【第6話】 木槌の響く集落
朝になっても、風待ち小屋の床には昨夜の雨の冷たさが残っていた。
ユウトは仕分け棚の下へ乾いた布を重ね、その脇に木の実を二つ置いた。棚の奥では、風羽リスが白い首元の毛を膨らませ、こちらの手元を見つめている。
「今日は少し遠くまで行ってくる。夕方には戻るからな、小さいの」
返事の代わりに、耳が一度だけ動いた。
リーネも地図鞄を肩へ掛けながら、風羽リスから少し離れた場所へ細い紐を置いた。
「寝床に使うかもしれません。布をまとめるには、ちょうどいい長さです」
「持っていくかどうかは、あいつ次第ですね」
「ですね。行ってきます、リスちゃん」
二人が戸を閉めるまで、風羽リスは仕分け棚の陰から出てこなかった。
枝音の集落へ続く道は、ルミナ村へ向かう道よりも森に近かった。白樺の間に混じって太い樹木が増え、道端には削られた木片や短い枝が落ちている。荷車の轍は浅く、代わりに木材を引きずったような跡が土へ細く残っていた。
リーネは預かった古い紙と自分の地図を何度も見比べた。
「この先で道が二つに分かれます。左が集落で、右は林の奥へ続く作業道です」
ユウトは足元へ視線を落とした。左側には新しい靴跡が重なり、乾きかけた泥の上に木屑が点々と続いている。
「木工職人のところなら、こちらで間違いなさそうです」
「木槌の音もします」
風が木々の間を抜けるたび、遠くから乾いた音が届いた。
コン、コン、と一定の間隔で響く音を頼りに進むと、斜面に沿って木造の家々が並ぶ小さな集落へ出た。軒下には板材が積まれ、窓辺には木の匙や椀が干されている。
音は集落の端にある広い作業場から聞こえていた。
屋根の深い建物の前で、腕の太い男が長い板へ楔を打ち込んでいた。削り屑の積もった床、壁に並ぶ鋸や鉋、長さごとに分けられた木材。どれも使い込まれているが、置き方に乱れはない。
男は木槌を下ろすと、二人を見た。
「仕事か」
「はい。倒れた道標のことで相談に来ました」
リーネが一歩前へ出た。
「こちらは、風待ち小屋を任されているユウトさんです。私はリーネ・アスト。以前、村の道具を直していただいたことがあります」
「覚えてる。地図を持って歩き回っていた娘だ」
男はユウトへ目を移した。
「トマ・レックだ。見れば分かるだろうが、木工をしている」
「ユウト・カザミです。よろしくお願いします、トマさん」
「挨拶はいい。道標はどうなってる」
ユウトは帳面を開き、根元から倒れていたこと、板が誤った方向を示していたことを説明した。支柱を元の穴へ戻し、平たい石と折れた枝で一時的に支えたことも隠さず伝える。
話を聞き終えたトマの眉間に、深い皺が寄った。
「水を吸った支柱を、石と生木で挟んだのか」
「はい」
「雨が降れば土が緩む。風を受ければ支柱が石へこすれて、傷口が増える。枝がずれれば、今度は板ごと道へ倒れるぞ」
低い声だったが、怒鳴ってはいなかった。それでも一つ一つの言葉が、木槌のように重かった。
「向きが違っていたので、せめて正しい道を示そうと思いました」
「考えは分かる。だが、木は立てれば済むもんじゃない。腐った根元を無理に起こせば、使える場所まで割れる」
ユウトは分岐で持ち上げた支柱の重さを思い出した。水を含んだ木の表面には、確かに細かな割れがあった。
「不十分でした。次に現地へ行くまで、どこに触れず、どこまでなら動かしてもいいでしょうか」
トマはわずかに目を細めた。
「風で板が道へ倒れそうなら、板だけ外せ。支柱は揺らすな。根元の土も掘るな。濡れた木へ新しい釘を打つのもやめろ」
「分かりました。記録しておきます」
ユウトが帳面へ書き込む間に、リーネは作業台の端を借りて地図を広げた。
「道標があるのは、この分岐です。今使われている道は左ですが、倒れた板は右を向いていました」
修正前の線と、現地確認後に描き足した線を示す。
「こちらがルミナ村側、こちらが風待ち小屋へ戻る道です。枝音の集落を示す板は、分岐へ近づく前から見える高さにしたいです」
「板が三枚要ると言いたいのか」
「できれば。文字は道へ正面を向けるのではなく、歩いてくる人から斜めに読める向きでお願いします。雨で草が伸びると下半分が隠れるので、今より少し高く――」
「注文だけは一人前だな」
トマが遮ると、リーネは口を閉じた。だが、地図を引っ込めはしなかった。
「想像だけで決めたわけではありません。こちらに、道の幅と足跡の向きを書いてあります。曲がった白樺から分岐までの歩数と、ぬかるみの位置も測りました」
地図帳の余白には、炭筆で細かな数字と印が並んでいた。
「背の低い板だと、ルミナ村側から来た人には、斜面の草に隠れます。反対側からは見えますが、それだけでは足りません」
トマはしばらく黙って地図を見たあと、太い指で分岐の印を押さえた。
「支柱の高さは現地で決める。板の向きは、この記録が合っているなら使える。ただし文字を増やせば板が広くなる。風も受けるぞ」
「では、板の幅を抑えて、集落名と方向だけにします」
「それでいい」
ぶっきらぼうな返事だったが、トマは地図を作業台から退けなかった。
工房の奥から、トマは乾燥した角材を一本持ってきた。次に、小さな木箱から先の細い楔を取り出す。
「腐った根元は切って交換する。使える上側が残っていれば継ぐが、割れが深ければ支柱ごと替える。穴の底には小石を入れて水を逃がす。支柱を立てたら楔で向きを決め、そのあと周りを固める」
「必要なものは、支柱用の木材と小石、固定用の楔ですね」
「それと人手だ。濡れた支柱は一人で支えられん」
ユウトは工房の脇に積まれた木材を見た。長い支柱を一度に風待ち小屋まで運ぶのは難しい。無理に担げば、道でも木材でも傷める。
「配達の帰りに、運べる長さの木材と小石を少しずつ風待ち小屋まで運びます。長い支柱は現地へ向かう日に、必要な人数で運ぶ形ではどうでしょうか」
「一度に全部持つと言わんのか」
「途中の道は狭いです。重すぎる荷物で足を取られたら、材料を傷めます」
トマは角材を作業台へ戻した。
「なら、小石は袋を分けろ。木材は俺が運びやすい長さへ切る。勝手に濡らすなよ、ユウト」
「はい。置き場所も先に整えます」
「雑に扱ったら、その場で持って帰るからな」
それは信用というより、仕事を任せてもいいか見極めるための条件だった。それでも、来た時より話は一歩先へ進んでいた。
相談を終えかけたところで、ユウトは風待ち小屋の仕分け棚を思い出した。
「もう一つ、聞いてもいいですか。小屋の棚が傾いていて、板の端を別の木で支えているんですが」
「何を載せる」
「手紙や小包を載せる予定です。初めは軽いものが中心になると思いますが、棚板ごとに傾き方も違います」
「継ぎ足しで支えるな。荷の重さが片側へ寄れば、支柱ごとねじれる。棚板の傷みと、床の傾きも見ろ」
リーネがすぐに地図帳の空いた頁を開いた。
「測る場所は、棚の幅と高さ、棚板の厚さ、それから札を付ける位置でしょうか」
「全部測ろうとするな。支柱の間、棚板の長さ、板ごとの荷の重さ。それと壁からどれだけ離れてるかだ」
「札の位置は?」
「棚を直してから決めろ。先に札へ合わせて棚を作るな」
リーネは一瞬だけ不満そうに炭筆を止めたが、すぐに頷いた。
「分かりました。必要な箇所だけ測ってきます」
「記録を持ってこい。数字が読めれば、見に行く前にも考えられる」
「はい。次はもっと上手くまとめます」
「細かすぎるのを減らせばな」
トマはそう言いながら、見本として小さな木片を二つ選んだ。乾いた材と、水を吸って傷んだ材だった。
「棚の支柱を軽く叩いて、音を比べろ。柔らかい音がする場所は印を付けておけ。ただし、削るな」
ユウトは木片を布へ包み、配達鞄へ収めた。
風待ち小屋へ戻る頃には、谷の風が朝よりも冷たくなっていた。
戸を開けると、仕分け棚の下に置いた木の実が一つ減っていた。乾いた布の寝床からは、細い紐の端がのぞいている。
「あれ……」
リーネが小声を漏らした。
風羽リスは紐を前脚で押さえ、布の間へ引き込もうとしていた。うまく入らないらしく、何度も首を傾けている。二人に気づくと動きを止めたが、すぐには棚の奥へ逃げなかった。
ユウトは戸口でしゃがみ、それ以上近づかなかった。
「使うことにしたのか、小さいの」
風羽リスは耳を伏せたまま、紐をもう一度くわえた。後ろ向きに数歩下がり、布の寝床へ持ち込む。紐が半分だけ外へ残ったが、それでも満足したのか、布の上へ丸くなった。
「巣にしたかったんですね」
リーネも地図鞄を静かに床へ置いた。
ユウトが持ち帰った木片を机へ出すと、風羽リスは鼻先を動かした。寝床から出るか迷うように体を伸ばし、やがて数歩だけ近づいてくる。
乾いた木片の匂いを嗅ぎ、もう一方の傷んだ木片には触れずに顔を背けた。
「こっちは気に入らないみたいです」
「湿った匂いが残っているんでしょう」
二人が動かずにいると、風羽リスは逃げる代わりに寝床へ戻った。紐の端を前脚で押さえ、こちらへ背を向けずに丸くなる。
同じ部屋に人がいても、すぐ隠れなくなった。
ユウトはその小さな変化を声にせず、机へ向かった。道標修理の札へ、必要な材料を書き足す。
支柱用の木材。水を逃がす小石。固定用の楔。材料は一度に運ばず、配達の帰路で分けて運ぶ。現地では支柱の状態を確認し、使える部分が残っているか見てから交換範囲を決める。
隣では、リーネが地図帳に道標の向きと板の枚数を書き込み、その次の頁へ仕分け棚の採寸欄を作っていた。
「棚板ごとの荷物の重さも調べないといけませんね」
「今の棚へ無理に載せるのはやめましょう。手紙と小包を載せる場所も分けておきます」
「札の位置は後回しです」
少し残念そうに言いながらも、リーネはその項目へ線を引いた。
窓辺で、風羽リスが急に顔を上げた。
耳と背中の羽が同時に震える。
外では、谷を抜ける風が窓板を細く鳴らしていた。冷たい風の中へ、湿った土と草の匂いが混じり始めている。
「また降りそうですね」
リーネが窓の外を見た。
ユウトは翌日の配達予定へ目を落とした。雨が強ければ、道標の支えも、ぬかるみも、今より悪くなる。手紙を守る布包みも足りない。
「予定を見直しましょう。濡らさないための準備も必要です」
寝床の中では、風羽リスが持ち込んだ紐へ鼻先を埋めていた。
木槌の音はもう聞こえなかったが、机の上には道標を直すための手順と、棚を直すための木片が残っている。外の風が雨を運んでくる前に、風待ち小屋で片づけることは、また一つ増えていた。




