【第4話】 封筒と小さな寝床
朝の光が窓から差し込んでも、風羽リスは封筒の上で丸くなったままだった。
白い首元の毛は昨夜より乾き、濡れて細くなっていた尻尾も少しだけふくらみを取り戻している。前脚の間には、食べかけの木の実がまだ抱えられていた。
ユウトは作業机の前に立ち、手を伸ばしかけては止めた。
風羽リスの腹の下にある封筒は、今日中に仕分けておきたいものだった。端だけをつまんで引き抜こうとすれば、封筒が擦れる音で起こしてしまうだろう。かといって、このままでは机の半分が使えない。
試しに隣の紙束を持ち上げると、重なっていた封筒の角がずれた。
風羽リスの耳がぴくりと動く。
ユウトは紙束を抱えたまま、息を止めた。
しばらく待っても、風羽リスは目を開けなかった。小さな寝息だけが続いている。
「大丈夫。起こさないからな」
声を落とし、紙束を机の端へ寄せる。
しかし、その場所には昨夜閉じた帳面があり、さらに押しやると今度は帳面が床へ落ちそうになった。ユウトは片手で紙束を支え、もう片方で帳面を押さえた。
机の上に空きがない。
傾いた仕分け棚へ移そうにも、棚板は片側が沈み、古い封筒を載せただけでも滑り落ちそうだった。窓辺は朝露で湿りやすく、暖炉の近くでは熱と煤が気になる。床へ置けば、靴についた泥や埃から守れない。
風羽リスが安心して休めることと、これから預かる手紙を安全に置くことは、別々に考えなければならない。
昨夜は雨を避けられれば十分だった。だが、これからも同じ場所を選ばれたら、仕事は止まってしまう。
戸口を叩く音がしたのは、ユウトが紙束と帳面を抱えたまま立ち尽くしているときだった。
「ユウトさん、起きてますか?」
「はい。どうぞ」
戸が開き、リーネが地図鞄を肩に掛けたまま入ってくる。
彼女は最初にユウトを見て、次にその腕の中の紙束を見た。最後に作業机の上で丸くなっている風羽リスへ目を向ける。
口元がわずかに緩んだ。
「ずいぶん大事な場所を取られましたね」
「起こさずに仕分けを始めようとしたんですが、始める前に動けなくなりました」
リーネは笑い声をこらえるように唇を結んだが、風羽リスへ近づこうとはしなかった。戸口の近くで鞄を下ろし、小屋の中を見回す。
「手紙を置く場所と、この小さな子が休む場所を分けたほうがよさそうです」
「やっぱり、そうですよね」
「今は封筒のほうが、木箱より安心できる場所に見えるのかもしれません。机の上は床から離れてますし、暖炉にも近すぎませんから」
ユウトは壁際に置いた浅い木箱へ目をやった。
寝床として用意した箱は、傾いた仕分け棚のすぐ下にある。人が棚へ手を伸ばすたび、その上を腕や紙が行き来する位置だった。
「場所が悪かったか」
「それに、手紙の匂いが気に入った可能性もありますね」
「かじられていないだけ助かりました」
「今のうちに分けましょう。棚を使えるようにできませんか?」
ユウトは抱えていた紙束を椅子の上へ置き、仕分け棚の前へしゃがんだ。
棚板を軽く押すと、左側が沈んだ。支柱と棚板を留めている木栓が緩み、隙間ができている。下段には湿気で黒ずんだ跡もあった。
「本格的に直すなら、木材を替えたほうがよさそうです」
「今日は無理そうですか?」
「材料も道具も足りません。傾きを止めるだけなら、何とか」
ユウトは小屋の隅から割れていない木片を探し、棚板の下へ差し込んだ。厚みが足りない部分には薄い板を重ねる。支柱の緩んだ箇所には紐を回し、棚全体が横へ開かないように結んだ。
強く締めすぎれば古い木が割れる。
少しずつ張りを確かめながら、荷造りで使っていた結び方を応用する。最後に棚を両手で揺らすと、きしみは残ったが、先ほどのような傾きは止まった。
「これなら軽いものは置けます。ただ、応急処置です」
「重い紙束を上に置いたら危ないですね」
「下段に置きます。封筒は床から離して、上の段へ」
ユウトは窓からの距離と暖炉の火の向きを見比べた。
窓に近い右側は、雨の日に湿気が入りやすい。暖炉に近い左端は、火の粉や煤が気になる。中央の上段なら、どちらからも少し離れている。
「濡らしたくない封筒は、ここがよさそうです」
「でも、全部同じ場所に入れたら探しにくいですよね」
リーネは椅子へ腰を下ろし、地図鞄から小さな紙切れと炭筆を取り出した。
「配達先ごとに札を作りましょう。文字だけだと、急いでいるときに見間違えるかもしれません」
「札に印を付けるんですか?」
「地図では、場所の違いを形で分けることがあります。村なら四角、丘なら山形、森に近い場所なら枝の印、というふうに」
紙切れの一枚に四角い枠を描き、その下へ集落を示す文字を書く。次の札には丸みのある丘の形を、さらに別の札には枝分かれした線を描いた。
ユウトは札を受け取り、棚へ仮に並べてみた。
「見分けやすいですね」
「手紙を持ったままでも、形ならすぐ目に入ります」
「では、リーネさんは札をお願いします。俺は棚の位置を決めます」
言ってから、ユウトは棚と机の間を何度か歩いた。
作業机で宛名を確認し、振り返って棚へ入れる。棚が遠すぎれば手間が増え、近すぎれば椅子を引くときにぶつかる。机の右側へ寄せると窓に近くなるため、左後ろへ少しだけ移すことにした。
「そこだと、上段へ手を伸ばしにくくありませんか?」
リーネが札を切りながら尋ねる。
ユウトは実際に封筒を一枚持ち、椅子に座った状態から手を伸ばした。
「確かに、少し遠いです」
「棚をこちらへ向けるより、斜めにしたらどうでしょう。札も見えますし、通り道も狭くなりません」
二人で棚の脚を持ち、わずかに角度を変える。
ユウトが椅子へ座って封筒を入れ、立ち上がって戸口へ向かう。リーネはその動きを見ながら、棚から飛び出した紐の端を内側へ押し込んだ。
「今度は通れます」
「札も見やすいです」
「では、この向きで」
どちらかが一方的に決めるのではなく、実際に動きながら確かめる。ユウトが棚と机を整え、リーネが札の位置と見え方を直す。短い相談を重ねるたび、小屋の中の動きが少しずつ滑らかになっていった。
作業机の上で、紙がかすかに鳴った。
風羽リスが目を覚まし、前脚を伸ばしている。
黒い目で二人を交互に見たあと、封筒の上からゆっくり起き上がった。羽を一度震わせ、机の端へ進む。床へ降りる代わりに、隣へ置いてあった紙札の束へ飛び移った。
「起きたみたいですね」
リーネが声を落とす。
風羽リスは札の間を歩き、鼻先で一枚ずつ押した。やがて棚を縛るために残していた短い紐を見つけると、前脚で引き寄せ、口にくわえた。
「あ」
ユウトが声を漏らすと、風羽リスの耳が立った。
次の瞬間、紐をくわえたまま机から床へ跳び、低く滑るように木箱の陰へ逃げ込んだ。
ユウトは追いかけず、その場で足を止めた。
「小さいの、それは使うんだ」
木箱の陰から、紐の端だけが見えている。
リーネも近づかず、出口を塞がないよう机の反対側へ下がった。
「取り上げようとしたら、もっと離さなくなりそうですね」
「待ちます」
ユウトは木の実を一つ取り、木箱から少し離れた場所へ置いた。
風羽リスはすぐには出てこなかった。紐が小さく動き、ときおり細い歯が擦れる音がする。
「かじられる前に返してほしいですが」
「急かさないほうがよさそうです」
二人が作業へ戻ったふりをしていると、やがて白い毛が箱の陰からのぞいた。
風羽リスは紐をくわえたまま周囲を見回し、木の実へ目を留める。しばらく迷った末に、紐を床へ落とし、木の実へ駆け寄った。
ユウトはすぐには拾わなかった。
風羽リスが木の実を抱え、箱の反対側へ移動するのを待ってから、静かに紐を回収する。
「返してくれて助かった」
風羽リスは木の実をかじりながら、耳だけをこちらへ向けた。
ユウトとリーネは木箱の寝床を持ち上げた。
風羽リスが逃げられるよう、先に進路を空ける。寝床は作業机や仕分け棚から離し、暖炉のそばではあるものの、火に近すぎない壁際へ移した。人が戸口と机を行き来しても、影が頻繁に落ちない位置だった。
リーネがしゃがみ、箱の向きを確かめる。
「入口はこちらのほうがいいです。壁を背にできますから」
「では、布がずれないように直します」
ユウトが乾いた布を畳み直す間、リーネは寝床から棚までの間に紙や紐が落ちていないかを見た。小さな水入れも、人の足が当たらない隅へ移す。
作業机には必要な紙だけを残し、使わない封筒は札の付いた棚へ収めた。重い紙束は下段へ、濡らしたくない封筒は中央の上段へ置く。
すべてを入れ終えると、風待ち小屋の中には、これまでになかった空きが生まれた。
「一つずつ片づけると、ちゃんと仕事場に見えてきますね」
リーネが棚を見上げる。
「リーネさんの札がなかったら、ただ積み直しただけでした」
「ユウトさんが実際に使う位置を決めてくれなかったら、見やすいだけで取りにくい棚になってましたよ」
二人は顔を見合わせ、もう一度棚を確認した。
褒められたことに返す言葉が見つからず、ユウトは少しだけ視線を逸らした。
「これなら、次から相談しながら直せそうです」
「はい。私も、地図以外に印が使えるとは思ってませんでした」
リーネは最後の紙札を棚の端へ留めようとした。
そのとき、窓の隙間から入った風が札を持ち上げた。留める前の紙が棚から滑り、床へ落ちかける。
近くで木の実を食べていた風羽リスが驚いて身を引いた。
その前脚が、偶然にも札の端へ乗った。
紙は床へ落ちず、小さな足の下で止まった。
風羽リスは何が起きたのか分からない様子で、札と二人を交互に見る。
「助かりました」
ユウトは驚かせないよう、小声で言った。
「ありがとう、リスちゃん」
リーネも声を抑える。
風羽リスは札から足を退けると、木の実を抱え直し、寝床の陰へ移った。手伝ったつもりはなさそうだった。
リーネは札を拾い、今度は紐でしっかり棚へ留めた。
並んだ札と封筒を確認したあと、地図鞄から帳面を取り出す。棚の順番と地図に描かれた道を見比べていたが、やがて炭筆の先を止めた。
「どうしました?」
「札は分けられました。でも、配達する順番を決めるには、この地図だけじゃ足りません」
リーネは地図の一部を指でなぞった。
「ここから先の道幅と、雨のあとに通れるかどうかが書けていません。集落の位置は分かっても、どの道を先に使うべきかまでは決められないです」
ユウトは自分の帳面を開き、初配達で記録した時刻と危険箇所へ目を落とした。
「歩いて確かめる必要がありますね」
「はい。地図に残すためにも」
リーネは棚の札を見上げた。
仮の仕分け棚は完成した。これから預かる手紙を床や窓辺から離し、配達先ごとに分けられる。風羽リスの寝床も、仕事道具とは別の場所に移った。
けれど、これから棚に並ぶ手紙をどの順番で届けるべきか、その答えはまだ小屋の外にある。
窓の向こうでは、雨上がりの風が谷の道をゆっくり乾かし始めていた。




