【第33話】 休むための札
翌朝、雨は上がっていた。
風待ち小屋の屋根から落ちる雫も、時折ぽつりと軒下を叩く程度になっている。窓の外には薄い霧が残り、井戸の周りの土はまだ暗く湿っていた。
ユウトは作業机の前に立ち、棚から手紙と小包を次々に下ろしていた。
ルミナ村へ返す手紙が二通。休憩亭へ届ける小さな包み。さらに別の集落へ回す封筒と、机の端に置かれたままだった荷物。トマから預かった羊柵修理の返答もあるが、修理や運び込みの日程はまだ決まっていない。
それでも、行けるところまで一度に回れば、待たせる日数を減らせる。
ユウトは配達鞄の口を広げた。
「今日は、全部持っていくんですか?」
向かい側で記録板を開いていたリーネが尋ねた。
「回る順番を工夫すれば、夕方までには戻れます」
「昨日の旧道の記録、清書が途中だよ」
「帰ってからやります。先に届けた方がいいものもありますから」
肩には、雨の中を歩いた重さがまだ残っていた。屈むと足の裏にも鈍い痛みが走る。
疲れていることは分かっている。
だが、動けないほどではない。
ユウトは小包を防水布で包み、紐を回した。普段なら荷物の底を十字に支え、最後に結び目を横へ逃がす。ところが、その朝は紐を一周させただけで輪を作り、そのまま引いた。
結び目は止まっているように見えた。
そのまま記録帳を開き、届け先と荷物の数を書き込んでいく。手紙を一通、二通。小包を一つ。次の行へペン先を移そうとしたところで、インクが小さく紙へ落ちた。
ユウトは指先を握った。
「ユウトさん」
「大丈夫です。少し力が入りにくいだけで」
ポルカが棚から机へ下りてきた。いつものように開いた配達鞄へ入るかと思ったが、縁へ前脚を掛けただけで動かない。
「今日は雨じゃないぞ」
「ぷい」
ポルカは鞄から離れ、ユウトの袖口へ噛みついた。強く引くのではなく、何度も小さく後ろへ身体の重みを掛ける。その先には暖炉があり、昨夜から残した熾火が赤く光っていた。
「ポルカ、出発だ」
「きゅ」
今度は袖を引いたまま、暖炉の方へ二歩進む。
リーネはポルカではなく、机の上の荷物を見ていた。小包を持ち上げ、紐へ指を差し入れる。輪は抵抗なく緩み、防水布の端が浮いた。
「これ、このまま歩いたら途中でほどけるよ」
ユウトは小包を受け取り、紐を見た。
「……結び直します」
「その前に、記録を見せて」
記録帳と机の上の荷物が一つずつ照合される。リーネの指が、封筒の上で止まった。
「この一件、書かれてない」
小さな封筒だった。棚から下ろしたことは覚えている。だが、記録帳には届け先も預かり物の印もなかった。
「今、書きます」
ユウトはペンを取ろうとした。
手が、わずかに震えた。
軸をつかむまでに一度指が滑り、ペン先が机へ転がる。拾い上げようと伸ばした手も、普段より遅れていた。
「ユウトさん、この状態では荷物を持ち出せない」
リーネの声は静かだった。
「紐が違う。記録も一件抜けてる。手も震えてるし、返事もいつもより遅い」
「まだ動けます」
「歩けるかどうかの話じゃないよ」
「待っている人がいます。今日行けるものまで延ばすわけには――」
ユウトは小包の紐をほどき、いつもの結び方で掛け直そうとした。
紐が指から落ちた。
乾いた音を立てて、床に輪が崩れる。
ポルカが驚いて羽を膨らませたが、拾いには行かなかった。ユウトの足元を見上げ、耳を伏せている。
動ける。
小屋の外へ出て、道を歩くことはできる。
けれど、荷物を安全に包めない。預かった数を正しく記録できない。その状態で出発すれば、待たせないための配達が、荷物を失わせる原因になるかもしれない。
扉が開き、冷えた朝の空気と一緒に湯気の匂いが入ってきた。
「やっぱり、朝から働いてるね」
セラが蓋付きの鍋を抱えていた。机の上と床の紐を一目見ると、鍋を作業机へ置く。
「まず食べな」
「セラさん、今日は配達が」
「その手で鍋を持てる?」
返事をする前に、椅子を引かれた。
豆と芋の入ったスープが木椀へ注がれる。香草の匂いが立ち上ったが、空腹より先に胸の奥が重くなった。
ユウトは匙を握り、しばらく湯気を見つめた。
「俺が休んだら、連絡まで止まります」
口に出すと、不安がはっきりした形になった。
「手紙を預かっても、いつ届けるか決めるのは俺です。今日行かないと決めたら、待っている人には何も伝わらない」
リーネは向かいの椅子へ座った。
「だから、休むためにも予定を組み直す必要があるんだと思う」
責める口調ではなかった。
「全部を今日運ぶんじゃなくて、急ぐものと待てるものを分ける。延期するなら、相手に分かる形で知らせる。それなら、ユウトさんが休んでも連絡そのものは止まらないよ」
少しして、バルドも風待ち小屋へ来た。
机の上へ依頼を並べ、送り主から聞いた事情と届け先を一件ずつ確認する。急ぎと明記されたものはなく、今日中でなければ困る荷物もなかった。
「明日に回せ」
バルドは短く言った。
「全部ですか」
「今日は運ばない。説明は必要だが、無理に出る理由はない」
ユウトは唇を結んだあと、うなずいた。
「送り主には、俺から話します」
ルミナ村まで荷物を持たずに出向き、延期する依頼の送り主へ一軒ずつ事情を伝えた。
「体調が戻らないまま運ぶと、荷物を傷めるおそれがあります。安全に届けるため、配達を明日以降へ変更させてください」
謝るだけではなく、理由と新しい予定を伝える。
相手は驚いた顔をしたが、荷物を雑に扱われるよりいいと了承してくれた。別の送り主も、急ぎではないから休める時に休んでほしいと言った。
風待ち小屋へ戻ると、リーネが記録帳の横に新しい紙を広げていた。
「確認するのは三つでどうかな」
紙には、短い言葉が並んでいる。
体調。天候。荷物量。
「体調に不安がある時。悪天候で安全な道を選べない時。荷物が多すぎて確認や運搬に無理が出る時。このどれかに引っかかったら、一人で出発を決めない」
「リーネさんか、バルドさんに相談する」
「うん。急ぎじゃない便は、予定を組み直す」
ユウトは紙を見つめた。
「今日は、体調で止まるべきでした」
「今日は、じゃなくて、次から止まれるようにするんだよ」
リーネは未記入だった一件を記録帳へ書き足した。
「私も荷物と記録を照合する。ユウトさんが全部見なくてもいいようにするから」
その言葉に、ユウトはすぐ返事をできなかった。
任せれば、見落としが減る。
分かっていたはずなのに、自分が確認しなければ約束を守れないと思い込んでいた。
「お願いします、リーネさん」
弱さを隠すためではなく、仕事を守るために頼む。
「記録の整理を、半分任せてもいいですか」
「もちろん」
リーネは明るく笑ったが、いつものように軽く流さなかった。
「でも、私が抜けた時はユウトさんが言ってね。お互いに止められる方がいいから」
「はい。そうします」
午後、バルドが薄い木札を二枚持ってきた。
一枚には配達を休む印を、もう一枚には延期を知らせる印を付ける。文字はリーネが見やすく書き、紐はユウトが椅子に座ったまま通した。
「風待ち小屋の外と、掲示板に掛けます」
「理由を細かく書きすぎる必要はないね。今日は配達を休むことと、預かりはできるかどうかが分かればいい」
体調、天候、荷物量を確認し、相談して予定を変える。掲示する場所と、札を外す条件まで決めたところで、セラが二枚を並べた。
「呼び方が長いねえ」
リーネが少し考え、ペンの軸で紙を軽く叩いた。
「まとめて、休配札にしない?」
バルドが札を見て、うなずく。
「分かりやすい」
こうして二枚の札は、休配札と呼ばれることになった。
風待ち小屋の扉脇へ休配札を掛ける。風が吹くと木札同士が小さく触れ、乾いた音を立てた。
ユウトは暖炉の前の椅子へ戻った。ポルカは肩へ登らず、膝掛けの上で丸くなる。白い首元の毛が、呼吸に合わせてゆっくり上下していた。
机では、リーネが記録帳と荷物を照合している。
「この封筒は返事待ちの棚。小包は明日の便に移すね」
「お願いします」
「羊柵修理の返答は、まだ日程が決まってないからそのまま」
「はい。修理も運び込みも、別に確認が必要です」
夕方には、延期した荷物がそれぞれの棚へ戻され、紐も包みも改めて点検されていた。配達予定は書き直され、今日の日付には休配の印が残る。
ユウトは椅子に座ったまま、扉脇の休配札を見た。
休むことは、仕事を投げ出すことではない。
けれど、札を掛けただけでは、依頼を持ってきた人が次にいつ預ければいいのか分からない。誰かが休んでいる間にも、連絡を受け取り、次の便へつなぐ方法が必要になる。
「配達する日と、依頼を受ける日を分けた方がいいかもしれません」
ユウトが言うと、リーネは記録帳から顔を上げた。
「定期便と受付日?」
「はい。休んでも、次にいつ動くか分かるようにしたいです」
ポルカが膝の上で「ぽるる」と喉を鳴らした。
外では、休配札が夕方の風に揺れている。
届けるために歩く日だけでなく、歩かない日も仕組みの中へ入れる。
その方がきっと、預かった約束を長く守っていける。




