【第2話】 遠回りの初配達
朝の光は、窓板の隙間から細く差し込んでいた。
ユウトが目を覚ますと、最初に聞こえたのは雨垂れの音だった。夜の間に雨は弱まったらしく、古い鍋へ落ちる雫の間隔は長くなっている。窓の外には薄い霧が残り、濡れた草の匂いが小屋の中まで入り込んでいた。
硬い寝床から起き上がり、ユウトは真っ先に仕分け棚へ向かった。
傾いた棚のうち、昨夜拭いた一段には布が掛けられている。その下から薄灰色の封筒を取り出し、封蝋、紐、紙の角を順に確かめた。湿りはない。布にも水気は移っていなかった。
「大丈夫だな」
声に出してから、もう一度封筒を乾いた布で包む。折れないよう平らな板の入った鞄の内側へ収め、その上へ軽い着替えを置いた。押さえつけすぎず、歩いても動かない位置を選ぶ。
借りた古い道案内、小さな帳面、短い鉛筆、予備の紐、硬焼きパンを鞄へ入れた。水筒を腰に下げ、戸口で靴紐を結び直す。
雨漏りも、薪置き場も、傾いた棚も残っている。
けれど、今朝片づけるべきものは小屋ではなかった。
「まずは、最初の配達だ」
鉄の鍵を回し、ユウトは風待ち小屋を出た。
夜の雨を吸った小道は柔らかく、踏むたびに靴底へ土がまとわりついた。谷を流れる風は冷たかったが、雲の切れ間は明るい。今すぐ強い雨になる様子はない。
道案内には、風待ち小屋からルミナ村へ戻る途中で脇道へ入り、麦畑の外れにある農家へ向かう線が描かれていた。昨日歩いた道と重なる区間までは、迷うことなく進める。
問題は、丘を一つ回り込んだ先にあった。
苔のついた古い道標が、二本の道の間で斜めに立っている。刻まれた矢印は左の道を示していた。道案内の線も、同じ方向へ伸びている。
だが、左手の道には人が歩いた跡がほとんどなかった。
石混じりの地面は黒く湿り、草の間には浅い水が溜まっている。一方、右手の斜面を回る細い小道には、薄いながらも靴跡が続いていた。
ユウトは道案内を開き、道標と見比べた。
「地図なら左か」
朝のうちに出発したとはいえ、土地勘のない自分が迷えば、どれほど時間がかかるか分からない。急ぐなら、示された道をそのまま進むべきにも思えた。
しかし、左の道から吹いてくる風には冷たい湿りが混じっていた。奥へ進むほど地面が低くなり、水が集まっているらしい。道の縁の草も、根元から同じ方向へ倒れている。昨夜の雨水が流れ込んだ跡だ。
ユウトはしゃがみ込み、地面へ目を凝らした。
古い靴跡が一つだけ残っていたが、踵の部分が深く沈み、先端は横へ滑っている。さらに奥には足跡が続かず、代わりに引き返したらしい乱れた跡があった。
右の小道には、形の違う足跡がいくつか重なっている。新しいものは雨のあとについたものだった。草は人の脚が触れる高さで外側へ倒れ、道の先からは乾いた風が抜けてくる。
足跡、土の湿り、草の倒れ方、風の流れ。
それぞれは小さな手がかりにすぎない。だが、重ねれば道の状態が見えてくる。
前の世界でも、配達先へ向かう途中で似たようなことをしていた。濡れた路面、車輪の跡、人の流れを見て、通れる道を探していた。ただ、それがここでは、もっと鮮明に感じ取れる。
「風路読み……か」
風の通る道を、残された痕跡から読む。
そう呼べば、自分の中でばらばらだった感覚が一つにまとまる気がした。
それでも、ユウトはすぐに右へ進まなかった。道案内に右の線はない。風路読みが示すのは、あくまで現在、この道を歩く者がいるということだけだ。その先が届け先へ通じている保証にはならない。
左へ数歩進み、杖代わりに拾った枝で地面を確かめる。先端はすぐに泥へ沈んだ。靴で入れば、膝下まで汚れる可能性がある。転べば、鞄の中の手紙も無事では済まない。
ユウトは左の道を諦め、右の踏み跡へ向き直った。
「大丈夫、まだ間に合う」
遠回りでも、手紙を傷めない道を選ぶべきだった。
斜面の小道は細く、何度か大きく曲がっていた。古い道案内にはない道だったため、ユウトは分岐ごとに足を止めた。畑へ向かう荷車の跡、切られた草、石垣の続く方向を一つずつ確かめる。
やがて前方から、紙を抱えた人影が現れた。
「ユウトさん?」
リーネが足を速めて近づいてきた。地図鞄を肩に掛け、裾には泥が跳ねている。
「リーネさん。どうしてここに」
「昨日の雨で道が変わっていないか、見ておこうと思って。ユウトさんが使う道でもありますから」
彼女はユウトの背後を見て、眉を寄せた。
「この小道から来たんですか?」
「はい。道標と道案内は左を示していましたが、かなりぬかるんでいました。人の踏み跡は、こちらに続いています」
ユウトが土の湿りや足跡について説明すると、リーネは笑って流さず、その場で地図を開いた。左の古道と、今いる斜面の位置を交互に確かめる。
「この線、古道のままですね。右の小道は、畑仕事の人が使い始めた道かもしれません」
「届け先まで通じていますか」
「途中で石垣沿いの道に合流します。少し遠回りですけど、農家へは行けます」
リーネは鉛筆を取り出し、地図の余白へ短い線を書き込んだ。
「左は雨のあと通行が難しい。右に現在の踏み跡あり……ほかに気づいたことはありますか?」
「左の道は奥へ向かって低くなっています。風も湿っていました。足跡は途中で引き返しています」
「分かりました。それも残します」
地図の誤りを隠そうとする様子はなかった。むしろ、聞いたことを取りこぼさないよう、何度も現地を見直している。
「すみません。私の道案内だけだったら、迷わせていました」
「古い道が残っていたから、分岐の意味が分かりました。何もなければ、右の道がどこへ続くのかも判断できませんでした」
リーネは少しだけ目を見開き、それから地図を畳んだ。
「では、ここからは一緒に確認しましょう。農家までは、もう遠くありません」
二人は石垣沿いの道へ入り、畑の間を進んだ。ユウトはリーネの案内を聞きながら、風路読みで確かめた痕跡と実際の道筋を照らし合わせた。
届け先の農家は、麦畑の端に立つ木造の家だった。軒下には農具が並び、濡れた長靴が逆さに干されている。
戸を叩くと、土のついた前掛け姿の男が出てきた。
「ルミナ村のバルドさんから、手紙を預かっています」
ユウトは名乗り、鞄から布包みを取り出した。包みを開き、薄灰色の封筒を両手で差し出す。
「道の確認に時間がかかりました。遅くなって、申し訳ありません」
男は封筒を受け取り、まず表面を指で撫でた。封蝋が割れていないこと、紙が濡れていないことを確かめると、張っていた肩をゆっくり落とした。
「いや、いい。雨のあとだったから、今日は来ないと思っていた」
その声に含まれた安堵は、封筒の中身を知らないユウトにも分かった。
「濡れてないな。本当に、ちゃんと届いた」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、ユウトの胸の奥に、静かな重みが残った。
前の仕事では、荷物を渡せば次の届け先へ急いでいた。受け取った人がどんな顔をしたのか、見る余裕もなかった。
今は、目の前の一通が誰かの暮らしへ届いたことを、はっきり感じられる。
「受け取っていただけてよかったです」
帰り道、ユウトは帳面を何度も開いた。ぬかるんだ古道、傾いた道標、分かりにくい分岐、斜面の小道が石垣沿いへ合流する地点。リーネも隣で自分の地図へ線を足していたが、必要以上の会話はなかった。
ルミナ村へ戻ると、バルドは倉庫の前で待っていた。
「届けたか」
「はい。封筒は濡らさず、受取人へ直接渡しました」
「時間がかかったな」
「道標と実際の道が食い違っていました。左の古道は雨でぬかるみ、右の小道に新しい踏み跡がありました。リーネさんと現地を確認して、遠回りしています」
ユウトは帳面を開き、記した内容を見せた。
バルドは黙って目を通した。厳しい表情は変わらない。
「急いで古道へ入らなかったのは、なぜだ」
「転べば、手紙を濡らすと思いました。時間より、無事に届けることを優先しました」
「そうか」
短い返事のあと、バルドは帳面を閉じて返した。
「判断は悪くない。約束は軽くないからな」
その声には、昨日までの値踏みする硬さがわずかに薄れていた。
「次の手紙も、お前に預ける」
ユウトは姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。届けて終わりではない」
バルドは帳面を指で叩いた。
「次からは、通過した時刻と道の状態を必ず残せ。雨のあとにどこが沈むか、道標がどちらを向いているか。次に歩く者が同じ場所で迷わんようにな」
「分かりました。記録します」
「忘れるな、ユウト」
「はい、バルドさん」
風待ち小屋へ戻るころには、雲の切れ間から淡い日が差していた。
ユウトは作業机の埃を拭き、帳面を開いた。出発した時刻、配達を終えた時刻、選んだ道、危険だった場所、地図との違いを順に書き出していく。
字にしてみると、歩いた道が一つの形になった。
次に同じ場所を通るときは、今日より迷わずに済む。自分だけでなく、リーネの地図にも、いつか別の誰かの役にも立つかもしれない。
鉛筆を置き、ユウトは記録した頁を見つめた。
風待ち小屋での仕事は、手紙を運ぶだけではないのだろう。
届けるために道を知り、次に届けるために残していく。
そのとき、開けたままの扉の外から、かすかな音がした。
「……きゅ」
風の音に紛れそうな、小さな鳴き声だった。
ユウトは立ち上がり、戸口から周囲を見回した。雨の残る道脇で、濡れた草がわずかに揺れている。
草をかき分けると、手のひらより少し大きなリスに似た生き物が丸まっていた。背中には羽毛に覆われた薄い羽が貼りつき、首元の白い毛は泥と雨で重く濡れている。
小さな体が、かすかに震えていた。
ユウトが近づくと、生き物は逃げようと身を起こした。だが、前脚が滑り、その場へ崩れる。
「大丈夫か、小さいの」
伸ばしかけた手を、ユウトは途中で止めた。
生き物は怯えた目でこちらを見ながら、濡れた羽を小さく震わせていた。




