしがみつくように丸まっている。
それでも、封筒は飛ばされずに済んだ。
「動かなくていい。そこにいろ、小さいの」
ユウトは封筒ごと風羽リスを乾いた布で包み、配達鞄の奥へ戻した。封筒の端には水滴が付いている。
「このまま届けるのは危ないですね」
「道沿いに休憩亭があります。ここからなら、浅瀬を通らずに行けます」
二人は高い道を進んだ。
しばらくすると、雨の向こうに木製の風見鶏が見えた。道沿いの店は石壁と太い梁でできており、軒下には薪束が積まれている。
扉を開けると、温かな空気と豆の煮える匂いが押し寄せた。
「そんなに濡れて、突っ立ってないで入りな」
奥から現れた女性が、二人の姿を見るなり乾いた布を差し出した。
「セラさん、助かります」
「リーネちゃんじゃないか。地図を抱えて雨道とは、相変わらずだね」
リーネは濡れた前髪を押さえ、ユウトへ向き直った。
「こちらはセラ・ノルンさんです。この休憩亭の女主人で――」
「セラでいいよ。ここは風見鶏亭。雨の日くらい、遠慮せず使いな」
「ユウト・カザミです。風待ち小屋で郵便を預かっています」
「郵便屋かい。まず手紙を見せな。火のそばへ置きすぎると、紙が波打つよ」
セラは暖炉から少し離れた壁際へ細い紐を渡し、その下に乾いた板を置いた。風羽リスが布の隙間から顔を出すと、一瞬だけ目を見開いたが、手を伸ばしはしなかった。
「その子には、こっちの布を使いな。暖炉へ近づけると、今度は暑すぎる」
乾いた布は人の出入りが少ない椅子の下へ置かれた。風羽リスはすぐには移らず、鞄の奥で耳だけを動かしている。
ユウトは手紙を一通ずつ取り出した。濡れ色のないもの、包みの端だけ湿ったもの、封筒の角へ水が付いたものに分ける。
「急いで乾かしたくなりますけど、火へ近づけすぎないほうがいいんですね」
「紙は急に熱くすると波打つし、封蝋も緩む。風の通る場所で、布に水気を移してから吊るしな」
ユウトは乾いた布で封筒を挟み、押しつけずに水分を吸わせた。紐へ吊るす際も、文字や封蝋へ触れない位置を選ぶ。
その手つきを見ていたセラが、鍋から椀へスープをよそった。
「雑には扱わないんだね」
「預かったものですから」
「なら、冷める前にそれも受け取りな。まず食べな」
豆と根菜のスープは塩気が薄く、濡れた体へゆっくり熱を戻した。椅子の下では、風羽リスが乾いた布へ半分だけ移り、丸い目で周囲をうかがっている。
リーネは地図帳の滲んだ端を布で押さえながら、雨の道を描き足していた。
「浅瀬は雨が強くなると使えない、と。高い道へ上がる分岐は、この白樺の手前ですね」
「昨日来た旅人が、その先の斜面もぬかるむと言ってたよ」
セラは鍋を混ぜながら続けた。
「ただ、右端に古い石積みが残ってる。そこなら足場は少しましらしい。私は歩いてないから、確かめるなら自分たちで見ておくれ」
「聞いた話として印を分けます。実際に歩けたら、線をつなげますね」
「それなら安心だ。リーネちゃん、前より聞き方が細かくなったね」
リーネは少し驚いたあと、地図帳へ視線を落とした。
「想像で描くと、困る人がいるので」
「じゃあ、この店も書いておきな。雨のとき、休める場所が一つ分かるだけで違うだろう」
「それ、地図に残したいです」
雨が弱まる頃には、封筒の湿りもほとんど消えていた。
セラは包み直すための油紙を少し分けてくれた。保存食や香草を包むために使うものらしく、表面には薄く油が染み込ませてある。
「全部をこれで包むには足りないけど、湿気には布より強い。次から用意しておくといいよ」
「ありがとうございます。代金は――」
「今日はいい。次に来たとき、風待ち小屋まで無事に戻れたか教えておくれ」
信用されたというより、仕事ぶりを見ておこうと思われたのだろう。それでも、店へ入ったときより声は柔らかかった。
ユウトたちは濡れやすい手紙を油紙で包み、高い道から配達を再開した。
雨で予定より遅れたが、順番を変えたことで手紙はすべて届けられた。最後の一通を渡した頃には、雲の切れ間から薄い光が差していた。
風待ち小屋へ戻ると、ユウトは最初に配達鞄を開いた。風羽リスは乾いた布へしがみついたまま、疲れたように目を細めている。
「今日は災難だったな」
床へ布ごと置くと、風羽リスは寝床まで走り、奥へ潜り込んだ。完全に姿を隠したあと、しばらくしてから白い首元だけが見えた。
リーネは地図帳を机へ広げた。浅瀬には雨天時の注意を示す印が増え、高い道と風見鶏亭までの線が描き足されている。
「晴れの日と同じ順番では駄目ですね」
「道だけじゃなく、手紙の包み方もです」
二人は仕分け棚の近くに細い紐を渡した。棚そのものは傾いたままで、本格的な修理はできない。そこで軽い手紙だけを置く一角を空け、濡れた紙を乾かす場所と分けた。
ユウトは帳面へ新しい項目を書き足した。
油紙。防水袋。雨の日でも口が開きにくい配達鞄。濡れた包みを分けて入れる場所。
「それから、地図帳の包みもです」
リーネが付け加えた。
「はい。道標修理の材料を運ぶ前に、雨の日の道具を整えたほうがよさそうです」
窓の外では、屋根から落ちる雨粒が少しずつ間を空けていた。
寝床の中から、風羽リスが顔を出す。耳はまだ伏せられていたが、乾燥用の紐へ吊るされた空の包み布を見上げ、短く「ぷい」と鳴いた。
雨の配達は終わった。
けれど、晴れた日に歩けた道が雨の日にも同じとは限らず、乾いていた布が手紙を守り続けるとも限らない。
風待ち小屋の壁際には、新しい紐が一本増えていた。その下には、次の雨までに用意すべきものが、いくつも書き留められていた。




