【第3話】 雨宿りの小さな客
ユウトが伸ばしかけた手を止めると、小さな魔物は濡れた羽を大きく膨らませた。
実際の体より少しでも大きく見せようとしているのだろう。けれど、泥に濡れた羽毛は重く貼りつき、震える体を隠せていなかった。
「触らない。大丈夫だ」
通じるとは思わなかったが、声を低くして告げる。
小さな魔物は前脚を踏ん張り、草の奥へ逃げようとした。二歩ほど進んだところで足を滑らせ、それでも必死に茂みの陰へ潜り込む。葉の隙間から、黒い目だけがユウトを警戒していた。
追えば、もっと怯えさせる。
ユウトはその場にしゃがんだまま、呼吸の様子を見た。胸は細かく上下している。怪我があるかまでは分からない。風路読みで道の痕跡は拾えても、生き物の具合までは読めなかった。
「そこで待ってろ、小さいの」
ゆっくり立ち上がり、風待ち小屋へ戻る。
戸口の近くに置いてあった乾いた布を一枚取り、仕分け棚の下に転がっていた木の実を拾い集めた。昨夜、小屋の隅を掃除したときに見つけたものだ。虫食いのないものを二つ選び、布と一緒に外へ持ち出す。
小さな魔物はまだ草陰にいた。
ユウトの姿を見ると、耳を伏せてさらに身を縮める。
「近づかないからな」
雨の当たりにくい石垣のそばへ布を広げ、その端に木の実を置いた。小さな魔物からは数歩の距離がある。ユウトはそれ以上近づかず、道の反対側まで下がった。
濡れた草から雫が落ちる。
谷を渡る風が冷たさを増し、遠くの丘では灰色の雲が低く垂れ込めていた。長く待てば、また降り出すかもしれない。
それでも急かすわけにはいかなかった。
小さな魔物は動かない。ときおり鼻先を上げ、布と木の実の匂いを確かめている。ユウトが体勢を変えるだけで、その背中が固くなった。
しばらくして、草を踏む軽い足音が近づいてきた。
「ユウトさん?」
振り向くと、リーネが地図鞄を抱えて小道を上がってくるところだった。濡れた地面を避けながら戸口へ近づき、道端に立つユウトを不思議そうに見る。
「何をしているんですか?」
「弱った生き物がいます。近づくと逃げるので、出てくるのを待っています」
ユウトが視線で草陰を示すと、リーネは足を止めた。
葉の間からのぞく羽と、首元の白い毛を見つめる。すぐに近寄ることはせず、少し身をかがめただけだった。
「あれ……たぶん、風羽リスです」
「風羽リス?」
「背中の羽で、木から木へ滑る小さな魔物です。人の近くに住む個体もいますけど、警戒心は強いですよ。特に弱っているときは」
リーネの声には、見つけた喜びが混じっていた。けれど、手を伸ばしたりはしなかった。
「触りたいですけど、今は嫌がりますよね」
「さっき逃げられました」
「なら、待ったほうがよさそうです」
リーネは鞄の小さなポケットを探り、木の実を一つ取り出した。しゃがんだまま腕を伸ばし、ユウトが置いた布よりさらに離れた場所へそっと転がす。
木の実が土の上で止まると、風羽リスの鼻先がわずかに動いた。
「お腹は空いていそうですね」
「食べてくれればいいんですが」
二人は道端から距離を取り、風待ち小屋の壁際へ並んで立った。
やがて、風羽リスが草陰から顔を出した。
前脚を一歩進めては止まり、耳を動かして周囲をうかがう。いちばん近い木の実へ鼻先を寄せたが、ユウトが息を吸っただけで身を引いた。
それでも、しばらくすると再び近づいた。
木の実を前脚で抱え、細い歯で端をかじる。ほんの一口食べたところで空を見上げ、羽と耳を同時に震わせた。
直後、大粒の雨が落ちてきた。
石垣や屋根を叩く音が急に強くなる。風羽リスは木の実を落とし、ユウトが広げた布へ飛び込んだ。乾いた布の下へ頭を潜らせ、体を丸める。
「このままだと、布まで濡れますね」
「小屋へ入れたいですが、抱えるのは無理そうです」
ユウトが一歩近づくと、布の中から短い鳴き声がした。
「きゅっ」
明らかな警戒だった。
ユウトはすぐに足を止めた。
「分かった。持ち上げない」
雨脚はさらに強くなり、道に小さな水の筋ができ始めていた。ユウトは布の端だけをつまみ、風羽リスの様子を見ながら、ほんの少し戸口の方向へずらした。
布の中の体が固くなる。
そこで手を離し、また数歩下がる。
リーネも木の実を一つ、布の少し先へ置いた。
「少しずつなら、自分で動くかもしれません」
二人は急がず、布と木の実の位置を何度か変えた。
風羽リスはそのたびに警戒し、すぐには動かなかった。雨音に怯えて布へ潜り込み、静かになると鼻先だけを出す。木の実を見つけると短く跳び、また布へ戻る。
戸口までのわずかな距離に、思った以上の時間がかかった。
その間に、ユウトは風羽リスを驚かせないよう一度だけ小屋へ入り、冷えていた暖炉に火を入れた。
それでも最後には、風羽リス自身が木の実をくわえたまま軒下へ入った。
雨の届かない場所で立ち止まり、小屋の暗がりを見つめる。
ユウトとリーネは道を塞がないよう、左右へ離れた。
「中のほうが乾いてるぞ、小さいの」
風羽リスはユウトを見上げた。次にリーネを見て、耳を伏せる。
二人が動かないと分かるまで待ってから、敷居を越えた。
木の床へ小さな濡れ跡が点々と続く。風羽リスは暖炉の火に驚いて一度立ち止まったが、逃げ戻りはしなかった。壁際の暗い場所へ走り、傾いた仕分け棚の下へ隠れる。
「入りましたね」
リーネが声を抑えて言った。
「はい。あとは、休める場所を作ります」
ユウトは小屋の隅にあった浅い木箱を持ち出した。埃を払い、底へ乾いた布を重ねる。暖炉のすぐそばでは熱すぎるため、火の温もりがかすかに届く壁際へ置いた。
リーネは小屋の中を見回し、作業机の上に置かれた紙束と封筒を指した。
「食べ物は、紙から離したほうがよさそうです。風羽リスは木の実を隠すことがあるので」
「封筒の間に入れられると困りますね」
「地図をかじられるのも困ります」
リーネは冗談めかして言ったが、すぐに地図鞄の口をきちんと閉じた。
ユウトは木箱のそばに木の実を一つ置き、水を浅い器へ入れた。風羽リスが逃げ道を失わないよう、周囲には何も積まない。
二人は作業机から椅子を離し、暖炉の反対側へ移った。
棚の下から、小さな顔がのぞく。
風羽リスは木箱を見ていたが、ユウトたちがいる間は近づこうとしなかった。代わりに、落ちていた木の実を一つ拾い、前脚で抱えたまま仕分け棚の陰へ隠れる。
「寝床は気に入らなかったでしょうか」
「まだ、そこまで確かめる余裕がないのかもしれません」
リーネはしばらく見守っていたが、やがて窓の外を見た。雨は弱まり始めている。
「私は戻ります。暗くなる前に、道案内も直しておきたいので」
「あ」
ユウトは作業机に置いていた古い道案内を取り、彼女へ差し出した。
「借りたままでした。ありがとうございました」
「もう記録は終わったんですか?」
「必要なところは帳面に写しました」
リーネは道案内を受け取り、胸元へ抱えた。
「では、また道を歩いたら教えてください。直したいところが増えそうです」
「分かりました、リーネさん」
戸口へ向かう前に、リーネは棚の下へ目を向けた。
「無理に触らないから、安心してね。小さな子」
返事の代わりに、布の陰で羽がかすかに揺れた。
リーネが帰ったあと、風待ち小屋は急に静かになった。
ユウトは暖炉へ薪を一本足し、火が強くなりすぎないよう調整する。風羽リスは相変わらず隠れたままだったが、ときおり木の実をかじる小さな音が聞こえた。
「残れとは言わない」
聞こえる距離から、ユウトは静かに声をかけた。
「今夜だけでも、雨を避けろ。外へ出るのは、元気になってからでいい」
風羽リスは近づいてこなかった。
ただ、逃げ出しもしなかった。
夜が深まり、ユウトは作業机で帳面を閉じた。仕分け棚を直すために、机の上へ何枚かの古い封筒を並べていたが、今日はもう手をつける気力が残っていない。
暖炉の火を小さくし、寝床へ横になる。
しばらくして、かすかな物音で目を覚ました。
何かが紙を踏む音だった。
ユウトは起き上がり、暖炉の残り火を頼りに作業机を見る。
風羽リスが、机の上にいた。
用意した木箱ではなく、並べてあった封筒の上で体を丸めている。白い首元の毛はまだ少し湿っていたが、先ほどまでの震えは収まっていた。
前脚の間には、食べかけの木の実が抱えられている。
ユウトが近づきかけると、片方の耳がぴくりと動いた。
それ以上は進まず、足を止める。
「そこがいいのか」
もちろん返事はない。
風羽リスは目を開けることもなく、封筒の上で小さく息をしていた。
明日の朝、仕分け棚の片づけを始めるには、まずこの小さな客に場所を空けてもらわなければならない。
けれど今夜は起こさないことにした。
風待ち小屋の中に、自分以外の寝息がある。
それはまだ家族のものでも、相棒のものでもなかった。ただ雨を避けるため、同じ屋根の下に留まっている小さな命の音だった。
ユウトはその静けさを壊さないよう、そっと寝床へ戻った。




