【第5話】 倒れた道標
古い道案内とユウトの帳面を並べると、机の上には同じ場所を示しているはずの線が二種類できた。
リーネの地図では、風待ち小屋からルミナ村へ向かう道は途中で緩く曲がり、その先で一本の細道と交わっている。だが、ユウトの帳面には、その分岐の近くに「雨後、斜面側ぬかるみ」と書かれていた。
「この細道、今も使われているか分からないんです」
リーネは地図の線を炭筆の先で示した。
「古い聞き取りをもとに残した道なんですが、道幅も、どちらへ抜けるかも確かめられていません」
「俺の記録も、足元ばかり見ていて分岐の形までは書いていませんでした」
ユウトは帳面を閉じ、配達鞄へ入れた。
「実際に歩きましょう。雨上がりなら、道の状態も分かります」
「はい。それ、地図に残したいです」
二人が外套を羽織る間、風羽リスは窓辺に置かれた布の上からこちらを見ていた。白い首元の毛はすっかり乾いているが、人が動くたびに耳を立て、すぐ逃げられるよう前脚をそろえている。
「小さいの、留守番を頼むな」
ユウトが声をかけても、風羽リスは近づかなかった。羽を一度震わせただけで、窓枠の隅へ身を寄せる。
「行ってきます、リスちゃん」
リーネも無理に手を伸ばさず、戸を静かに閉めた。
雨上がりの谷には、湿った草と土の匂いが残っていた。白樺の葉から落ちた雫が、風に揺れるたび細かな音を立てる。
道は二本の踏み跡に分かれていた。
一方は草に覆われ、ところどころ土が見えているだけだった。もう一方は幅こそ狭いが、中央の土が固く締まり、靴や荷車の細い車輪が通った跡が重なっている。
「地図では、ここは一本なんです」
リーネが足を止めた。
ユウトはしゃがみ、草の倒れ方を確かめた。草に覆われた側は茎が同じ方向へ伸び、踏み戻された跡がない。湿った地面には古い窪みが残っているが、縁は崩れて丸くなっている。
反対側では、新しい靴跡の底に水が薄く溜まり、その上を別の足跡が踏み直していた。低い草も道の外側へ押されている。
風は丘側から流れ、使われていない道の上では茂った草に遮られて渦を巻いていた。人の通る側では、地面に沿ってまっすぐ抜けている。
「こちらが今の道です」
ユウトは土の締まった側を指した。
「草のほうは昔使われていた旧道だと思います。少なくとも、最近はほとんど人が通っていません」
「足跡だけじゃなくて、風も違うんですね」
「草が増えると流れが乱れます。まだ慣れていない場所なので、これだけで決めるのは危ないですが、土の状態とも合っています」
リーネは地図帳を開き、道を二本に分けて描いた。現在使われている道には太めの線を引き、旧道には薄い線を添える。
「道幅は、人が二人並ぶには狭いくらい。雨のあとでも中央は沈みにくい、と」
「旧道の入り口は草で隠れています。知らない人なら、道だと気づかないかもしれません」
「それも書きます」
二人は歩くたびに立ち止まり、地面と周囲の目印を確かめた。曲がった白樺、半分苔に埋もれた石、雨水が集まりやすい浅い窪み。地図の線だけでは分からなかったものが、一つずつ記録へ加わっていく。
やがて、道は斜面の手前で二つに分かれた。
古い道案内では、右へ進む線が濃く描かれている。リーネは地図を見て右へ足を向けかけたが、ユウトはその場で止まった。
「待ってください」
右手の道は、入り口こそ踏み固められているように見えた。しかし数歩先では、土が柔らかく崩れ、雨水が細く斜面を流れている。
左手には新しい靴跡がいくつも続いていた。
ユウトは斜面の下へ目を向けた。濡れた草の間から、黒ずんだ板の端がのぞいている。
「あれは……道標でしょうか」
二人で斜面を下りると、古い木製の道標が根元から倒れていた。支柱は土に半分埋まり、方向を示す板だけが斜面の傾きに引かれて右側へ向いている。
「地図と同じ向きです」
リーネの声が低くなった。
「この板を見た人は、右へ行きますね」
ユウトは分岐へ戻り、周囲の足跡を確かめた。
右側には途中まで靴跡があるものの、その多くは同じ場所で向きを変えていた。踏み直された土が重なり、引き返した跡になっている。左側の道には、荷を持った人の深い足跡が谷の奥へ続いていた。
「正しい道は左です。右へ入った人も、途中で違うと気づいて戻っています」
「道標が倒れたあと、板の向きだけが残ってしまったんですね」
「土地を知らなければ、そのまま進んでしまいます」
リーネは地図帳を胸元へ引き寄せた。
二人は倒れた支柱を持ち上げた。水を吸った木は重く、根元の土も崩れている。元の穴へ立てても、手を離せばすぐ傾いた。
「このまま直すのは無理ですね」
ユウトは周囲から平たい石を集め、支柱の根元を両側から挟んだ。リーネも折れた枝を運び、斜面側に当てる。
何度か角度を変え、板が正しい左の道を示す位置で止める。強い風が吹けば再び倒れる程度の応急措置だが、少なくとも誤った方向は指さなくなった。
右側の道の手前には、雨で深くなったぬかるみがあった。ユウトは目立つ白い枝を二本拾い、交差させて手前へ置いた。
「これも長くは持ちません」
「でも、知らずに踏み込むよりはいいです」
リーネは地図へ倒れた道標とぬかるみを書き込み、その横に小さな印を付けた。
「村へ相談しましょう。道標修理として記録しておきます」
炭筆を置いたあとも、リーネは地図を見つめたままだった。
「私、この右の道を残したままにしてました」
「古い情報だったんですよね」
「でも、確かめないまま線を残したのは私です。もし手紙を持った人が、この地図を信じていたら」
いつもの明るさが声から消えていた。
「道を間違えさせるところでした」
ユウトは自分の帳面を開いた。
「俺の記録にも、分岐の向きはありませんでした。初めて通ったとき、ぬかるみだけを書いて、道標まで見つけられなかった」
「でも、ユウトさんは地図を作る人じゃないです」
「配達に使う記録です。足りなかったことは同じです」
リーネが顔を上げる。
「地図だけが悪かったわけではありません。今日、二人で歩いたから分かりました。なら、この結果を一つずつ書き直しましょう」
ユウトは左の道へ続く足跡を見た。
「大丈夫、まだ間に合います」
しばらく黙っていたリーネは、やがて古い線の横へ新しい線を引いた。間違っていた線を消して隠すのではなく、薄く印を残し、その理由を書き添える。
「未確認だった場所も、分かるようにします」
「そのほうが、次に確かめる場所も見つけやすいですね」
「はい。次はもっと上手く描きます。というより、ちゃんと歩いてから描きます」
声にはまだ悔しさが残っていたが、炭筆を持つ手は止まらなかった。
ルミナ村へ着くと、バルドは村外れの石垣を見回っていた。二人の報告を聞き、濡れた地図と帳面へ順に目を落とす。
「勝手に打ち直さなかったのは正しい」
短く言い、倒れた道標の位置を尋ねた。
リーネは修正した地図を開いた。
「古い線を残したままにしていました。右へ行くように見える地図です。今日、実際に歩いて、現在使われている道と、道標の向きを確認しました」
言い訳をせず、誤っていた箇所と修正内容を示す。
バルドは長く黙って地図を見たあと、石垣の脇に置いていた革袋から、折り畳まれた古い紙を取り出した。
「その分岐は、木工職人のいる集落へ続く古い道だ」
紙には、今の地図にはない細い線と、いくつかの道標の位置が記されていた。
「集落の名は、枝音の集落という」
リーネは紙を受け取る前に、バルドの顔を見た。
「私が預かってもいいんですか?」
「間違いを隠す者には渡さん」
バルドは地図を指で軽く叩いた。
「だが、お前は直すために持ってきた。古い情報と今の道を比べろ。分からん場所は、分からんと書け」
「はい」
リーネは両手で古い紙を受け取った。
「必ず確かめて、記録します」
「道標修理には木を知る者が要る。枝音の集落へ話を通す必要がある」
その言葉に、ユウトは分岐で傾いていた支柱を思い出した。
風待ち小屋へ戻る頃には、空が再び灰色に曇っていた。
戸を開けると、風羽リスは寝床ではなく仕分け棚の下にいた。二人の姿を見ると一歩だけ後ろへ下がり、ユウトの濡れた袖へ鼻先を向ける。
「ただいま、小さいの」
近づかずに声をかけると、風羽リスは濡れた布の匂いを離れた場所から嗅いだ。次いで、耳と背中の羽を同時に震わせる。
窓の外で風向きが変わった。
「また降りそうですね」
リーネが地図鞄を机へ置いた直後、戸口にバルドが現れた。預けた古い紙が雨に濡れないよう、布包みを追加で持ってきたらしい。
風羽リスはすぐに棚の陰へ隠れようとしたが、途中で止まった。
バルドも足を止める。
「そいつか」
「はい。まだ人には慣れていません」
ユウトが答えると、バルドは風羽リスへ手を伸ばさなかった。革袋から木の実を一つ取り出し、自分の足元より少し離れた床へ置く。
「近づかんでいい」
それだけ言って、視線を外した。
風羽リスは羽を膨らませたまま、木の実とバルドを交互に見ている。すぐには取りに来なかったが、棚の奥へ逃げ込むこともしなかった。
「小さいのにまで試されてますね、村長」
リーネが小声で言う。
「騒がんだけましだ」
バルドはそう答え、古い紙を机へ置いて帰っていった。
雨粒が屋根を叩き始める。
ユウトは仕分け棚の脇へ新しい紙札を貼った。
『修理が必要な道標』
その下に、分岐の位置と、応急的に起こしたこと、ぬかるみの手前へ枝を置いたことを書き添える。
隣では、リーネが古い地図へ今日歩いた道を描き加えていた。使われている道、草に覆われた旧道、倒れた道標、危険なぬかるみ。空白だった場所に、実際の足元から拾った情報が並んでいく。
「本格的に直すなら、枝音の集落の木工職人に相談ですね」
「はい。支柱も板も、水を吸っていました。俺たちだけで直したら、すぐ倒れると思います」
「未修理、と」
リーネが地図の端へ書き込む。
棚の下では、風羽リスがようやく木の実へ一歩近づいた。だが、人の気配を確かめるように耳を動かし、まだ口にはくわえない。
風待ち小屋の壁には、新しい道の記録と、直すべき道標の札が残った。
道は一度歩いただけでは完成しない。地図も、記録も、倒れた道標も、これから少しずつ手を入れていく必要がある。
屋根を打つ雨音を聞きながら、ユウトは仕分け棚の札が剥がれていないことを確かめた。




