【第34話】 決まった日に吹く風
翌朝の風待ち小屋には、乾いた紙の匂いが満ちていた。
作業机の上には、ここ数日分の配達記録が日付順に並べられている。手紙を預かった日、届けた日、依頼の数、天候、通った道。リーネが整理した紙片の横で、ユウトは椅子に座ったまま一件ずつ印を確かめていた。
休んだおかげで手の震えは収まっていたが、肩と脚にはまだ重さが残っている。立って棚を往復する作業は避け、記録を机へ運ぶ役目はリーネに任せていた。
「ここ、見て」
リーネが三日前の欄を指した。
「ルミナ村から五件。その翌日は、風見鶏亭で預かった分を合わせて四件。でも、その次の日は一件だけ」
「依頼が来た順に出ていたからですね」
ユウトは別の日の記録を引き寄せた。ミルネル丘へ二件、枝音の集落へ一件。その日の帰りには、追加で預かった封筒を届けるため、翌朝もう一度同じ道の途中まで歩いている。
「同じ方角へ行く荷物が、別の日に分かれています」
「それで、少ない日に無理してでも届けようとしちゃう」
責める言い方ではなかった。
ユウトは急ぎ便の印があるものだけを抜き出した。赤い紐が付いた封筒は、並べた記録の中に二件しかない。それ以外は、届ける日が一日遅れても暮らしに大きな支障が出ない依頼だった。
「急ぎ便と、それ以外を分ければ、歩く日をまとめられます」
「うん。でも、距離だけでまとめると、また詰めすぎるよ」
「分かっています」
答えながらも、ユウトの視線は空白の日へ向いていた。
ここに一件。こちらにも一件。そう埋めれば、待たせる時間をもっと減らせる。
考えかけたところで、机の端に前日作った休配札が見えた。
歩ける日をすべて配達日にするのではなく、歩けない時にも予定を崩さず済む形にする。そのために記録を広げている。
扉が二度、低く叩かれた。
「入るぞ」
バルドが厚手の外套を脱ぎながら入ってきた。手には、折り畳んだ紙が数枚ある。
「各所で聞いてきた」
机へ置かれた紙には、集落ごとの都合が短く書かれていた。
ルミナ村では、麦の選別をする日の午後なら家にいる者が多い。ミルネル丘では、羊を遠くへ出さない日でなければ受け取りが難しい。枝音の集落では、木工品の受け渡しが重なる日を避けた方がよい。
「急ぎ便でないなら、決まった日の配達へまとめた方が受け取る側も待ちやすい」
「こちらの歩きやすさだけで決めるわけにはいきませんね」
「約束は、届ける側だけのものじゃない」
バルドの言葉に、ユウトはうなずいた。
依頼の数が少ないからと急に訪ねても、相手が羊を追って丘の向こうにいれば渡せない。木工品の積み込み中に手を止めさせれば、かえって負担になる。
「ルミナ村は、麦の選別が終わる日の午後。ミルネル丘は羊を近くへ戻す日。枝音の集落は受け渡しが少ない日を候補にしましょう」
「候補だ」
バルドは強く言った。
「天気も道もある。決めたから必ず行け、にはするな」
「はい」
リーネは新しい紙を広げ、三つの集落名を書き込んだ。その間へ道の線を引き、横に歩いた時間を記す。
「ルミナ村までは、この時期なら朝から歩けば余裕がある。ミルネル丘は風が強い日だと、同じ時間では着かない。枝音の集落へ行く道は、雨の後に森際がぬかるむ」
さらに、道の途中へ小さな丸印を付けた。
「風見鶏亭で休憩する時間も入れる。ここを省いた予定は、予定じゃなくて願望だから」
ユウトは苦笑しそうになったが、否定はできなかった。
「風路読みで早く通れる日もあります」
「遅くなる日もあるよね」
「あります」
ユウトは配達記録の天候欄を照らし合わせた。晴れた日は白樺の小道が使える。雨の後は浅い坂道の方が安全だが、遠回りになる。秋が深まれば、森寄りの道は落ち葉で足元が見えにくくなる。
「早く着けた記録を基準にするのはやめます。悪い条件でも戻れる時間で組みましょう」
「それ、地図に残したい」
リーネは紙の端へ、晴天時と雨天時の経路を分けて書き足した。
昼前には、全員で風見鶏亭へ移った。
「まず食べな」
セラは話を聞く前に、黒パンと温かい豆のスープを並べた。ユウトが椀へ手を伸ばすのを確かめてから、机の空いた場所へ木札を置く。
「亭で依頼札を預かるなら、仕込みの少ない日がいいね。朝から晩まで受けるんじゃなく、昼までに持ってきてもらう。急ぎ便は別にして、次の配達へ回す」
「預かった数は、こちらの記録にも写します」
リーネが言うと、セラはうなずいた。
「私の字が読みにくかったら、その場で言っておくれ」
「読めます。でも、届け先の目印は一緒に書いてください」
「そこは任せな」
扉の外で木の擦れる音がした。
トマが細長い板を肩に担いで入ってくる。板には横向きの溝がいくつも彫られ、形の違う札を差し込めるようになっていた。
「壁に掛ける。札を差し替えれば、予定が変わっても板ごと作り直さずに済む」
ユウトは立ち上がりかけたが、トマに睨まれた。
「座ってろ。今のお前に持たせるために作ったんじゃない」
「すみません」
「謝る前に雑に変えるな。決めた予定を気分で動かすなって意味だ」
トマは板を壁へ当て、取り付ける位置を確かめた。
「だが、天気や体調で変える時は札を替えろ。動かせない作りじゃ、使い物にならん」
形の違う札が棚へ並べられると、ポルカがすぐに寄ってきた。丸い札、角の落ちた札、先が尖った札。それぞれ軽く、口でくわえられる大きさになっている。
「ポルカ、これをあそこへ」
ユウトが丸い札を指し、板の左端を示した。
「きゅ」
ポルカは札をくわえて跳ねた。だが、途中で別の溝へ目を奪われ、そのまま中央へ押し込んでしまう。
札は斜めに引っかかった。
「違うよ、ポルカ。こっち」
リーネが左端を指差す。
ポルカは札と二人の顔を見比べ、耳を伏せた。
「大丈夫。もう一度だ」
ユウトが短く手招きすると、ポルカは札を抜いた。今度は板の前で一度立ち止まり、指差された場所へ鼻先を寄せる。前脚で溝を確かめ、丸い札を押し込んだ。
ぴたりと収まった。
「よくできたな、ポルカ」
「今度は合ってるよ」
ポルカは胸を張り、羽を小さく広げた。
「ぽるる」
「毛玉に任せるのは札運びまでだぞ」
トマが言うと、ポルカは胸を張ったまま尻尾だけを揺らした。
午後、風待ち小屋へ戻ると、机の上に日ごとの予定表が広げられた。
ルミナ村へ向かう日。ミルネル丘へ向かう日。枝音の集落へ向かう日。風見鶏亭で依頼札を預かる日。それぞれの横に、休憩地点と悪天候時の変更条件が書かれている。
「ここが空いています」
ユウトは二つの空欄を指した。
「短い配達なら入れられます」
言った直後、リーネが顔を上げた。
「入れたら、雨で一日ずれた時は?」
「次の空きへ移します」
「その次も雨だったら?」
答えが止まった。
バルドが腕を組む。
「空きは余りじゃない」
セラも椅子の背に手を置いた。
「休む日でもあるし、遅れを受け止める日でもあるよ」
ユウトは予定表を見た。
すべて埋まった表は、よく働ける表に見える。だが、一つでも崩れれば、その後の約束を押し出していく。昨日までの自分なら、それを歩く時間を増やして取り戻そうとしただろう。
疲れていても、まだ動けると考えて。
「空けておきます」
ユウトはペンを置いた。
「体調、天候、荷物量のどれかで予定を変える時、その日を使えるようにします。何もなければ、記録整理や道具の点検に充てます」
「それなら始められるね」
リーネは最後の線を引いた。
「まずは試して、無理が出たら直そう。道は歩けば増えるけど、予定も使いながら育てればいい」
全員で内容をもう一度確かめた。
急ぎ便は決まった日を待たずに相談する。それ以外は、集落ごとに決めた日にまとめる。風見鶏亭では決めた日に依頼札を預かり、次の便へ回す。天候が悪い時や荷物が多すぎる時は、休配札を出して空けてある日へ移す。
「これを、定期便と呼びませんか」
ユウトが言った。
バルドは予定表を見下ろし、短くうなずいた。
「分かりやすい」
「じゃあ、この表は定期便予定表だね」
リーネが紙の上部へ、丁寧な文字を書き加える。
定期便予定表。
完成した一枚は、トマの作った板の隣へ掲示された。ポルカが丸い札をくわえ、今度は迷わず正しい溝へ差し込む。
夕方になる頃には、掲示を見に来た村人が風待ち小屋の前へ立ち寄り始めた。
「次のルミナ村の便に、冬用の豆袋も頼めるかい」
「ミルネル丘へ毛糸を送るなら、同じ日にまとめた方がいいのかね」
「枝音の集落へ、薪箱の留め具を頼みたいんだが」
相談はまだ依頼ではない。荷物の重さも、受け取る側の都合も確かめる必要がある。
ユウトは一件ずつ記録し、すぐに引き受けるとは言わなかった。
「次の定期便に載せられるか、荷物量を確認して返事をします」
それでも、人々は次にいつ相談すればよいかを知っていた。掲示された日付を見て、自分の暮らしに合わせて手紙や荷物を用意できる。
風が扉脇の休配札を揺らし、その隣で定期便予定表の紙がかすかに鳴った。
歩く日と、歩かない日。
届けるために使う時間と、約束を崩さないために残しておく時間。
どちらも同じように、郵便屋の仕事の中へ入り始めていた。




