【第1話】 風待ち小屋の鍵
麦畑を渡ってきた風が、ユウト・カザミの上着の裾を揺らした。
見渡す限り、背の低い石垣と黄金色の畑が続いている。その向こうには緑の丘が幾重にも重なり、谷の奥へ伸びる細い道は、途中から白樺の林に隠れていた。
見知らぬ土地だった。
屋根の形も、道端に積まれた薪の組み方も、行き交う人々の服装も、ユウトの知るものとは少しずつ違う。腰の鞄にはわずかな荷物しかなく、今夜眠る場所さえ決まっていない。
村の外れにある石造りの倉庫の前で、年配の男が腕を組んで待っていた。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、無駄のない視線がユウトの靴から鞄までを順に確かめる。
「お前が、ここで仕事を探している男か」
「はい。ユウト・カザミと申します」
ユウトが頭を下げると、男は短く頷いた。
「バルド・エイムだ。このルミナ村の村長をしている」
そこで初めて、ユウトは麦畑の村の名を知った。
「ここは風渡りの谷だ。村は小さいが、谷の奥にはほかにも人が暮らしている。歩けば半日、一日とかかる場所ばかりだ」
バルドは丘の向こうへ目を向けた。谷を抜ける風が、灰色の髪をわずかに乱す。
「道も悪い。雨が降れば崩れ、霧が出れば道標も見えん。そんな場所で、お前に何ができる」
値踏みする問いだった。
ユウトはすぐには答えなかった。できることを大きく見せても、この男には通じない気がした。
「荷物を運ぶ仕事をしていました。荷造りと、届ける順番を考えることなら慣れています。道については……まだ何も知りません」
「知らんことを、知ったふりはしないか」
「できません。間違った道を選べば、預かったものまで危険にさらしますから」
バルドの眉がわずかに動いた。
「預かったものが、古びた紙切れでもか」
「持ち主にとってどれほど大切なものなのかは、俺には決められません。預かった以上、粗末には扱いません」
しばらく、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
やがてバルドは倉庫の壁から背を離し、腰に下げていた大きな鍵を外した。鉄の鍵には赤茶色の錆が浮き、太い革紐が結ばれている。
「谷の古い郵便小屋がある。長く使われていないが、屋根と壁は残っている。寝泊まりする場所が必要なら、そこを使え」
ユウトは差し出された鍵を見たまま、手を伸ばさなかった。
「条件があるんですね」
「ある」
バルドは低く言い切った。
「小屋の名は風待ち小屋。昔は谷を回る郵便屋が使っていた。再び住むなら、お前も手紙を届ける仕事を引き受けろ」
「郵便屋……」
「村と集落の間を歩き、手紙や小包を運ぶ。決まった役所があるわけではない。銅貨で払う者もいれば、卵や薪で払う者もいる。道が悪ければ、戻ってくる判断も必要だ」
住む場所と仕事が同時に差し出されたことに、ユウトは戸惑った。しかし、飛びつくように頷くことはできなかった。
「まず、小屋と道を見せてください。それからでも、引き受けると答えていいでしょうか」
「慎重だな」
「大言を吐いて、約束を破るよりは」
バルドは鍵を握ったまま、じっとユウトを見た。
「では、一つだけ先に預ける」
懐から取り出したのは、薄い灰色の封筒だった。角には少し擦れがあるものの、封は閉じられ、紐も丁寧に掛けられている。
「明日の朝、届けてもらう手紙だ。宛先は道案内に記してある。今夜のうちに小屋を見て、無理だと思えば鍵と一緒に返せ」
ユウトは両手で封筒を受け取った。
まず封蝋に割れがないかを確かめ、紐の緩みや紙の湿りを指先で確かめる。封筒は乾いていたが、表面の紙は薄い。鞄の外側に入れれば、枝に擦れただけでも傷むだろう。
ユウトは鞄の中から布を取り出し、封筒を包んだ。着替えの下では押し潰されるため、平らな板の入った内側の区画へ収める。最後に鞄の口を閉め、留め具を二度確かめた。
「中身は尋ねないのか」
「配達に必要なことですか」
「いや」
「なら、聞きません」
バルドの表情は変わらなかった。ただ、鍵を渡す手から、先ほどまでの硬さが少しだけ抜けた。
「試す価値はありそうだ。案内をつける」
村長が振り返った先で、地図を抱えた若い女性が石垣の陰から姿を現した。肩に掛けた鞄から、丸めた紙と細い定規が覗いている。
「待たせましたか、村長」
「今終わったところだ。風待ち小屋まで頼む」
女性はユウトへ向き直り、明るく笑った。
「リーネ・アストです。地図職人見習いをしています。今日は案内役ですね」
「ユウト・カザミです。よろしくお願いします、リーネさん」
「こちらこそ、ユウトさん」
村を出ると、石畳の古道は麦畑の間をしばらく真っ直ぐに進んだ。だが丘の裾に差しかかるころには、石の隙間から草が伸び、道の輪郭は曖昧になっていた。
リーネは歩きながら地図を広げ、指で一本の線をなぞった。
「昔の道は、このまま石畳沿いに林へ入ることになっています」
「昔の道、ですか」
「はい。でも今は、こっちです」
彼女が示したのは、石畳から外れて斜面を緩く回り込む土の小道だった。人の足で踏み固められ、草が細く途切れている。
「雨の続いた年に、古道の一部が沈んだらしいんです。それから皆、この小道を使っています。地図にはまだ直しきれていません」
明るい声だったが、最後の言葉だけが少し早かった。
ユウトは古道の先を見た。地面は一見乾いている。しかし石の縁には黒い湿りが残り、その周囲の草は斜面側へ倒れている。谷から吹き上げる風も、古道の先で妙に冷たく淀んでいた。
「向こうは水が溜まりやすそうですね」
リーネが足を止めた。
「分かるんですか?」
「土の湿りと草の向きだけです。人が通った跡は小道のほうに多い。ただ、その先が安全かまでは分かりません」
ユウトは地図と分岐を見比べた。
「この先も、リーネさんの案内に従います」
一瞬、リーネは目を丸くした。それから小さく頷く。
「はい。小道は少し遠回りですけど、今はこっちが確実です。途中に倒木があるので、足元だけ気をつけてください」
斜面の道は狭く、ところどころ木の根が露出していた。ユウトは風向きや足跡を確かめながら歩いたが、分岐では必ずリーネへ尋ねた。彼女も地図だけを見ず、古い道標の傷や苔の付き方を確認して進んだ。
「ユウトさんは、もっと自分の勘だけで進む人かと思っていました」
白樺の林を抜けたところで、リーネが言った。
「そう見えましたか」
「少しだけ。村長に呼ばれた新しい人って、大抵、自分にできることを大きく言うので」
「俺は土地のことを何も知りません。分からない場所で断言するのは、怖いです」
「怖いって言えるなら、たぶん大丈夫ですね」
それは全面的な信用ではなかった。けれど、最初に向けられていた探るような視線は、もう薄れていた。
丘を越えた先に、古い郵便小屋はあった。
石の土台に木の壁を組んだ小さな建物で、屋根の一部は色が変わり、片方の雨樋は外れかけている。隣には馬屋らしい骨組みが残り、井戸のそばには枯れた草が腰の高さまで伸びていた。
「ここが風待ち小屋です」
リーネが扉の前で言った。
鍵は錆びていたが、何度か回すと重い音を立てて開いた。
中には乾いた埃と古い木の匂いがこもっていた。窓際の床には雨水の跡が広がり、天井から落ちた雫が、黒ずんだ板を規則正しく叩いている。壁際の仕分け棚は片方へ傾き、下段には鼠にかじられた紙片が残っていた。
奥の寝床には藁が薄く積もり、薪置き場では短い薪が崩れて床へ散らばっている。
「……住めないことは、なさそうです」
ユウトが言うと、リーネは少し困ったように笑った。
「前向きですね」
「そう言わないと、立っていられないだけです」
鞄から小さな帳面を出し、ユウトは室内を順に見て回った。
雨漏りは窓側に二か所。仕分け棚は上段が危険。寝床は藁を除けば板に腐りは少ない。薪は乾いているものと湿ったものを分ける必要がある。
「全部、今夜直すつもりですか?」
「いえ。手紙が濡れない場所と、眠れる場所だけです。一つずつ片づけます」
リーネは頷き、地図鞄から折り畳まれた古い紙を取り出した。
「これ、明日の届け先までの道案内です。古いので、描かれていない曲がり道もあります。村を出たあとの分岐は、右の石垣を目印にしてください」
「借りてもいいんですか」
「そのために持ってきました。戻ったら、実際に歩いた道を教えてください。直したいので」
「分かりました。必ず返します」
リーネは扉の外へ出る前に、傾いた棚を一度振り返った。
「上の段には物を置かないでくださいね。たぶん、夜中に落ちます」
「気をつけます。今日はありがとうございました、リーネさん」
「明日、無理はしないでください。道が分からなくなったら、戻るのも仕事ですから」
彼女の足音が小道の向こうへ消えると、小屋には雨垂れの音だけが残った。
ユウトはまず、手紙を包んだ布を鞄から取り出した。部屋の中央にある作業机は埃をかぶっていたが、天井に染みはない。乾いた布で端を拭き、封筒を壁側へ置く。
次に、雨漏りの下へ欠けた桶と古い鍋を並べた。棚は倒れないよう壁へ寄せ、安全そうな一段だけを念入りに拭く。そこへ手紙と道案内を置き、上から別の布を掛けた。
寝床の古い藁を外へ運び、比較的乾いた板の上に自分の外套を広げる。散らばった薪は壁際へ積み直したが、すべて整える前に日が落ち始めた。
薄暗い室内で、油灯の小さな火が揺れた。
雨漏りは止まっていない。棚も傾いたままで、寝床は硬い。明日の道も、まだ紙の上でしか知らなかった。
それでも、手紙は乾いている。
ユウトは机の上の鉄の鍵を握り、次に封筒の形を布越しに確かめた。
「届けるって決めたから」
声にすると、不安が消えたわけではない。ただ、何をすべきかは見えた。
明日の朝、この小屋から歩き始める。
風待ち小屋で過ごす最初の夜、ユウトは手紙の置かれた棚をもう一度確かめてから、硬い寝床へ身を横たえた。




